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ファンタジー小説「余白共和国 ― 壊れずに生きるための国 ―」




あらすじ


 一つの冗談から始まった「余白共和国」は、本音と余白のあいだで壊れずに生きるための“未完成国家”だった。

 文芸高校では、生徒たちが言いすぎる本音と、言えずに残る余白のあいだで揺れ続ける。

 観察者・黒崎余白や、ただ静かに立ち続ける教師の存在を通して、国家は少しずつ形を持ちはじめる。

 やがて大統領・静月は、若き日に本音をすべて言えた“ひとつの関係”を思い出す。

 それは失われたのではなく、形を変えて今も続いていた。

 完成しないことを選び続けるこの国で、人は“壊れずに生きる方法”を探し続ける。

第1章 ひとつの冗談から国は生まれた


 余白共和国は、最初から国家として設計されたわけではない。

 そのことを、一番よく分かっているのは、たぶんホンネ・ヨハーク一世――いや、静月その人だった。
 
 それは国家としての名前であり、静月という一人の人間の、もう一つの名でもあった。

 正式名称を名乗れば少し偉そうだが、今のところ彼の主な仕事は、大統領というより、静月書店の高層階をうろつきながら、時々思いついたように国を増築することだった。

 静月書店は、共和国の中心に建つ高層ビルである。

 外から見ればただの奇妙な本屋だ。

 けれど中に入れば、そこが単なる本屋ではないと誰でも分かる。

 階ごとに作品が並び、作品ごとに時間が積み上がり、時間ごとに感情が沈殿している。

 下の階ほど古く、上の階ほど新しい。

 だが、単なる時系列ではない。

 そこには失敗した頃の匂いも、誰にも読まれなかった夜の手触りも、勢いだけで投稿した朝の熱も残っていた。

 それらはもともと、記事だった。

 けれど今、それらはもう記事ではなかった。

 フロアだった。

 通路であり、展示であり、記録であり、言ってしまえば、静月という一人の男がどう転び、どう立ち上がり、どう笑いながら壊れてきたのかを、あとから歩いて読めるようにした建築物だった。

 朝、静月は七十八階で立ち止まった。

 『辿りついた場所』。

 その文字だけが静かに浮かんでいる。

 ここだけは、他の階とは空気が違った。

 看板も画像も、妙に静かだった。

 ここは書店でありながら書店ではなく、作品展示室でありながら、ほとんど告白そのものに近い場所だった。

 その奥に置かれているのは、彼がようやく辿りついた生き方を示す作品群――本音を隠し続けた末に崩れた男が、それでもなお言葉を捨てずに立っていることを示す文章たちだ。

 静月は、そこに掲げた詩を読み返した。

 ここに来るまでにいくつ言葉を捨てただろう

 自分で書いたのに、少しだけ胸が詰まる。

「泣きそうになります?」

 背後から声がした。

 振り向かなくても分かった。

 黒崎余白だ。

 文芸フライデーの記者であり、共和国で一番、人の間の空気を嗅ぎ取るのが上手い男。

「なりますよ」

 静月は言った。

「自分で書いたやつに、自分でやられてる」

「大統領らしからぬ発言ですね」

「大統領だからじゃなくて、人間だからです」

 黒崎は笑った。笑いながら、七十八階の壁を見上げる。

「でも、ここまでちゃんと作ってるのに、まだ“国家は思いつきで生まれた”って言い張るんですね」

「だってそうなんですよ」

 静月は肩をすくめた。

「本当に、最初は何もなかったんです。書店も、学校も、フライデーも、国家も」

「ええ。最初は本当に、ただの一言でしたからね」

 その一言を、二人とも覚えていた。

 ――国でも作るつもりですか?

