ミステリー長編『100人自主-裁けない国の物語-』第1章④
第1章 選択
第4話 計算:榊修司
榊は、全文を読まなかった。
正確に言えば、
読む必要がない部分を飛ばした。
彼が確認したのは、三点だけだ。
・成立条件
・失敗条件
・切り捨てられる対象
それ以外は、装飾だった。
最初に目に留まったのは、
「報酬」の項目ではない。
「確認される場合に限り」
その一行だった。
曖昧だが、雑ではない。
法律文書に似た逃げ方をしている。
次に目に入ったのは、
「問い合わせには応じません」
これは誠実さではない。
責任を持たない宣言だ。
そして最後に、
「取り消せません」
榊は、ここで初めて画面を閉じた。
彼は、過去に一度だけ、
金を「取り逃がした」経験があった。
理由は単純だ。
条件を、読み切ったつもりで、
読み切れていなかった。
それ以来、
彼は契約文を軽く扱わない。
だが、鵜呑みにもしない。
信じるのは、
書かれている言葉ではなく、
その裏で成立する構造だけだ。
榊は、紙に三つの円を描いた。
一つ目。
成立する人間
二つ目。
切り捨てられる人間
三つ目。
どちらにも属さない人間
彼が入るべき場所は、
最初から決まっていた。
事件は、選ばなかった。
選ばされる事件を待った。
ニュースを遡り、
検察の動きを確認し、
再捜査が入る可能性のある案件を外す。
条件は一つ。
「起訴されない理由が、
最初から用意されている事件」
それだけだ。
出頭の日。
榊は、
最初から「協力的」だった。
よく話し、
よくうなずき、
よく訂正した。
供述は簡潔で、
感情は置かない。
動機は語らない。
だが、否定もしない。
肯定も否定もせず、
事実だけを並べる。
刑事は、
「頭のいいやつだ」と思った。
それで十分だった。
捜査は、形式通りに進んだ。
榊は、
被疑者として書類送検された。
だが、数日後。
検察は、起訴を見送った。
理由は、証拠不十分。
榊の名は、
「被疑者」として一度記録され、
同時に、処理済みとして閉じられた。
釈放の紙を渡されたとき、
誰も「無罪」とは言わなかった。
刑事は、事務的に言った。
「今回は、ここまでだ」
それだけだった。
榊は何度も「自分がやった」と言った。
だが、その言葉は、
記録として残ることはなかった。
否定もされない。
肯定もされない。
ただ、
最初から想定していた処理として、
記録が閉じられただけだ。
それ以上の手続きは、
用意されていなかった。
帰り際、
若い警官が小さく言った。
「……あなたは、何だったんですか」
榊は答えなかった。
その質問に、
答えを持っている者が、
この建物に一人もいないことを、
もう知っていたからだ。
数週間後。
彼は、
例のページをもう一度開いた。
リンクの先に、
小さな更新があった。
「記録確認完了」
それだけだった。
振込は、
事務的だった。
通知もない。
連絡もない。
ただ、
残高が増えていた。
一千万円。
端数のない、
きれいな数字だった。
榊は、
その金をすぐには使わなかった。
一週間、
何もしなかった。
ニュースを見て、
名前の出ない自首者の記事を眺め、
コメント欄を流し読みした。
誰も、
彼のことを知らない。
誰も、
彼に感謝もしない。
誰も、
彼を恨みもしない。
それでいい。
榊は、
この募集が
成立したと判断した。
これは、
罠ではない。
だが、
試験ではある。
落ちる人間は、
必ず出る。
彼は、
最後に一つだけ考えた。
「この仕組みを作った人間は、
たぶん、
合格者が出ることを
ちゃんと想定している」
だからこそ、
成立する。
榊は、
もうこの話をしない。
語る必要がない。
記録は残った。
金も残った。
罪は、
どこにも属していない。
彼は、
静かに生活へ戻った。
何も壊さず、
何も救わず、
ただ、
条件を満たした。
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