『気配』⑦
第7章 感覚の裏側
① 自分の体温がわからない
シャツの中に指を差し入れても、
布の温度が“自分のもの”なのか、わからなかった。
指先が冷たいのか、
それとも、胸が冷たいのか。
どちらが温度を奪っているのか、判断できなかった。
額に手を当てても、“他人の肌に触れている”ような違和感。
体は確かにここにあるのに、
その内側で感じていたはずの“熱”が感じられなかった。
まるで、感覚のコードが断線している。
身体はあるのに、それを感じる自分が**“少し外側に浮いている”。**
呼吸はしているのに、
その空気すら“借り物”のようだった。
② 指が触れていないのに濡れている
テーブルに手を置いただけで、
指の腹に湿り気がにじんだ。
濡れているはずのない場所で、
触れた覚えのない液体が、指先にまとわりついていく。
水ではない。
汗とも違う。
ただ、そこに“既にあった”かのように、静かに染みてきた冷たさ。
確認しようと明かりを向けたが、
視覚には何も映らない。
だが、触感だけが確かに存在し、
指先の皮膚が“濡れたものを触った後の感触”を保持していた。
そして次第に、
その濡れた感触が、“自分の内側”から溢れていたのだと気づく。
③ 足元の床が、呼吸している
夜中にふと目覚めて、
足を床に下ろすと――
床が“ふくらんで”沈んだ。
木材のはずなのに、
そこには空気の“反発”があり、
歩くたびに、まるで**“誰かの胸の上”を踏んでいる**かのようだった。
一歩ごとに、
柔らかな圧と、吸い込むような空気の流れが足裏を包む。
この部屋が、家が、
**「生きて呼吸している」**としか思えなかった。
そして、足元から伝わるリズムが――
自分の心拍とぴたりと重なっていることに気づいた瞬間、
その呼吸が“合わせてきている”と感じて、思わず後ずさった。
④ 匂いが記憶を刺してくる
押し入れの奥から、
かすかに“香ばしい匂い”が漂ってきた。
どこかで嗅いだことがある。
焼けた布のような、埃を帯びた古い匂い。
懐かしさが込み上げる――はずだった。
だが次の瞬間、“胸の奥に激痛”が走った。
記憶ではなく、
匂いそのものが“感情の針”のように突き刺さってくる。
涙が滲み、手が震え、
体が勝手に“ある記憶”を思い出そうとする。
それは思い出ではなかった。
**“感覚の中に埋められた記録”**だった。
匂いが、思考よりも先に心を傷つけてくる。
そして、またひとつ――**“触れてはいけない過去”**に、目を開かされた。
⑤ 誰かの涙の味がする
眠れずに、口に水を含んだ。
ぬるいはずの水に、“しょっぱさ”が混じっていた。
舌の奥で広がったのは、
自分の涙ではない。
**“他人の泣いた水”**のようだった。
それは、悲しみというより、沈黙の味だった。
飲み込むたびに、喉が詰まる。
呼吸がうまくできない。
それでもなぜか、口は水を求め、
繰り返し飲むたびに、
“誰かの悲しみ”が体内に蓄積されていく感覚があった。
その夜、夢の中で、
自分の口からぽたりと涙が零れた。
味は、あの時のままだった。
⑥ 目を閉じた方がよく見える
暗い部屋。
電灯も月明かりもない空間で、
瞳は何も捉えられないはずだった。
しかし、ふと目を閉じると――
部屋の中が、はっきり“見えた”。
棚の上の時計、床に置かれたスリッパ、
カーテンのわずかな揺れまで、目蓋の裏に映っていた。
目を開けると真っ暗。
閉じれば、全体が“見えて”しまう。
それは視覚ではなく、
空間そのものに“視られている”感覚だった。
どこかに“目”がある。
その目が、こちらに像を“与えてくる”。
そのうち、視界の中心に、
“こちらを覗き返す瞳”が浮かび始めた。
⑦ 手が多い/指が多い
キーボードに触れようとして、
ふと手元を見ると――指が6本ある。
驚いて見直すと、5本に戻っていた。
だがもう片方の手が、**どこにも“収まりきっていない”**感覚。
服の袖から、もう一本、何かが動いた気がした。
感覚としての“手”が多い。
操作していないのに、何かが“自分の動作を追いかけてくる”。
自分が一人でいない感覚。
ただし、それは“他人”ではなく、
“もうひとりの自分”が、同じ肉体を使っている感触だった。
いつから一緒にいたのか、思い出せない。
でも確かに、今、“もう一組の手”が、すぐ横に存在していた。
⑧ 吐いた息が返ってこない
寒さで白くなった吐息が、
二度と自分の元へ戻ってこなかった。
呼吸するたびに、肺が動く。
だが、吸っても吸っても、
“空気が胸に届かない”。
吸っているのに、息苦しい。
吐いた息が、どこかへ吸収されてしまう感覚。
まるで誰かが、自分の呼吸を奪っている。
呼気が、壁の隙間へ、床の奥へ、
“誰かの口元”に吸い込まれていくようだった。
それでも息は続く。
ただし、「自分のものではない何か」のための呼吸として。
⑨ 光が皮膚を通り抜ける
朝、光が差し込む。
だがその光は、皮膚で止まらなかった。
腕に触れた陽射しが、そのまま“内側を通過”していく。
血管や骨の影が、皮膚の裏に浮かび上がるように感じた。
やがて、腕の奥がほんのり熱を帯びた。
それは表面ではなく、神経の奥が照らされている感覚。
影をつくろうとしても、手のひらから先に透けて見えた。
光が通る。
つまり、この体は“光を遮れなくなっている”。
自分の存在そのものが、
物理の「対象」ではなくなってきているのかもしれなかった。
⑩ 肉体の輪郭があいまいになる
ふと立ち止まって、
自分の手首を見つめた。
そこに、“線”がなかった。
皮膚と空気の境界。
それがぼやけて、“存在のにじみ”のように広がっていた。
触っても実感がない。
それは手首に限らず、足首、肩、腹部……
すべての“端”が曖昧になっていた。
「どこまでが自分で、どこからが空間か」
そんな問いが頭を離れなかった。
気づけば、
呼吸のたびに胸が“膨らんでいる”のではなく、
**空間のほうが“こちらに膨らんできている”**感覚すらあった。
境界が消える。
それは、消滅ではなく、“吸収”だった。
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