 どこかのコメント欄だった。

 冗談だった。

 笑いながら投げられた、たぶん半分はツッコミで、半分は本気じゃない一言。

 けれど静月は、そういう言葉を放っておけない男だった。

 面白い、と思ったら、その場で終わらない。

 あとから意味が生まれそうなものに、どうにも弱い。

 そんなもの最初から意味なんてないに決まっている。

 けれど、意味にならないものの中にだけ、あとから生まれる本物がある。

 彼はずっと、それを知っていた。

 だから建ててしまった。

 学校を作り、フライデーを作り、書店を作り、その上に国を作った。

 ついでに大統領室まで作り、国旗まで作り、憲法まで定めてしまった。

 しかもその大統領は、認証の都合で発信できず、読み専門だった。

 ふざけている。

 しかし不思議なことに、ふざけているだけでは終わらなかった。

 人が入り始めたのだ。

 静月書店にフォローが増えた。

 フロアを行き来する人が出てきた。

 職員室や編集室にスキがつき、余白共和国の大統領室にコメントがついた。

 笑いながら作ったものたちが、あとから居場所のような顔をし始めた。

 黒崎は言った。

「僕、思うんですけど」

「なんですか」

「静月さんって、最初から“建ててた”んじゃないですか」

「何をです?」

「国家じゃないです。生き方そのものを」

 静月は答えなかった。

 だが、その言葉が少しだけ響いたのは事実だった。

 最初から、そうだったのかもしれない。

 振り返れば、無人島みたいな場所で記事を書いていた頃から、彼はずっと奇妙な習性を持っていた。

 読まれていないことすらネタにする。

 自分で押したスキの数を記録して笑う。

 あとから読み返すかもしれないという理由だけで、どうでもいい数字を残しておく。

 それらは、そのときは本当にどうでもいいことだった。

 だが、どうでもいいはずのものが、あとになると妙に強い輪郭を持つ。

 読まれなかった時期の記録が、いつの間にか最も切実な展示物になる。

 失敗作のように見えた文章が、誰かの入り口になる。

 笑って書いた記事が、あとから国家の建国史になる。

 静月はそれを何度も経験してきた。

 だから、今もまだ半信半疑だった。

 余白共和国も、本当に国になっていくのかどうか。

 黒崎はそんな静月の横顔を見ながら、いかにも週刊誌の記者らしい顔で笑った。

「まあ、でも」

「はい」

「建国史としては最高ですよ。最初の国家元首が、“なんとなく始めました”って言ってるんですから」

「正式記録にはそう書かないでくださいよ」

「じゃあ何て書きましょうか。志を持って立ち上がった偉大な指導者?」

「寒いですね」

「でしょうね」

 二人は笑った。

 笑いながら、静月は窓の外を見た。

 余白共和国には、実のところ、まだはっきりした外の景色がない。

 どこまでが国で、どこからが外なのか、本人にもよく分かっていない。

 けれど、遠くに建物がいくつか見えた。

 完結国家。

 正解王国。

 感情帝国。

 沈黙連邦。

 まだ名前だけしか与えていない、共存するかもしれない他国たちの影だ。

 静月は思う。

 もし国家に本当に意味が生まれるとしたら、それは他国が現れたときだろう。

 違う正しさ、違う息苦しさ、違う生き方と隣り合ったとき、余白共和国の輪郭はようやくはっきりする。

 そのとき、自分はちゃんと立っていられるだろうか。

 七十八階に置いた詩の最後の一行が、ふと頭の中でよみがえった。

 ただ嘘を混ぜずに、言葉を置くことだけはやめなかった人間が立っている場所だ。

 それは国の理念というより、自分への説明に近かった。

 黒崎は手帳を開いた。

「ところで、今日の記事なんですが」

「はい」

「タイトル候補、三つあります」

「なんです?」

「ひとつ目。『国民ゼロから始める国家運営』」

「嫌ですね」

「ふたつ目。『読み専大統領、今日も沈黙』」

「もっと嫌です」

「三つ目。『本音と余白のあいだで、国家はあとから生まれる』」

 静月は少しだけ笑った。

「それは、ちょっといいですね」

「でしょう。たまには真面目にやるんですよ」

 黒崎はそう言って手帳を閉じた。

 階下から人の気配がする。

 たぶん書店に来た誰かが、七十九階の大統領室を覗いているのだろう。

 あの部屋に入った人はだいたい二種類に分かれる。

 心の底から呆れる人と、わりと真面目に入国を検討する人だ。

 静月は、そのどちらでもいいと思っていた。

 むしろ、そうやって入り口が分かれるくらいの曖昧さが、この国にはちょうどいい。

 はっきりしないこと。  

 でも、たしかにそこにあること。

 それが余白共和国なのだとしたら、この国はたぶん、最初からこうして生まれるしかなかった。

 誰かの冗談から始まり、笑いながら建てられ、あとから意味が追いついてくる。

 静月は七十八階を出て、ひとつ上の階へ向かった。

 七十九階――大統領室。

 そこに掲げたばかりの理念文が、静かに壁にかかっている。

 本音と余白は、反対ではない。

 それは、ひとつの呼吸である。

 本音だけでは、言葉は鋭くなりすぎる。

 余白だけでは、言葉は消えてしまう。

 だから私たちは、言うことと、言わないことのあいだで生きる。

 静月はその前に立ち、しばらく黙っていた。

 どこまで行っても、自分はまだ途中なのだと思う。

 国家を作った。

 学校も作った。

 書店も、週刊誌も作った。  

 けれど結局、自分が探しているのは、もっと個人的で、もっと曖昧で、誰にも制度化できないものだ。

 うまく生きることではない。

 ちゃんと、壊れずに生きること。

 それだけなのだと、静月は思う。

 そのとき、階下から誰かの声が聞こえた。

「すみません」

 静月は振り向いた。

 階段の途中に、一人の少女が立っていた。

 文芸高校の制服を着ている。

 見覚えはない。

 新入生か、転入生か、それともまだ国民未満の誰かか。

 少女は少しだけ躊躇してから、言った。

「ここ、入ってもいいんですか」

 静月は思わず笑った。

「どうぞ」

 少女は七十九階を見上げたまま、少しだけ不思議そうな顔をする。

「ここ、大統領室なんですよね」

「そうです」

「なのに、なんか……」

「なんか?」

「座ってもいい場所みたいです」

 静月は、少しだけ驚いた。

 それからゆっくりとうなずく。

「ええ」

 彼は言った。

「ここは立っている場所ですけど、座ってもいい場所なんです」

 少女は、その意味が分かったのか分からないのか、曖昧な顔で笑った。

「変な国ですね」

「でしょうね」

「でも、ちょっと好きです」

 その一言は、思っていた以上に静かに、深く、静月の中に落ちた。

 国民はいない。

 少なくとも、建前としては。

 けれど、もしかすると、国家というものは最初から、こうやって始まるのかもしれなかった。

 国家になる前の空気だけが、先に生まれることもある。

 誰かが軽く笑って、変だと言って、でも少しだけ好きだとこぼした、その瞬間に。

 静月は大統領室の窓を開けた。

 風が入る。

 国家らしくはない。

 けれどこの風通しの悪さだけは、何より嫌だった。

「ところで」

 少女が言った。

「この国、どこに向かってるんですか」

 静月は少し考えた。

 向かっている場所なんて、本当は分からない。

 最初からそうだ。

 分からないまま、建てて、笑って、あとから意味がついてくる。

 だから彼は、少しだけ正直に答えた。

「まだ、決めてません」

 少女はまた笑った。

「それ、国として大丈夫なんですか」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

「たぶんで回ってる国も、たまにはあっていいでしょう」

 静月がそう言うと、少女は七十九階の壁を見上げた。

 本音と余白は、反対ではない。

 それは、ひとつの呼吸である。

 その文をしばらく読んでから、少女は小さくつぶやいた。

「呼吸なら、止まったら終わりですね」

 静月はうなずく。

「そうですね」

「じゃあ、この国、生きてるんだ」

 その言い方が少しだけ面白くて、静月は笑った。

「そういうことになりますね」

 少女は大統領室の隅に置いてある椅子に、手を添えた。

 けれど座らず、そのまま理念文を見上げていた。

 彼女はたぶん、入国したわけではない。

  まだ名前もないし、手続きもないし、そもそもこの国にはきちんとした入国制度がない。

 けれど、静月は思った。

 たぶん今、この国に最初の風が入りかけている。

 それは、国家としてはずいぶん頼りない始まり方だった。

 けれど余白共和国には、たぶんそれくらいがちょうどいい。

 静月は窓の向こうを見た。

 完結国家の塔が、遠くでやけにきっちりした輪郭をしている。

 正解王国の方角には、妙に眩しい光が並んでいる。

 感情帝国の方角からは、時々笑い声と怒鳴り声が同時に聞こえる。

 沈黙連邦は見えない。

 ただ、見えないまま確かにある気配だけがする。

 余白共和国は、そのどれでもない。

 だが、どれにも少しずつ似ている。

 完成を嫌いながら、理念を持ちたがる。
 正解を疑いながら、間違いたくはない。
 本音を守りながら、傷つけたくもない。
 沈黙を愛しながら、言葉も捨てたくない。

 矛盾している。

 けれど、人間がそうである以上、国家もそうでいいのではないか。

 静月は、そういう曖昧さを、昔は弱さだと思っていた。

 どちらかに決められないこと、きっぱり言い切れないこと、優しくしすぎること、黙りすぎること、全部どこか中途半端で、未熟なものに見えていた。

 でも違った。

 中途半端だからこそ生き残れるものがある。

 決めきらないから、壊れずに済む関係もある。

 正直でいたいからこそ、言わないでおく一行もある。

 それを制度にしたらどうなるのか。

 たぶん、その答えがこの国なのだ。

 静月は、まだ誰も座っていない国会のような部屋を見渡した。

 大統領室のくせに、椅子が二つしかない。

 机も広くない。

 旗はあるが、やや寂しい。

 国家としては色々足りない。

 だが、足りないことそれ自体が、少しだけこの国らしかった。

 少女は壁の理念を読み終えたあと、立ち上がった。

「また来てもいいですか」

「もちろん」

「じゃあ次は、文芸高校も見ます」

「職員室は変なのが多いですよ」

「大統領室より?」

「同じくらいです」

 少女は、今度はちゃんと笑った。

 その笑い方があまりにも自然で、静月は少しだけ安心した。

 たぶん、国家とはこういうものなのだ。

 人が増えることではなく、誰かが“また来てもいいですか”と言える場所になること。

 それが制度より先にあるのだとしたら、余白共和国はもう、とっくに始まっているのかもしれなかった。

 少女が去ったあと、黒崎がひょっこり顔を出した。

「今の子、誰です?」

「分かりません」

「それで入れてるんですか、大丈夫ですかこの国」

「大丈夫じゃないから面白いんですよ」

 黒崎は手帳に何か書きつけた。

「記事の見出し、決まりました」

「何です?」

「『国民はいなかった。だが、また来る人は現れた』」

 静月は、少しだけ悔しいと思った。

「それ、いいですね」

「でしょう」

 黒崎は笑いながら階段を下りていく。

 静月はその背中を見送り、もう一度だけ大統領室の壁を見上げた。

 本音と余白は、反対ではない。

 それは、ひとつの呼吸である。

 国家にしては、あまりにも抽象的な理念だった。

 けれどたぶん、抽象的なものしか守れない現実がある。

 もしこの国がこの先、誰かを本当に守ることがあるとしたら、それは法や秩序や正しさではなく、「ここでは、まだ決めきらなくていい」と言える空気そのものかもしれなかった。

