『まだ言葉にしていないだけ』②
第2章 声にならない問い
──伝えたいのに、言葉にできない感情が溢れる
①「何かを言おうとして、やめた」
エレベーターのドアが開いた。
彼女は、ほんの一瞬だけこちらを見て、視線を落とした。
僕は、何かを言おうとした。
けれど、言葉が喉の奥でつかえて、形にならなかった。
足音ひとつ立てず、彼女はゆっくりと乗り込んでいく。
午後3時過ぎ、春の終わりの光が、ガラスの壁を透かして差し込んでいた。
その光が、彼女の髪のあたりでふわりと揺れ、淡い影が床に滲んだ。
僕は、エレベーターの内側にある、鏡のようなパネルを見つめた。
そこに映るのは、無表情な自分と、斜め後ろに立つ彼女の横顔。
遠いようで、すぐそこにいる。けれど、何ひとつ届かない。
「……あのさ」
たったそれだけが、喉まで上がっていた。
けれど、その先がなかった。
沈黙が、音を吸い込んでいく。
階数を示す数字が、ゆっくりと変わっていく。
5、4、3──
何かを言えば、きっと世界は少しだけ動いた。
でも僕は、その変化にまだ耐えられなかった。
今のままでいい、という言い訳にすがっていた。
彼女の指先が、降車ボタンの上を滑った。
その静かな仕草にさえ、胸がざわめいた。
ドアが開き、彼女は一歩、外へ出た。
そのとき、ふと振り返りそうな気がして、僕は身を固くした。
けれど彼女はそのまま、静かに歩き去っていった。
小さくなる背中を見送りながら、僕は思った。
あの一言を口にしていれば、
たぶん何かが変わっていた。
でも、
僕はやめた。
それが今日の、僕のすべてだった。
②「呼吸がずれた午後」
職場の空調は、いつも少しだけ寒い。
温度設定のことを言い出す人は誰もいない。けれど、みんな、薄手のカーディガンを羽織っていた。彼女もそうだった。淡いベージュの、生地がやわらかく揺れるカーディガン。
その袖口から、細い手首がのぞいていた。
午後2時45分。共有スペースで偶然に居合わせた。
会話が必要な空気でも、避けるほど遠い間柄でもなかった。
ただ、ほんの数秒、同じ空気の中にいた。
僕がコーヒーを淹れている間、彼女は隣のカウンターで紅茶を選んでいた。
お湯が注がれる音、カップがぶつかる音。
そのすべてが、やけに大きく感じられた。
少し、喋ろうかと思った。
でも、彼女が呼吸をひとつ、浅く吸ったとき、僕は黙った。
その呼吸は、なにかを考えている音だった。
僕の声は、その思考を乱してしまうような気がした。
だから、声をかけなかった。
そういう“やさしさ”を、僕は選んだ。
ただ、ほんのわずかに、僕らの呼吸がすれ違った。
そのズレは、小さくて、でも確かな違和感として、午後の空気に残った。
③「机の端に置かれた紙コップ」
彼女が使うデスクの上は、いつも整っていた。
並べられた文房具、揃ったファイル、そして、机の端に静かに置かれた紙コップ。
その日は珍しく、紙コップの位置が少しずれていた。
端から少しだけ中央寄り。まるで、誰かに見せるつもりだったかのように。
いや、きっと偶然だった。気のせいだった。
でも、僕の目には、何かのサインのように映ってしまった。
白い紙コップには、小さなペンで描いたような星のマークがついていた。
それは彼女の癖で、たまにそうやって自分の持ち物に印をつけていた。
誰にも気づかれないように、でも確かにそこにある、彼女の気配。
僕はその紙コップに、言葉を見た気がした。
言葉にならない、視線の代わり。
机の上に置かれた、感情のかけら。
彼女が何を思ってそれを置いたのか、僕には分からない。
でも、捨てられずにそこにあったこと。
それがすべてだった。
④「声が届かない距離だった」
午後の社内放送が流れていた。
どこかの部署で誰かの誕生日らしく、ゆるいBGMがかかっていた。
その音が、余計に距離を感じさせた。
彼女は、コピー機の前で背中を向けていた。
僕は、反対側の棚にファイルを返しに行く途中だった。
それは、ほんの3メートルの距離。
なのに、なぜか遠かった。
「お疲れさまです」
そう言うだけでよかったはずだった。
でも、声が出なかった。
喉に言葉はあったのに、空気がそこを通らなかった。
まるで僕の声だけ、遮られているかのようだった。
目を開けたまま夢の中にいるような、そんな隔たり。
彼女が振り向いた。
そして、少し驚いたように、眉を動かした。
きっと、僕がそこにいるとは思わなかったのだろう。
でも、それだけだった。言葉は交わされなかった。
彼女は再び、作業に戻った。
僕も黙って、その場を離れた。
届かなかったのは、声ではなく、
――僕の「在り方」だったのかもしれない。
⑤「視線を合わせなかった理由」
会議室で、同じ空気を吸うことが増えていた。
彼女は、いつも斜め前の席に座った。
資料を見るふりをしながら、僕はときどき、その横顔を盗み見ていた。
でも、彼女と目が合うことは、なかった。
それどころか、彼女はいつも視線を“ずらしていた”。
まるで、目を合わせてしまえば、何かが露わになると知っているようだった。
そして、それを拒んでいるようでもあった。
