連載小説『五十人格作家』⑥
🩶第6章 原稿の到着
ーーー編集部・午後(現在の少し前)ーーー
文芸誌「群青」編集部の廊下は、午後の紙の匂いで満ちていた。
透間 空音(とうま そらね)は、胸に抱えた“新作の完成原稿”をそっと持ち直した。
受付に顔を出すと、
「空音さん、こんにちは。久遠さんは今、会議で──」
と言いかけたそのとき、
「僕が受け取ります!」
新人編集者・真木が、小走りで現れた。
少し息を切らしている。
「すみません、空音さん。新作……完成したんですね。」
「ええ。全部書き終わりました。節ごとに文体が揺れている部分は、そのままです。」
真木は両手で丁寧に原稿を受け取った。
ページの厚みに、わずかに腕が沈む。
「……これは、相当ありますね。」
「七十章くらいになると思います。読むのは、大変だと思います。」
真木は苦笑しつつ、原稿の重さを確かめた。
「でも、読みます。必ず。空音さんの作品は……何度でも読みたいので。」
その言葉は、ファンでもあり、編集者でもある彼の本音だった。
「空音さん。この量だと、久遠さんも、覚悟が必要ですね。」
空音は小さく笑った。
「久遠さんは読んでくれますよ。読むことを恐れているようで……一番“作品に触れる人”ですから。」
真木は頷いた。その横顔は真面目で、迷いがなかった。
「空音さん……一つだけ確認してもいいですか?」
「なに?」
「この原稿、久遠さんには……何か“伝えておいた方がいいこと”はありますか?」
空音はわずかに視線を伏せ、そして静かに言った。
「……あるわ。文体が節ごとに変わっている理由。本当は私が説明しないといけないんだけど……」
「お伝えします。僕が。」
「ありがとう。でも……きっと理解されないと思う。」
空音は少し息を吸い、続けた。
「私が直すと、“誰の声だったのか”が消えるの。あの文章の呼吸を、私が壊してしまう。
……だから、触れられない部分なの。」
真木は原稿を抱え直し、深く頷いた。
「わかりました。そのままの形で、お届けします。言葉も、呼吸も、手を加えずに。」
「お願い。私が触れられなかった部分ごと、渡して。」
「必ず。」
真木は丁寧に頭を下げ、編集部の奥へ歩き出した。
空音はその背中を見送りながら、胸の奥に小さなざわめきを感じた。
――この作品を読む人の中で、“声”はどう響くのだろう。
午後の光が、原稿の紙の縁を淡く照らしていた。
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