 静月は窓を閉めた。

 呼吸は続いている。

 まだ、国家は完成していない。

 けれど完成していないことそれ自体が、この国の生きている証拠なのだと、彼は思った。


第2章 完結国家の使者


 その封筒は、あまりにも“整いすぎて”いた。

 余白共和国に届くものは、だいたいもう少し曖昧だ。

 誰かの思いつきだったり、ふとした会話だったり、理由の分からない流れだったり。

 届いたときには、すでに“途中”であることが多い。

 だが、その封筒だけは違った。

 白。

 無駄のない紙質。

 中央に、正確な間隔で配置された文字。

 ――完結国家 外務整理省

 それだけで、空気が少し変わる。

 静月は、大統領室の机の上にその封筒を置いたまま、しばらく眺めていた。

「開けないんですか?」

 いつのまにか入ってきていた黒崎余白が、当然のように言った。

「見たら決まっちゃうじゃないですか」

「もう届いた時点で決まってますよ」

「それ言っちゃうと、この国ほとんど成立しないんですけど」

 黒崎は肩をすくめて笑った。

「だから面白いんじゃないですか」

 静月は少しだけ迷ってから、封を切った。

 中には、たった一枚の文書。

 余計な言葉は一切ない。

 余白共和国大統領 ホンネ・ヨハーク一世殿

 本国は貴国の理念および制度の曖昧性に関心を持つ。

 ついては代表者を派遣し、対話を求める。

 なお、可能な限り明確な回答を希望する。

 静月は、最後の一文で小さく笑った。

「これ、煽りですよね」

「完全に煽りですね」

 黒崎は即答した。

「“明確な回答を希望する”って、もう宣戦布告に近いですよ」

「戦うつもりはないんですけどね」

「向こうは“曖昧さ”と戦うつもりかもしれませんよ」

 静月は文書を机に置き直した。

 完結国家。

 名前の通り、すべてに結論を求める国。

 曖昧さを嫌い、余白を未処理とみなし、対話を“最終的な答えへ到達するための手段”として扱う。

 余白共和国とは、最初から方向が逆だ。

 こちらは「まだ決めなくていい」と言い、

 向こうは「今決めろ」と言う。

 こちらは「呼吸だ」と言い、

 向こうは「定義しろ」と言う。

 静月は椅子に深く座った。

「会わないって選択肢、あります?」

「ないですね」

 黒崎はあっさり言った。

「記事にならないので」

「国益の話じゃないんですか」

「半分は国益です」

 残り半分は記事だ、と顔に書いてある。

 静月は苦笑した。

 使者は、翌日に来た。

 あまりにも“予定通り”に。

 余白共和国において、“予定通り”というのは珍しい。

 だがその男は、到着時刻ぴったりに現れた。

 カンケツ・ゼロ。

 それが名前だった。

 黒でも白でもない、精密に調整された灰色の服。

 姿勢は一切崩れない。

 目線の高さまで、計算されているように感じる。

「完結国家 外務整理省所属、カンケツ・ゼロと申します」

 礼は深すぎず、浅すぎない。

「余白共和国大統領、ホンネ・ヨハーク一世です」

 静月は名乗る。

 その名前に、ゼロは反応しなかった。

 滑稽だとも、不自然だとも言わない。

 ただ、情報として処理しているだけの顔だった。

「では、本題に入りましょう」

 前置きは、なかった。

 場所は七十七階の歴史博物館内会議室。

 大統領室は、思想には向いているが、議論には向いていない。

 国旗が揺れているのを見ると、どうしても少し笑ってしまうからだ。

 ゼロは席に着くと、すぐに言った。

「まず確認します」

「はい」

「余白共和国は国家ですか」

 静月は、一拍だけ黙った。

 その沈黙を、ゼロは逃さない。

「国家と名乗る以上、定義が必要です。

 領土、国民、制度、法、統治理念。

 どれが実体で、どれが比喩なのかを明確にしてください」

 静月は少し笑った。

「全部、あるとも言えるし、全部、まだ途中とも言えます」

 ゼロはすぐに聞き返す。

「“途中”とは、どの段階を指しますか」

 静月は、少しだけ息を吐いた。

 これが、この国との違いだ。

 余白を、そのまま通さない。

 言葉の隙間を、そのままにしない。

「この国って、制度より先に空気があるんです」

「空気」

「はい。

 すぐ答えなくていいとか、

 言わなくてもいいとか、

 少し離れてもいいとか、

 そういう“許され方”が先にあった」

 ゼロは静かに聞いている。

「それを、あとから言葉にしたのが憲法です」

「つまり、運用が先にあり、制度が後にある」

「そうです」

「では、その運用の範囲は?」

「たぶん、決めてないです」

「決めていない?」

「境界で区切ってないんです。

 だから“入国したい”って言われた時点で、その人はもう半分ここにいる」

 ゼロは、わずかに視線を下げた。

「国家としては、不安定です」

「でしょうね」

「ですが――」

 ゼロは言葉を切る。

「興味深い」

 その一言が、少し意外だった。

「ひとつ伺います」

 ゼロが言う。

「なぜ“本音だけの国”にしなかったのですか」

 静月は少し笑った。

「本音だけだと、人は壊れるからです」

 ゼロは顔を上げる。

「本音だけだと、ただの衝突になる。

 余白だけだと、自分が消える。

 だから、両方いるんです」

 静月は続けた。

「僕は昔、ずっと調整して生きてました。

 本音を丸くして、飲み込んで、

 誰も傷つけないようにしてた」

 ゼロは黙っている。

「でも、どこかで崩れた。

 抑えてたものが一気に出て、

 一番鋭い形で人を傷つけた」

 静月は、静かに言った。

「そのとき思ったんです。

 “傷つけないようにしていた時間のほうが、

 ずっと長く、深く傷つけていたのかもしれない”って」

 部屋が、少しだけ静かになる。

 ゼロはゆっくりと口を開いた。

「つまり、貴国の理念は、

 曖昧さの肯定ではなく、

 過剰な調整への反作用ですね」

 静月はうなずいた。

「そうです」

「そして、

 “壊れずに済む不完全さ”を選んだ」

 その言葉に、静月は少し驚いた。

 そして、少しだけ救われた。

「それ、いい言い方ですね」

 ゼロは、ほんのわずかに口元を緩めた。

 その日の午後、ゼロは静月書店を見たいと言った。

 一階から順に、丁寧に歩く。

 読まれなかった記事。

 黒歴史の展示。

 どうでもいい数字の記録。

 意味のなかったはずのもの。

 ゼロはそれらを、ひとつずつ見ていく。

「理解しがたいですが」

「はい」

「非常に誠実です」

 静月は少し照れた。

「隠そうとは思わなかったんですか」

「思いましたよ」

「なぜ残したのですか」

「あとで意味持ちそうだったからです」

 ゼロは少し黙った。

「それは、我が国にはない発想です」

「でしょうね」

「我が国では、残すのは結論です」

「この国は逆なんですよ」

 静月は七十八階の前で止まる。

「途中しか信じられない」

 ゼロは、その詩を読む。

 しばらく動かない。

 やがて、小さく言った。

「これは国家理念ではなく、個人の告白ですね」

「そうです」

「しかし、それが国家の核になっている」

 静月はうなずいた。

 帰り際、ゼロは言った。

「この国は、危うい」

「ええ」

「だが、人間的だ」

 その言葉は、評価でも否定でもなかった。

 ただ、事実として置かれた。

 静月は、少しだけ笑った。

「それでいいと思ってます」

 ゼロは一礼した。

 その礼は、最初よりほんのわずかだけ柔らかかった。

 その夜、黒崎が記事を出した。

『壊れずに済む不完全さを選んだ国』

 静月はそれを読みながら思う。

 余白共和国は、たぶん正しくない。

 でも、壊れないための形としては、

 今のところ一番ましな気がしている。

