恋愛小説「10年目の句読点」
あらすじ
銀行員として働いていた男は、無理に自分を押し殺し続けた末に心を壊し、職を離れる。何も考えない時間を経て、コンビニで働き始めた彼は、そこで一人の女性と出会う。
年齢差のあるふたりは、やがて自然と付き合い始める。彼は彼女をよく観察し、その仕草や優しさをひとつひとつ言葉にしていくことで、関係は穏やかに続いていった。笑わせることが、彼にとっての愛し方だった。
しかし、彼女の仕事や環境が変わるにつれ、ふたりの見ている世界は少しずつずれていく。仲が悪くなったわけではない。ただ、同じ景色を見なくなっていった。そしてある日、彼女は静かに告げる。「ずっと勘違いしていた」と。
四年の関係は、音もなく終わる。
それから十年後。彼女から届いた一通のメッセージをきっかけに、ふたりは再会する。会話は昔のように自然に続き、温度も確かに残っていた。しかし彼女はすでに別の時間を生きており、男の想いは、やさしく拒まれる。
それでも彼は、逃げずに言葉を伝えたことで、自分の中の時間に区切りをつける。
かつて彼女に「小説を書いている」とついた嘘を思い出し、男は実際に物語を書き上げる。完成した作品を彼女に送ると、短い応援の言葉が返ってくる。
名前のない「スキ」の向こうに、誰かの気配を感じながら、男は今日も書き続ける。
それが誰であってもいいと思えるところまで、少しずつ辿り着きながら。
第1章「お会いして、お話できませんか?」が届いた朝
あの朝のことは、今でも妙に鮮明に思い出せる。
十年ぶりに、彼女から連絡が来た朝だった。
朝。スマホが、机の上でのんきに震えていた。
寝起きの指でロックを外した。
ニュースか、通販サイトのおすすめか、ポイント失効のお知らせだろうと、半分まぶたを閉じたまま画面をのぞき込んでいた。
そこに表示されていた名前を見た瞬間、頭が真っ白になって、体温が一気に上がった気がした。
――彼女だった。
十年ぶりだった。
数秒、そのまま固まっていたと思う。
指も、視線も、呼吸も、全部止まっていた。
震える親指で画面を開いた。
受信ボックスに、ひとつだけメールが届いていた。
件名も短く、本文も一行だけだった。
『お会いして、お話できませんか?』
……え?
なんだこの一文、と思った。
ビジネスメールみたいな顔をして、胸のど真ん中に届いてくる。
「会いたい」でも「久しぶり」でもない。
丁寧で、距離があって、でも、確かにこちらに向かっている文章だった。
十年の沈黙を破るにしては、あまりに静かすぎた。
スマホを持つ手が、にわかに汗ばんでいくのがわかった。
その瞬間、頭の中で何かが一斉に動き出したのを、今でもはっきり覚えている。
僕の中には、いくつかの声がある。
重要なことが起きると、それぞれが勝手に話し始める。
名前をつけるなら、こんな感じだ。
【予測不能パニックエゴ】
「なんで今?復縁?いや違うだろ、何か理由があるはずだ」
【自己肯定エゴ】
「十年ぶりに連絡してくるということは、少なくとも嫌われてはいない」
【深読み無限ループエゴ】
「“お話できませんか”は、距離を取った表現だ。本音は別にある可能性もある」
【恋愛楽観エゴ】
「これは偶然じゃない。何かしらの意味がある」
【対応冷静エゴ】
「返信は簡潔に。余計な感情は出すな」
【期待抑止エゴ】
「勘違いするな。これは“選ばれた”わけじゃない」
【過去ログ照合エゴ】
「最後のやり取りは“元気でね”。それ以降は沈黙。今回の連絡は例外的だ」
【外面調整エゴ】
「会うなら準備が必要だ。見た目も、環境も」
【回想エゴ】
「あの頃のこと、まだ覚えてるだろ」
【議長エゴ】
「全員、静かに。議題はひとつだ」
こうして、頭の中の会議は始まっていた。
スマホの中のたった一行が、
十年分の静寂を、簡単に動かしてしまう。
彼女から連絡が来ただけで、
自分が“選ばれたような気がしていた”のも事実だった。
それが勘違いでもいい、と思った。
あのときの僕は、確かに揺れていた。
怖くなかったわけではない。
