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『気配』②

第2章 壁越しの呼吸


① 隣室から響く脈拍

夜、布団に入ってから耳を澄ますと、隣の部屋から微かな音がした。
音というより“振動”に近い。
水が流れる音でも、テレビの音でもない。
それは、一定の間隔で震えるような、低くて鈍い鼓動だった。

壁越しに感じるその“脈拍”は、まるで巨大な心臓が
部屋と部屋の境目で呼吸しているような音圧をともなっていた。

時計の秒針と一致しないリズム。
それが逆に、人工的ではなく**“生き物の中の鼓動”**だと確信させた。

「隣の人かな」と思おうとするたびに、
そのリズムが、こちらの心拍とズレていくのが気持ち悪かった。
やがて自分の体の鼓動さえ、それに合わせて乱れていった。


② 声ではない、でも確かな声

その夜、壁を伝って“声のような何か”が聴こえた。
言葉にはならない。
だが、確実にそこに**“意図”がある音**だった。

電化製品のノイズではなかった。
子どもの泣き声とも違う。
まるで、言葉になる直前の息のかたまりが、
壁の中で蠢いていたような、湿った“喉の震え”。

耳を当ててみる。
ザッ……ザザ……フッ……といった、
意味のない音の合間に、自分の名に似た音節が混じっていたように感じた。

その瞬間、耳を離した。
音よりも先に、“呼ばれた”と確信した自分の直感が恐ろしかった。


③ ひとつの咳が、こちらを見た

午前2時すぎ、壁の向こうから**“咳払い”の音**が響いた。
それは短く、乾いた音で、誰かが“いる”ことをさりげなく知らせるようだった。

「ただの生活音だ」と思った。
だがその咳は、まるで“こちらに向かってされた咳”のような気配を纏っていた。
向こうに“人”がいて、自分の存在に気づいた上で出された音だった。

普通の生活音に潜む、意識の残り香。
それが“気配”として染み込んでくるのを感じた。

さらに怖かったのは――
咳のあとに全く音が続かなかったこと。

テレビの音も、水の音も、歩く気配もなく、
ただ、咳だけを残して沈黙が訪れた。
その沈黙が、「さあ、次は君の番だ」と語っているように感じた。


④ ドアの隙間から吸い込まれる温度

部屋のドアを閉め切っているはずなのに、
床と扉のわずかな隙間から、**外の空気が“吸い込まれている”**のが見えた。

埃がふわっと吸われていく。
風の流れではない。
まるで、**扉の向こうに誰かが“深く息を吸い込んでいる”**ようだった。

電気を消して、明かりの向こう側からこちらをじっと見て、
こちらの気配だけを、**嗅ぎ取るように“吸っている”**感じ。

吐き出される空気がないことが、
その吸気が“呼吸”ではなく捕食の準備であることを告げていた。

ドアの向こうに、体はない。
だが、“気配”だけが肺を持ち、
こちらの体温を測っているようだった。


⑤ 曇らない鏡

バスルームの鏡が、湯気で曇らなかった。
シャワーを浴びても、湯を張っても、
鏡は曇ることなく、“誰かが使っていた直後”のような乾き方をしていた。

それは、拭き取ったような跡ではなかった。
まるで、自分の代わりにもう一人が使ったという痕跡だけが残っているようだった。

鏡に映る自分の輪郭が、どこかぼやけていた。
光の反射角も、背後の映り込みも正常だったのに、
**“映ることを拒まれているような映像”**がそこにあった。

目をそらして、再び見返すと、
そこに映っていた自分の姿が、わずかに目線を逸らしたように見えた。

そしてその顔の角度が――
今の自分の顔の向きとは、ほんの少し違っていた。

⑥ ずっと続く換気音の正体

深夜、家全体が沈黙に包まれる頃、ふと気づく音があった。
壁際のあたりから、一定の“サーッ”という音が、かすかに響いている。
最初は換気扇だと思った。あるいは空調の循環かとも。

だが、キッチンもバスルームも電源は落ちている。
換気扇のスイッチも、切。
音は、それでも止まなかった。

耳を近づけてみると、その音は壁の中から続いていた。
まるで、壁の向こうに**“大きな肺”が埋まっていて、ずっと静かに息を吸っている**ような――
そんな生々しい空気の流れだった。

問題は、その音が“吸う”だけで、“吐かない”ことだった。
一方通行の呼吸。
まるでこちらの存在を、“取り込もう”としているかのようだった。


⑦ “気配”が部屋に上がり込む

夜中、何の前触れもなく、部屋の中の空気が変わった。
カーテンが揺れたわけでも、窓が開いたわけでもない。
それでも、明らかに“他人の空気”が、この部屋に上がり込んできた。

感覚としては、“よその人が家に上がったとき”に感じる、あの独特の匂いと湿度。
でも今回は、玄関は閉まっていて、鍵も掛けてある。
つまり、誰かの“存在”だけが、家の中に踏み込んできたということになる。

ソファの位置が、少しずれていた。
観葉植物の葉が、床の方に傾いていた。
細かい変化ばかり。けれど、気配だけは、壁よりも内側に確かにあった。

足音もなく、物音もなく、
ただ“それ”はもう――入っていた。


⑧ 止まったままの時計の針が動いた

午前3時。
ふと壁掛けの時計に目をやると、針が止まっていた。
秒針が12の位置でピタリと静止している。
「電池切れかな」と思った瞬間――

針が、“逆方向”に一瞬だけ動いた。

その動きは不自然に滑らかで、まるで誰かが裏から手でつまんで回したようだった。
機械ではなく、“意思”のある指先による操作。
それが針の微かな振動に残っていた。

そのあと秒針は再び止まり、何事もなかったかのように沈黙した。

でも、目を逸らせなかった。
あの一瞬、“時間”そのものがこちらを見返してきたような、
目に見えない視線が針の中心に集まっていたような感覚があった。


⑨ 心音が、自分のじゃない

横になっていると、胸の奥から心臓の鼓動が聴こえる。
だが、そのリズムがどうもおかしい。

呼吸のペースに合わない。
寝返りを打っても、姿勢を変えても、ずっと一定のテンポで鳴り続ける“心音”。

やがて、はっきりとわかった。
それは“自分の鼓動じゃない”。

脈を取る。ずれている。
心音は、どこか別の場所から、皮膚の内側に響いている。

まるで隣にもう一人、体を重ねた“誰か”がいて、
その人間の心臓が、自分の体を通して響いているような――
そんな“二重の生”の感覚。

それは音じゃなかった。
“存在”の振動だった。


⑩ 壁の向こうに顔がある

朝方、ほとんど眠れぬままにふと起きると、部屋の壁の一点がどうしても気になった。
照明の淡い光に照らされて、そこだけがほんのわずかに暗い。

近づいてみる。
ただの壁紙。傷もない。
でも、なぜか――その部分から、“視線”が流れてくる。

手を伸ばすと、壁の冷たさが指に触れた。
だが、その瞬間、**壁の内側から“まぶたの開く感覚”**が返ってきた。

想像ではない。
確かに、誰かが壁の中で目を開け、こちらを見ている気配があった。

声もなく、音もなく、動きもないのに、
その“目”だけは、自分のすべてを見透かしていた。

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