 窓の外には、完結国家の塔が見える。

 まっすぐで、揺れがない。

 美しい。

 そして少しだけ、息苦しそうでもある。

 静月は目を閉じた。

 呼吸は続いている。

 まだ、決めなくていい。


第3章 文芸高校という実験場



 文芸高校は、余白共和国の中でいちばん危うい場所だった。

 静月は、そう思っている。

 書店は過去だ。

 フライデーは観察だ。

 だが学校は違う。

 まだ言葉になっていないものが、これから言葉になろうとする場所。

 つまりここでは、理念がそのまま試される。

 うまくいけば、生き方になる。

 間違えれば、人を傷つける。

 静月は校舎の前で立ち止まった。

 見た目は普通の高校だ。

 だが中身は、まったく普通ではない。

 チャイムは鳴るが、守らなくてもいい。

 授業はあるが、聞かなくてもいい。

 発言は自由だが、沈黙も許されている。

 そして、その自由が一番難しい。

「来ましたね、大統領」

 声をかけてきたのは、教師の東雲だった。

 何を教えているのかよく分からない教師だが、この学校にはそういう人間しかいない。

「様子どうです?」

「順調に揉めてます」

「でしょうね」

 静月は苦笑した。

「どんな感じです?」

「典型的に三パターンです」

 東雲は指を三本立てた。

「ひとつ目。“言いすぎる人”」

「はい」

「“本音でいいんですよね?”って言いながら、ただの攻撃になってる」

「あるあるですね」

「ふたつ目。“言えない人”」

「はい」

「余白を言い訳にして、何も言わない。ずっと黙ってる」

「それもある」

「三つ目。“笑いに逃げる人”」

「……それ僕じゃないですか?」

「だいぶ近いですね」

 二人は少しだけ笑った。

 だが、問題は笑いごとではなかった。

 教室の扉を開ける。

 ちょうど議論の最中だった。

「だから、それ違うって言ってるじゃん」

 一人の男子が、少し強い口調で言う。

「違うって何が?」

 向かいの女子が返す。

「いや、それただの綺麗事でしょ」

「綺麗事でもいいじゃん」

「よくないよ。現実見ろよ」

 空気が少しずつ硬くなる。

 静月は黙って見ていた。

 止めることはできる。

 でも、それをやると、この学校の意味がなくなる。

 そのとき。

 教室の後ろに、一人だけ立っている教師に気づいた。

 言葉を挟まない。

 ただ、聞いている。

 最後まで。

 腕を組むでもなく、メモを取るでもなく、
 ただ、その場にいる。

 議論の流れが少し崩れた瞬間。

 その教師は何も言わなかった。

 止めもしない。

 正そうともしない。

 ただ、そのあとに残った沈黙を、ほんの少しだけ長く保った。

 そして。

「……続けていいよ」

 静かに言った。

 その声はやわらかいのに、逃げ場を作らなかった。

 誰も反論しなかった。

 その一言で、場の温度が少しだけ変わる。

 その教師は、それ以上何も言わない。

 また、ただ聞いている。

 その教師の名は、雨宮ミカといった。

 名前だけが、あとから静かに結びついた。

「本音で言っていいんだよね?」

 男子が言う。

「だから言ってるじゃん」

「じゃあ言うけどさ、それ、甘いよ」

 その一言で、空気が切れた。

 女子の表情が、ほんの少し変わる。

 その“ほんの少し”を、静月は見逃さなかった。

 静月はゆっくり教室に入った。

「今の、いいですか」

 全員がこちらを見る。

 大統領というより、ただの変なおじさんを見る目だった。

「今のって、本音でした?」

 男子は少し戸惑う。

「……はい」

「じゃあ、その本音って、いつからあったんですか」

「え?」

「さっき初めて思ったのか、前から思ってたのか」

「……前からです」

「じゃあ、それを今まで言わなかった理由は?」

 男子は黙る。

 少し考えてから、言った。

「空気悪くなるから」

「そうですよね」

 静月はうなずいた。

「じゃあ今、どうなりました?」

「……空気、悪くなりました」

「ですよね」

 教室が少し静かになる。

「これ、よくあるんですよ」

 静月はゆっくり言った。

「ずっと調整して、言わないで、丸くして、
 “いい感じ”を保って、
 で、どこかで一気に出る」

 誰も言葉を挟まない。

「そのときの言葉って、だいたい強いです」

 さっきの女子が、少しだけうつむく。

「それって、本音だから正しいのか」

 静月は続ける。

「たぶん違うんです。本音って、“出し方”がないと、ただの刃物なんですよ。
それに、人って、大人になったからうまく話せるわけじゃないんです」

 教室の空気が変わる。

 さっきまでの衝突とは違う、静かな緊張。

 その空気の中で。

 後ろに立っていた雨宮ミカは、やはり何も言わなかった。

 ただ、少しだけ視線を落として、
 誰かの言葉の余韻が消えるのを待っている。

 それが、この場にとって必要な“間”であることを、
 言葉にせずに知っているようだった。

「でも逆に」

 静月は少し間を置いた。

「ずっと出さないと、今度は中で腐る。
人って、精神そのものはそんなに変わらないんですよ。
ただ、どう扱うかが、少しずつ上手くなるだけで」

 誰かが小さく息をのむ。

「どっちも、しんどいんです」

 静月は教室を見渡した。

「この学校って、どっちかを選ぶ場所じゃないです」

「……どういうことですか」

 女子が聞いた。

「本音で全部言うか、優しく全部飲み込むか、その二択じゃない」

 静月は少し笑った。

「そのあいだを探す場所です。
同じ中身のまま、壊れないやり方を探す場所です」

 沈黙が落ちる。

 だがそれは、さっきまでの沈黙とは違った。

 逃げる沈黙ではなく、考える沈黙。

 その沈黙の中で、
 雨宮ミカはやはり口を挟まない。

 ただ、その沈黙が崩れないように、
 ほんの少しだけ場に残り続けている。

 さっきの男子が、ぽつりと言った。

「……じゃあ、どうすればよかったんですか」

 いい質問だ、と静月は思った。

「たぶんですけど」

「はい」

「いきなり全部言わないことです」

「……え?」

「“甘い”って結論じゃなくて、
 その前の違和感から出せばよかった」

 男子は少し考える。

「違和感……」

「例えば、“ちょっと現実とのズレ感じるんだけど”とか」

 女子が顔を上げる。

「それなら……」

「まだ会話になります」

 静月はうなずいた。

「いきなり結論出すと、議論じゃなくて判定になる」

 教室の空気が、少しだけやわらぐ。

 さっきまでの鋭さが、ほんの少し丸くなる。

 その変化を、雨宮ミカは静かに見ていた。

 何かを教えたわけではない。

 何かを導いたわけでもない。

 ただ、崩れなかった。

 それだけだった。

「これが、この国のやり方です」

 静月は言った。

「結論を急がない」

「でも、言わないわけでもない」

「そのあいだを、探し続ける」

 誰もすぐには理解しなかった。

 でも、何かは残った。

 それで十分だった。

 教室を出たあと、東雲が言った。

「どうでした?」

「思ったよりいいですね」

「でしょう?」

「ちゃんと失敗してる」

 東雲は笑った。

「この学校、成功させる気ないですからね」

「いいですね、それ」

 静月は廊下を歩きながら思う。

 理念は、文章では完成しない。

 人の中で、ぶつかって、間違えて、
 少しずつ形を変えていく。

 それが教育だとしたら、
 この文芸高校は、ちゃんと機能している。

 ふと、さっきの教室を振り返る。

 後ろに立っていた教師の姿は、もう見えなかった。

 窓の外を見る。

 完結国家の塔は、今日もまっすぐだ。

 正しい。

 でも、少しだけ息苦しそうだ。

 静月は、小さくつぶやいた。

