見出し画像

短編小説③『残したかった』

第一章:『粘土の板』


──紀元前3200年──


乾いた風が、
チグリス川の土を巻き上げる。

朝、まだ熱が昇る前の時間。
若者は、粘土を手のひらで丸めていた。
まだ柔らかい。
少し湿り気が残っている。

棒の先は、少し欠けていた。
でも、これでいい。
それでいい。

周囲では、大人たちが言っていた。
「小麦 12」
「羊 3」
「日照 6」
数だけが残されていく世界。

だが、
彼は数ではなく、
“形のないもの”を残そうとしていた。


彼女は、
すでにこの村にはいなかった。
数日前、上流の部族へ送られた。

別れの言葉はなかった。
村の慣わしで、それは許されない。

でも、
彼は、彼女のことを忘れないと決めた。
そして、
「忘れない」を、初めて“文字”で残したかった。


彼は、震える手で粘土板に刻む。
記号ではない。
誰にも読めないかもしれない。

でも、
その文字列には確かに意味があった。

「目の端に、よく光る茶の色。」
「火のそばで笑った線。」
「名が呼べないまま消えた名。」

それは、
彼にとっての“彼女そのもの”だった。


書き終わったあと、
彼はその粘土板を日陰に置いた。
乾かせば、崩れない。
けれど誰にも見せなかった。

残したかったのは、
“誰かに見せるための言葉”じゃない。
“忘れてしまう自分に抗うための言葉”だった。


世界の誰もが、
「記録」を残している時代。
彼だけが、
“記憶”を刻んだ。

それが、
人類最初の感情文だった。

第二章:「読まれない言葉」


夕方。
風が少し冷たくなった。
粘土板は、もう固まっていた。
触れると、かすかに粉が落ちるほどに乾いていた。

彼は、それを持ち上げた。
重さはあった。
でも、
刻んだ“言葉”の方が、もっと重かった。


人々が粘土板に刻むのは、
いつも“伝えるため”だった。
「残しておけ」と言われたものを、
「渡すため」に記録していた。

けれど、
彼の板は、
誰にも渡さなかった。

洞窟の奥に入った。
以前、彼女と雨を避けた場所。
岩の影に、板をそっと置いた。

誰も来ない場所。
誰も読まない板。
でも、
そこに置いてあるだけで、
彼の中で“忘れない”が、現実になった。


数年後。
板は崩れた。
地震か、雨か、動物の足か。
それはわからない。

でも、
その板が存在していた記憶は、
彼の中にだけ、ずっと残った。


言葉が、
人に「伝えるための道具」になる前に、
一度だけ、
「誰にも読まれないために刻まれた言葉」があった。

それが、
人類で最初の、詩だったのかもしれない。




いいなと思ったら応援しよう!

静月 いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。皆さまの応援が、静月の物語を生み出す力です。いただいたチップは、すべて次の作品作りに大切に使わせていただきます。