会議の中身なんて、頭に入ってこなかった。
彼女が笑うたび、誰かと話すたび、僕の内側はざわついた。
なのに、彼女は僕を見ない。
それがただの偶然だと思いたかった。
でも、5回目の会議でも、彼女は一度も僕と視線を交わさなかった。
それは、「気づいていない」わけじゃない、という証拠だった。
気づいているのに、見ない。
僕らの関係は、その一点で成り立っていた。
視線を合わせないというやさしさ。
視線を合わせないという逃避。
どちらでもあるし、どちらでもない。
ただひとつ、確かに言えるのは――
僕もまた、視線を合わせることが、怖かったということだ。
⑥「どうしたの?」が言えなかった
何かが違うと気づいたのは、ほんの些細な瞬間だった。
いつものように、休憩室の椅子に座っていた彼女が、今日はコーヒーではなく、ただ白湯のカップを両手で抱えていた。
眉の角度が、少しだけ下がっていた。
足元を見つめる時間が、少しだけ長かった。
何より、いつもより「話しかけて」と言っているような空気が、まとう雰囲気の中に、確かにあった。
それでも、僕は「どうしたの?」と声に出せなかった。
その一言が、彼女の張り詰めた何かを壊してしまう気がした。
もしくは、その言葉すら届かないほど、彼女が遠くにいる気がした。
だから、僕はいつも通りの無難な話をした。
昨日のニュース。今日の天気。季節外れの風。
彼女が少しだけ笑ってくれたことで、僕はそれ以上を踏み込まない選択をした。
でも本当は、聞きたかった。
言葉より先に、彼女の心に、そっと触れてみたかった。
⑦ 彼女は笑っていたけれど
彼女は笑っていた。
口元はきちんと上がっていて、声もきちんと出ていた。
でも、その笑顔の奥にある静かな波紋が、僕には見えてしまっていた。
あの笑顔は、「大丈夫」という仮面だった。
「心配かけたくない」という優しさと、
「これ以上、近づかないで」というさりげない壁とが、同時に宿っていた。
目が、ほんの少しだけ泳いでいた。
手の動きが、いつもより慎重だった。
笑いながらも、どこか遠くを見ていた。
僕はその笑顔を、壊さないように、なぞるように笑い返した。
本当は、その笑顔の奥にある言葉にならない叫びに、気づいていることを伝えたかったのに。
「彼女は、今日も笑っていた」
でも、その笑顔が痛いほど切なくて、僕は、何もできなかった。
⑧ 言葉にすると壊れそうだった
彼女がカップを口元に運ぶ動作が、ほんの少しだけ止まった。
その一瞬の間に、胸の奥がざわついた。
目を合わせるでもなく、逸らすでもない視線。
まるで、どこか遠くの景色を見ているような目をしていた。
いつもなら軽やかに返ってくる言葉が、その日は何度も喉の奥で止まっているように感じた。
話しかけようとして、やめた。
その気配を彼女が敏感に察したのか、ふわりと笑みを浮かべた。
その笑顔に、僕はまた言葉を飲み込んだ。
何かを言ってしまったら、
この静かな時間が、崩れてしまう気がした。
彼女が張りつめている糸を、僕の声が引きちぎってしまう気がした。
だから僕は、ほんのわずかに微笑みを返すことしかできなかった。
彼女が今、抱えているものの正体を知らないままに。
⑨ 同じ沈黙を抱えていた
沈黙が流れていた。
でもそれは、気まずいものではなかった。
どこか、似ていた。
彼女の沈黙も、僕の沈黙も。
お互いに話せないことがあり、
お互いに聞けないことがある。
けれど、その沈黙があるからこそ、そこに優しさが生まれていた。
部屋の中には、遠くの踏切の音だけが静かに響いていた。
彼女は、何かを思い出すように窓の外を見つめていた。
僕はその横顔を、見つめることしかできなかった。
まるで、同じ痛みを知っている者同士のように。
まるで、「それでも、ここにいてくれるなら大丈夫」と、お互いに願っているかのように。
言葉はなかった。
でも、その沈黙が、僕たちの心をつないでいた。
⑩ 答えのない問いが残ったまま
その日、彼女は何も話さなかった。
僕も、何も聞かなかった。
でも帰り際、ドアのところで少しだけ立ち止まり、彼女は振り返って微笑んだ。
その笑顔には、ほんの少しの「ありがとう」と、ほんの少しの「ごめんね」が混じっていた。
僕は、それに頷くだけだった。
本当は、聞きたかった。
「苦しんでるの?」
「ひとりで抱えてるの?」
「僕にできること、ある?」と。
でもそのどれもが、
答えを持たない問いのように感じてしまった。
彼女は何も言わず、そっと手を振った。
僕も何も言わず、それに応えた。
その夜、彼女の背中を思い出しながら、僕はまた同じ問いを繰り返した。
「大丈夫だったんだろうか」
「本当は、何を言いたかったんだろう」
声にならない問いは、心の奥に静かに沈んだままだった。
いいなと思ったら応援しよう!
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。皆さまの応援が、静月の物語を生み出す力です。いただいたチップは、すべて次の作品作りに大切に使わせていただきます。