「まあ、こっちはこっちで、だいぶ不安定ですけどね」

 それでも。

 教室の中では、さっきの二人が、もう一度話し始めていた。

 今度は、少しだけゆっくりと。

 少しだけ、途中から。

 少しだけ、余白を残して。

 それを見て、静月は思った。

 ああ、この国はたぶん、

 “うまくいく場所”じゃない。

 でも、
 “壊れずに続けられる場所”には、なれるかもしれない。

 呼吸は続いている。

 まだ、決めなくていい。


第4章 フライデーは知っている


 最初に広がったのは、理念ではなかった。

 記事だった。

「出ました」

 黒崎余白が、やけに軽い声で言った。

 静月は嫌な予感がした。

「何がです?」

「今週号です」

「嫌な予感しかしないんですけど」

「今回はちょっと真面目ですよ」

「それが一番怖いんですよ」

 黒崎は笑いながら、スマホを差し出した。

『壊れずに済む不完全さを選んだ国』

 タイトルだけで、少し静かになる。

 ふざけていない。

 なのに、どこか軽い。

 そのバランスが、この媒体の一番厄介なところだった。

「中、読んでいいですか?」

「どうぞ。炎上しない程度に書いてます」

「毎回そのライン攻めてきますよね」

 静月は記事を読む。

 ――余白共和国という国は、制度としては未完成である。

 法律は曖昧で、国民の定義も曖昧で、そもそも国民がいるのかどうかすら曖昧だ。

 では、なぜこの国は成立しているのか。

 答えは単純である。

 “壊れたあとに作られたから”だ。

 この国の大統領は、もともと非常に優秀な“調整者”だった。

 言葉を丸くし、相手に合わせ、関係を壊さないことに長けていた。

 だが、その結果どうなったか。

 壊れた。

 しかも、一番まずい形で。

 長年抑え込んでいた本音が、一気に外に出たとき、言葉は最も鋭くなる。

 優しさのつもりだった調整が、最終的に最大の破壊力を持つ。

 これは、よくある話だ。

 そして、あまり語られない話でもある。

 余白共和国は、その“あまり語られない側”から作られている。

 だからこの国は、最初から正しくない。

 だが、その代わりに、

 壊れにくい。

 静月は、そこで一度スクロールを止めた。

「これ……」

「はい」

「ほぼ全部バラしてません?」

「事実しか書いてないですよ」

「いや、事実でも言い方ってものがあるでしょ」

「ありますよ。だからこのくらいで止めてます」

 黒崎はさらっと言う。

 止めてこれか、と静月は思った。

「でも、いいですね」

 黒崎が続ける。

「この国、“優しさ”の話してるようで、実は違うじゃないですか」

「違います?」

「“優しさを続けた結果、壊れた人の話”ですよね」

 静月は少し黙った。

 その言い方は、正確すぎた。

「続きを読んでください」

 黒崎が促す。

 ――この国の面白いところは、“本音を出そう”とは言っていない点にある。

 それはすでに危険だと知っているからだ。

 では何をしているのか。

 本音と余白の“距離”を調整している。

 本音だけでは衝突になる。

 余白だけでは消失する。

 そのあいだに、わずかな呼吸のスペースを作る。

 それが、この国のやり方だ。

 雑に言えば、

 「ちょっとずつ出す」国である。

 なお、この“ちょっとずつ”が一番難しい。

 だからこそ、この国は制度ではなく、空気で運営されている。

 ルールにすると壊れるからだ。

 つまりこの国は、

 “ルールにできないものだけを守っている”。

 静月は、思わず笑った。

「これ、うまいですね」

「でしょう」

「ちょっとずつ出す、はズルいな」

「キャッチーですからね」

 黒崎は椅子に座りながら続けた。

「でもこれで、だいぶ広がりますよ」

「何がです?」

「誤解と理解が」

「両方なんだ」

「両方です」

 その日の午後から、反応が出始めた。

「これって、“言わなくていい言い訳”じゃないですか?」

 あるコメント。

「逆に、本音言えない人が楽になる国ですね」

 別のコメント。

「いや、これめちゃくちゃ分かる」

 さらに別のコメント。

「俺、これで失敗したことある」

 バラバラだった。

 だが、それがよかった。

 静月はその流れを見ながら思う。

 ああ、これだ、と。

 理念は、説明した瞬間に弱くなる。

 でも、

 ズレた理解や、途中の誤解や、

 それでも残る引っかかりの中で、

 少しずつ形になる。

 黒崎は言った。

「記事って、正しく伝えるために書くんじゃないんですよ」

「じゃあ何のために書くんです?」

「“ズレたまま届かせる”ためです」

「それ、問題発言じゃないですか?」

「でも事実ですよ」

 黒崎は続ける。

「完全に正しく伝わる言葉って、残らないんです」

「……」

「ちょっとズレてるから、考えるんですよ」

 静月は、少しだけ納得した。

 その夜、文芸高校でもその記事が話題になった。

「これ、うちのこと書いてる?」

「書いてるでしょ」

「“言いすぎる人”とか、完全にあれじゃん」

「お前な」

 笑いが起きる。

 でも、そのあと少しだけ静かになる。

「でもさ」

 誰かが言った。

「これ、ちょっと分かる」

 その“ちょっと”が、大事だった。

 静月は書店の上階から、それを見ていた。

 言葉が、広がっている。

 だがそれは、綺麗に広がっているわけではない。

 ズレて、歪んで、少しだけ誤解されながら、それでも届いている。

 それでいい、と思った。

 ふと、完結国家のことを思い出す。

 あの国なら、この記事はどう扱うだろう。

 曖昧すぎる、と言うかもしれない。

 定義が甘い、と言うかもしれない。

 誤解を生む、と言うかもしれない。

 全部、正しい。

 でも、

 それでもなお、残るものがある。

 黒崎が言った。

「どうです?」

「何がです?」

「国家っぽくなってきました?」

 静月は少し考えて、笑った。

「いや、まだ全然ですね」

「ですよね」

 黒崎も笑う。

「でも」

 静月は窓の外を見ながら言った。

「ちょっとだけ、広がってる気はします」

 それは領土ではない。

 フォロワーでもない。

 国民数でもない。

 “ああ、それ分かるかもしれない”と思った人の数。

 それだけが、少しずつ増えていた。

 静月は、小さくつぶやいた。

「これ、国家なのかは分かりませんけどね」

 黒崎が即答する。

「国家じゃない方が面白いですよ」

 それは、たぶん本音だった。

 呼吸は続いている。

 まだ、決めなくていい。


第5章 最初の国民


 その言葉は、あまりにも軽く届いた。

「入ってもいいですか?」

 それだけだった。

 長い説明もなければ、覚悟も見えない。

 ただ、コメント欄の一行。

 それなのに。

 静月は、少しだけ息が止まった。

 余白共和国には、正式な入国手続きはない。

 パスポートもない。

 審査もない。

 そもそも、どこからが国内なのかも決めていない。

 だから、“入る”という行為自体が曖昧だ。

 曖昧なはずなのに。

 その一言だけは、妙に輪郭を持っていた。

 静月は、そのコメントを何度か見返した。

 軽い。

 でも、軽すぎない。

 冗談のようで、冗談じゃない。

「どうしました?」

 黒崎が聞いた。

「いや……」

 静月はスマホを見せる。

「これ」

 黒崎は一瞬で理解した。

「ああ」

 短く言う。

「来ましたね」

 来た。

 という感覚が、確かにあった。

「どうします?」

 黒崎が聞く。

「どうします、って?」

「入国、認めます?」

「認めるも何も……」

 静月は少し笑った。

「この国、誰が許可出すんですか」

「一応、大統領がいますけどね」

「名ばかりですよ」

 黒崎は肩をすくめた。

「でも、こういうのって、最初が一番重いですよ」

「……」

「二人目からは流れになりますけど、一人目は違う」

 その通りだった。

 “最初の国民”。

 その言葉を頭に浮かべた瞬間、

 この国が急に“遊びじゃなくなる”気がした。

 静月は、しばらく考えた。

 正直に言えば、怖かった。

 ここまでは、全部“遊び”だった。

 学校を作っても、書店を作っても、

 フライデーを作っても、

 全部、どこか逃げ道があった。

 でも。

 誰かが「入りたい」と言った瞬間、

 それは“その人の居場所になる可能性”を持つ。

 それはもう、遊びではない。

「……返信、します」

 静月は言った。

 指を置く。

 少しだけ迷う。

 そして、打つ。

「どうぞ」

 それだけだった。

 短い。

 軽い。

 責任を負っているようには見えない。

 でも。

 送信ボタンを押した瞬間、

 静月の中で、何かが変わった。

 黒崎が言った。

「ずいぶんあっさりですね」

「これ以上書くと嘘になるんですよ」

「嘘?」

「歓迎しすぎると、“ちゃんとした国”みたいになるじゃないですか」

「なってないですか?」

「なってないです」

 即答だった。

「でも」

 黒崎は少しだけ真面目な顔で言った。

「これで終わりじゃないですよ」

「分かってます」

「ここからですよ」

 ここから。

 その言葉の意味を、静月は理解していた。

 数分後、返信が来た。

「ありがとうございます」

 それだけだった。

 静月は、それを見て思った。

 軽い。

 でも、軽すぎない。

 さっきと同じだ。

 このやり取り全体が、

 ちょうどいい“余白”の上に乗っている。

 その日の夜。

 静月書店の七十九階――大統領室に、ひとりの人が現れた。

「ここ……ですか?」

 少し不安そうな声。

 静月は振り向く。

「たぶん」

 その人は、少しだけ笑った。

「たぶんなんだ」

「この国、だいたい“たぶん”で回ってるんで」

 その人は部屋を見渡した。

 広くない。

 豪華でもない。

 でも、妙に静かだった。

「ここが……」

「はい」

「大統領室」

 間があく。

「思ったより普通ですね」

「よく言われます」

 また、少しだけ笑いが生まれる。

 そのあと、沈黙が落ちた。

 だが、それは気まずい沈黙ではなかった。

 “何を言ってもいいし、言わなくてもいい”沈黙。

 その人が、ぽつりと言った。

「正直、よく分かってないんです」

「何がです?」

「この国が、何なのか」

 静月はうなずいた。

「僕もです」

 その人は少し驚いた顔をした。

「でも」

 静月は続ける。

「分からないままでも、いていい場所にはしたいと思ってます」

 その人は、少しだけ黙った。

 そして、

「それで、来ました」

 と、言った。

 その一言が、

 静月の中に、ゆっくり落ちた。

 ああ、と思う。

 この人は、

 “理解したから来た”わけじゃない。

 “分からないままでもいられそうだから来た”。

 それが、この国の入り口なのかもしれなかった。

「座ります?」

 静月が言う。

「いいんですか?」

「ここ、立っててもいいし、座っててもいいんで」

 その人は、少し迷ってから座った。

 その動作が、妙にゆっくりして見えた。

 たぶん。

 “どこにいていいか分からない場所”から、

 “いていい場所”に移動する瞬間は、

 ああいう動きになる。

 静月はそれを見ながら思った。

 ああ。

 国民って、

 こうやって生まれるのかもしれない。

 登録じゃない。

 制度でもない。

 “ここにいてもいいかもしれない”と思った瞬間。

 それが、たぶん一番最初の形だ。

 その夜、黒崎の記事が更新された。

『国民はいなかった。だが、一人座った』

 静月は、それを見て笑った。

「雑ですね」

「いいんですよ」

 黒崎が言う。

「一番大事なところ、ちゃんと入ってるんで」

 静月は、もう一度記事を見る。

 国民はいなかった。

 だが、一人座った。

 それだけだった。

 でも、それで十分だった。

 静月は、大統領室の椅子を見る。

 さっきまで誰かが座っていた場所。

 ほんの少しだけ、温度が残っている気がした。

 それを見て、思う。

 この国は、たぶんまだ始まったばかりだ。

 でも。

 もう、引き返せないところには来ている。

 呼吸は続いている。

 今度は、ひとり分だけ増えて。


第6章 感情帝国と沈黙連邦


 最初に揺らしたのは、感情帝国だった。

「なんかさ」

 その声は、やけに近かった。

「ぬるくない?」

 静月は振り向く。

 そこにいたのは、見た目だけなら普通の若い男だった。

 だが、空気が違う。

 温度がある。

 しかも、安定していない。

「誰ですか」

「感情帝国から来た」

 名乗りは、それだけだった。

「名前は?」

「いる?」

 即答だった。

「この国、名前で判断しないでしょ?」

 静月は少し笑った。

「まあ、しないですね」

「じゃあいいじゃん」

 男は、勝手に大統領室に入ってきて、勝手に座った。

「いい国だとは思うよ」

 その言い方は、軽かった。

「でもさ」

 男は静月を見る。

「ぬるい」

 もう一度、はっきり言った。

「どういう意味です?」

「そのまんま」

 男は肩をすくめる。

「本音と余白?呼吸?バランス?」

「分かるよ。全部分かる」

 少しだけ笑う。

「でもさ、それって結局“痛くないやり方”じゃない?」

 静月は、少しだけ黙った。

「痛くないとダメですか」

「ダメっていうか」

 男は、天井を見る。

「感情って、そんなに綺麗に扱えないよ」

 その言葉には、重さがあった。

「好きなら好きって言うし」

「嫌いなら嫌いって言うし」

「ムカついたらぶつける」

「それで壊れることもある」

 少し間を置く。

「でも、それも込みでしょ」

 静月は、言葉を探した。

「それは……分かります」

「分かるでしょ?」

 男は笑う。

「でもこの国、そこ削ってるじゃん」

 静月は、ゆっくり首を振った。

「削ってるつもりはないです」

「じゃあ何してるの」

「壊れにくくしてるだけです」

 男は少しだけ考える。

「それ、同じじゃない?」

 その一言は、思ったより深く刺さった。

 削っていないつもりでも、

 結果として削れているものがある。

 それは、否定できなかった。

 そのときだった。

「その議論は、前提が甘い」

 静かな声が入った。

 振り向く。

 そこには、誰もいない。

 いや、“いる”。

 気配だけがある。

「沈黙連邦か」

 静月が言う。

 返事はない。

 だが、そこに“いる”ことは分かる。

「発言の前提として」

「感情を外に出すことを前提にしている」

 声は、どこからともなく届く。

「それ自体が、偏りである」

 感情帝国の男が笑う。

「出たよ、沈黙」

「言わない自由もある」

 声は続く。

「言葉にしないことで守られるものもある」

「逃げてるだけでしょ」

「保持している」

「言い方変えただけじゃん」

 二つの国の空気がぶつかる。

 熱と、静寂。

 真逆だ。

 静月は、その間に立っていた。

「……どっちも分かるんですよ」

 ぽつりと、言った。

 二つの気配が、少しだけこちらを見る。

「感情でぶつかることもあるし」

「言わないことで守れるものもある」

「でも」

 静月は続ける。

「どっちも、壊れるんですよ」

 静かになる。

「感情を全部出しても壊れるし」

「全部飲み込んでも壊れる」

「だからこの国は、その間をやってるだけです」

 沈黙。

 感情帝国の男が、少しだけ笑った。

「中途半端だね」

「はい」

 静月は即答した。

「中途半端です」

 沈黙連邦の気配が、わずかに揺れる。

「だが」

 声が言う。

「持続性はある」

 感情帝国の男が肩をすくめる。

「まあね」

「長くは続くと思うよ」

 少しだけ、真面目な顔になる。

「でもさ」

 静月を見る。

「それで、“本当に生きてる感じ”する?」

 その問いは、強かった。

 正しさではない。

 構造でもない。

 “感覚”。

 静月は、少しだけ目を閉じた。

 思い出す。

 壊れたときのこと。

 言葉が溢れたときのこと。

 泣いたときのこと。

 あれは、確かに“生きていた”。

 でも。

 続かなかった。

 静月は、目を開けた。

「しますよ」

 静かに言った。

「派手じゃないですけどね」

 感情帝国の男が、少しだけ笑った。

「そっか」

 沈黙連邦は、何も言わなかった。

 だが、否定もなかった。

 そのまま、二つの気配は消えた。

 部屋に静けさが戻る。

 静月は、しばらく動かなかった。

 黒崎が、あとから入ってくる。

「面白そうなことやってましたね」

「見てたんですか」

「記者ですから」

 いつものやつだ。

「で、どうでした?」

 静月は、少しだけ考えた。

「揺れましたね」

「でしょうね」

「でも」

 窓の外を見る。

「これでいい気もしてます」

「どこがです?」

「全部間違ってないって分かったんで」

 黒崎は、少しだけ黙った。

「それ、記事にしにくいですね」

「でしょうね」

 二人は少しだけ笑った。

 静月は、ゆっくり座る。

 この国は、正しくない。

 強くもない。

 どこか中途半端だ。

 でも。

 全部を否定しない。

 それだけは、はっきりしている。

 静月は、小さくつぶやいた。

「まあ、いいか」

 呼吸は続いている。

 揺れながら。


第7章 余白共和国という場所


 余白共和国には、国境がない。

 最初から、なかった。

 どこからが国内で、どこからが外なのか。

 誰が国民で、誰がそうでないのか。

 そのどれもを、最後まで決めなかった。

 決めなかった、というより。

 たぶん、決められなかったのだ。

 静月は、大統領室の窓の前に立っていた。
 七十九階。

 この部屋も、最初はただの思いつきだった。

 書店ビルの一室に、大統領室を作る。

 字面だけ見れば、ほとんど冗談だ。

 しかも大統領は発信できず、読む専門。

 国家元首としては致命的だし、設定としても少し雑だ。

 けれど、雑なものほど、あとから意味を持つことがある。

 学校を作った。

 書店を作った。

 フライデーを作った。

 展示室も、職員室も、美術室も作った。

 そのどれもが、最初から必要だったわけではない。

 遊んで作った。

 面白がって置いた。

 あとで使えるかもしれないと思って、なんとなく残した。

 それだけだ。

 それだけなのに、気づけば、全部つながっていた。

 七十八階の『辿りついた場所』もそうだ。

 あのフロアは、たぶん静月書店の中で一番静かな場所だった。

 作品を並べたというより、自分がここまで来るまでに失ったものと、捨てなかったものだけを、ひっそり置いてある場所。

 そこに掲げた詩は、国家理念というより、もともとはただの個人的な告白だった。

 ここに来るまでに
 いくつ言葉を捨てただろう

 そう書いたとき、静月はようやく、自分が何に辿りついたのかを少しだけ理解した。

 うまく生きることではなかった。

 優しくし続けることでもなかった。

 誰も傷つけずに済む完璧な在り方を目指すことでもなかった。

 ちゃんと壊れずに生きること。

 そのために必要だったのが、本音と余白だった。

 本音だけでは壊れる。

 余白だけでも壊れる。

 その両方が必要だと、身をもって知ったあとでしか、たぶんこの国は生まれなかった。

 窓の外で風が鳴る。

 国家の風景にしては、やけに生活感のある音だった。

「どうしました?」

 黒崎余白が、いつのまにか後ろに立っていた。

 この男は本当に気配が薄い。

 いや、薄いというより、人の“隙間”から入ってくるのが上手い。

 週刊誌の記者としては優秀なのだろうが、国家元首の背後にぬるっと立つのはやめてほしいと静月はいつも思っている。

「いや」

 静月は窓の外を見たまま言った。

「これ、国家なんですかね」

 黒崎は少しだけ考えた。

「国家ではないかもしれませんね」

 あっさりと答える。

「でしょうね」

「でも、場所ではあります」

 静月は、その言葉をゆっくり受け取った。
 場所。

 それは妙にしっくりきた。

 制度ではない。

 秩序でもない。

 支配でもない。

 正しさの中心でもない。

 ただ、場所。

「どんな場所ですか」

 静月が聞くと、黒崎は少しだけ笑った。

「まだ決めなくていい場所です」

 静月は目を閉じた。

 その言い方は、正しかった。

 正しい、というより、近かった。

 静月の人生には、決めすぎた時間が長すぎた。

 本音を削り、角を丸くし、言いたいことを飲み込み、波風を立てないことを最優先にしてきた。

 それは優しさだったのかもしれない。

 少なくとも、そのつもりではあった。

 でも、どこかで崩れた。

 そして崩れたとき、長く抑えていたものは一番鋭い形で出た。

 あの痛みを思い出すたびに、静月は今でも少しだけ息が詰まる。

 ずっと言いたかったことがある。

 傷つけないようにしていた時間のほうが、
 ずっと長く、深く、誰かを傷つけていたのかもしれない。

 その言葉に辿りつくまで、自分はずいぶん遠回りした。

 いや、遠回りというより、ほとんど迷子だった。

 そして、その迷子だった頃の記憶の中に、一人の女がいる。

 雨宮ミカ。

 今は文芸高校の教師だ。

 静かで、やわらかい言葉を使う。

 人の話を最後まで聞き、言葉を選ぶのがうまい。

 生徒の前では少し距離を取っていて、感情を乱暴にぶつけることはない。

 その在り方は、ある意味では、静月がかつて目指して壊れた“優しさ”にも似ている。

 だが静月は知っている。

 彼女がただ綺麗に調整された人間ではないことを。

 あの時間を、忘れているとは思えなかった。

 ただ彼女は、それを確かめるような言葉を、選ばない人だった。

 若い頃の彼女は、今よりもっと、近かった。

 あの頃、二人はまだ若かった。

 教師でもなく、大統領でもなく、国家も学校も書店もなかった。

 ただ、互いを見ていた。

 静月はふと思い出す。

「私のどんなとこ好き?」

 彼女が聞いた。

 少しからかうように、でも、ほんの少し本気で。

 静月はあのとき、驚くほど止まらなかった。

 まず、コンビニで会計が終わったあと、必ず店員に「ありがとうございます」と言うところ。

 レストランで水をこぼしたとき、店員が来る前に自分のハンカチを出して拭こうとするところ。

 道で子どもが転んだとき、反射的にしゃがんで「痛かったね」と言うところ。

 電車でお年寄りに席を譲るとき、周りに気づかれないように立つところ。

 自分が仕事で落ち込んでいるとき、「大丈夫?」ではなく「ご飯食べよ」と言うところ。

 猫を見つけると必ずしゃがむところ。

 映画を見て泣いたあと、恥ずかしそうに「泣いてないよ」と言うところ。

 くだらない話でも、ちゃんと最後まで聞くところ。

 怒っているときでも、「ちゃんと話そう」と言うところ。

 風邪をひいたとき、ポカリとゼリーとプリンを全部買ってきたところ。

 駅の階段で前の人が重そうなスーツケースを持っていると、黙って手伝うところ。

 誕生日に、去年「この本面白そう」と言ったことを覚えていてくれたところ。

 笑うとき、右目が先に細くなるところ。

 怒ると敬語になるところ。

 真剣に考えるとき、左の眉だけ少し上がるところ。

 あのときの自分は、たぶん観察していたのではない。

 見えていたのだ。

 そしてたぶん、
 あの頃の自分は、今と同じだった。

 好きだから観察する。

 観察したことが本音だと思う。

 ずっとあとになってから書いたあのあとがきは、たぶん正しかった。

 彼女はずっと、嬉しそうに聞いていた。

 本当に嬉しそうに。

 最後に笑って、こう言った。

 そんなふうに、私のことを一生懸命観察してるところ。

 そういうとこ、好き。

 静月は、今でもあの返しを思い出すたびに、少しだけ救われる気がする。

 あの時間には、調整がなかった。

 いや、完全に無かったわけではない。

 人間だから、多少はあっただろう。

 でも少なくとも、自分を消してはいなかった。

 あのときの言葉は、整えられた正解ではなく、そのまま見えていたものを、そのまま置いた言葉だった。

 精神が成長していたわけじゃない。

 ただ、隠し方をまだ知らなかっただけだ。

 だから優しかったのだ、と今なら分かる。

 優しい言葉だったからではない。

 削りすぎていなかったからだ。

 静月は、ゆっくり目を開けた。

「……思い出してました?」

 黒崎が聞く。

「そんな顔してました?」

「してましたね。かなり」

 静月は苦笑した。

「分かりやすいですね」

「この国に長くいると、ちょっとした顔で分かるようになるんですよ」

「嫌ですね、それ」

「記者ですから」

 いつもの答えだ。

 だが今は、少しだけありがたかった。

 自分の中でだけ沈んでいた記憶を、無理に説明しなくていい空気がここにはある。

「若い頃のことを思い出してました」

 静月は、少しだけ正直に言った。

「雨宮先生の?」

「ええ」

 黒崎は、それ以上詮索しなかった。

 そこがこの男のいいところでもある。

 全部知りたがる顔をしているくせに、本当に触れてはいけないところには、ちゃんと余白を置く。

「じゃあ、今の国の理念って」

 黒崎が言う。

「その頃の続きでもあるんですね」

 静月は、少しだけ考えてからうなずいた。

「たぶん」

 それが一番近かった。

 あの頃、自分は本音でいられた。

 少なくとも、今よりずっと近くにいた。

 そのあと、壊れて、遠回りして、ようやく今の生き方に辿りついた。

 同じ十歳のまま、少しだけ扱い方を覚えただけだ。

 つまり余白共和国は、崩れたあとに急に生まれた国ではない。

 もっと前から、ずっと前から、その原型はあったのだ。

 本音で言えた時間。

 観察することで愛せた時間。

 言葉がそのまま相手に届いていた時間。

 それを失ったから、この国が必要になった。

 扉が開く。

「すみません」

 振り向くと、あの最初の“国民”が立っていた。

 最初に「入ってもいいですか」と言った人。

 そして最初に、この大統領室の椅子に座った人。

「また来ました」

 その言い方は、以前より自然だった。

「どうぞ」

 静月は言う。

 その人は、前より迷わず中に入ってきた。

 椅子に座り、少しだけ部屋を見回す。

「この部屋、やっぱり変ですね」

「そうですね」

「でも、落ち着きます」

 静月は少し笑う。

「ありがとうございます」

「ここって、結局何なんですか」

 また同じ問いだった。

 けれど前とは少し違う。

 前回は“よく分からないから聞く”問いだった。

 今は、“少し分かった上で、あらためて確かめたい”問いに聞こえる。

 静月は少し考えた。

「たぶん」

「はい」

「分からないままでも、いていい場所です」

 その人は、今回は驚かなかった。

 ただ静かにうなずいた。

「前より、分かる気がします」

「前は分からなかったですか」

「前も、なんとなく分かりました。
 でも、今日はもう少し、分からないままでいいんだって思えます」

 その一言は、静月の中に深く落ちた。

 ああ、と思う。

 国家というのは、本当はこういうものなのかもしれない。

 大きな理念や制度や旗でできているのではなく、
 “少し分かる気がする”が積み重なって、あとから国家の顔をするのかもしれない。

 黒崎が小さく言った。

「これ、もう十分じゃないですか」

「何がです?」

「余白共和国」

 静月は、すぐには返せなかった。

 十分。

 国家として十分なのか。

 作品として十分なのか。

 それとも、自分の生き方として十分なのか。

 そのどれもが、まだ途中だった。

「いや」

 静月は小さく首を振る。

「たぶん、まだ途中です」

「またそれですか」

 黒崎が笑う。

「でも、それでいいんですよね?」

 最初の国民が言った。

 その言い方に、静月は少しだけ救われる。

「ええ」

 彼は言った。

「この国は、完成しないほうがいいんです」

 完成したら終わる。

 完成したら、息が止まる。

 完成したら、余白はなくなる。

 本音と余白は、反対ではない。

 それは、ひとつの呼吸である。

 その理念は、国家にしてはあまりにも曖昧だ。

 でも、人間にとっては、たぶん一番必要な曖昧さだった。

「じゃあ」

 その人が言う。

「しばらく、ここにいてもいいですか」

 静月は、今回はすぐには答えなかった。

 ほんの少しだけ、余白を置いた。

 そのあとで。

「どうぞ」

 と、言った。

 それで十分だった。

 そのやり取りの中に、この国のすべてがある気がした。

 静月はふと気づく。

 余白共和国は、最初からどこにもなかったのかもしれない。

 場所ではなく、制度でもなく、建物ですらなく。

 ただ、“そう思えた瞬間”にだけ現れるもの。

 国家というより、状態。

 理念というより、呼吸。

 帰る場所というより、まだ壊れずにいられる一瞬。

「これ」

 静月は小さく笑った。

「国家じゃないですね」

 黒崎が即答する。

「だからいいんですよ」

 風が通る。

 大統領室の旗が、ほんの少し揺れる。

 窓の外には完結国家の塔が見える。

 その向こうには、正解王国がある。

 感情帝国も、沈黙連邦もある。

 どれも間違っていない。

 ただ、ここは少し違う。

 ここでは、まだ決めきらなくていい。

 ここでは、本音を全部言わなくてもいい。

 ここでは、余白を残したまま、少しずつ生きていていい。

 静月は窓の外を見ながら、静かに思う。

 あの頃、雨宮ミカに向かって止まらずに言えた言葉たち。

 あれも本音だった。

 今、この場所で“どうぞ”とだけ言うのも、本音だ。

 形は変わった。

 若さのままではいられなかった。

 壊れもした。遠回りもした。

 それでも、たぶん。

 あのときの“全部言えた時間”があったから、
 今の“少しずつ言う生き方”に辿りついた。

 余白共和国は、その途中にできた国なのだ。

 いや、国という名前を借りて、ようやく言えるようになった生き方なのかもしれない。

 呼吸は続いている。

 どこでもない場所で。

 でも、確かにここに。


あとがき


 本作で描いた「書店」「文芸高校」「フライデー」は、完全な空想ではありません。

 私自身がnote上で実際に運営している試みを土台にしています。

 フィクションとして再構成していますが、

 “壊れずに生きるための場所”は、現実の中でも、静かに動き始めています。

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静月 いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。皆さまの応援が、静月の物語を生み出す力です。いただいたチップは、すべて次の作品作りに大切に使わせていただきます。