また同じ結末になるかもしれない。
今の自分を見て、何かを思われるかもしれない。
そんな考えが、頭の中で次々と浮かんでいた。
そのとき、ひとつの声が、静かに言った。
【静かな核心エゴ】
「……でも、嬉しいだろ」
その一言で、少しだけ静かになったのを覚えている。
怖さも、迷いもある。
でも、それとは別に、確かにある感覚があった。
もう一度、つながったという事実だった。
議長エゴが言った。
「結論を急ぐな。
本気かどうかは後でいい。
今決めるのはひとつだけだ。
――会うかどうか」
僕は、画面を見ていた。
そして、ようやく指を動かした。
『ご連絡ありがとうございます。驚きましたが、嬉しかったです。久しぶりにお会いできたらと思います。』
たった二行だった。
十年ぶりなのに、たった二行だった。
でも、あのときの僕には、それが精一杯だった。
送信ボタンに指を置いた。
少しだけ、間を置いた。
それから、押した。
たった一瞬の動きだった。
でも、その瞬間、
止まっていた時間が、静かに動き出した気がした。
その夜、ベッドに入っても、
頭の中は完全には静まっていなかった。
いくつかの声が、遠くでまだ話していた。
でも、不思議と眠れないほどではなかった。
胸の奥に、小さな振動が残っていた。
それを確かめるように、目を閉じた。
――あの一行が、
もう一度、自分の中の何かを動かした。
第2章「壊れたあと、立っていた場所」
そのメッセージが届いた朝、
僕はコーヒーを淹れながら、銀行員時代のことを思い出していた。
彼女と出会うきっかけになった、あの頃の自分のことを。
僕は四年間、企業内組合にいた。
いわゆる「御用組合」と揶揄されることも多い、あの組織だ。
ちょうど、経営が大きく揺れた時期だった。
ボーナスは出ず、現場の不満は限界まで溜まっていた。
その頃の僕は、組合執行部の一員で、
賃金に関わる担当をしていた。
そしてある日、
全体説明会の司会役を任された。
本店の講堂。
組合員と、経営側の役員が向き合う場。
空気は、最初から重かった。
事前に、アンケートを取っていた。
不満、怒り、疑問。
かなりきつい言葉も多かった。
「経営責任はどうなるんだ」
「全員、退任すべきじゃないのか」
正直、大人なら言い方を変えるだろう、という内容もあった。
でも僕は考えた。
これは感情ではなく、仕事だと。
だから、
内容は変えず、
言葉だけを丁寧に整えて、
役員に質問した。
その瞬間だった。
客席から、ヤジが飛んだ。
「そのまま読め!」
一人じゃない。
あちこちから、声が重なる。
「何、遠慮してるんだ」
「御用組合!」
「組合は会社の犬か!」
場が、一気に荒れた。
正直、腹が立った。
お前ら、同じ銀行員じゃないのか。
支店で一緒に働いたことのある顔も、そこにあった。
でも、便乗する。
誰かが声を上げると、
正義でもなく、理屈でもなく、空気に乗る。
笑っている人もいた。
明らかに、面白がっている表情だった。
そのとき、
役員の一人が言った。
「……そのまま読んでください」
僕は、一瞬、迷った。
何で、こんなやつらに屈しないといけないんだ。
そう思いながらも、
結局、以降はアンケートをそのまま読み上げた。
すると、
さらに酷くなった。
質問とは関係のない、
司会である僕個人へのヤジが飛び始めた。
私生活に踏み込むような言葉。
完全に一線を越えていた。
それでも僕は続けた。
司会として。
仕事として。
淡々と。
誰が言ったのかは、
しっかり顔を見て、覚えながら。
説明会が終わったとき、
拍手はなかった。
ざわざわしたまま、人は散っていった。
僕はその日、はっきり思った。
組合を降りたら、銀行を辞めよう。
あの場で攻撃を受けたのは、僕だ。
でも、
壊れていたのは、
あの空間そのものだったと思っている。
後になって、強く思うようになった。
感想や本音は、
そのまま相手に渡せばいいものじゃない。
言葉には、刃がある。
場には、空気がある。
群衆は、責任を取らない。
だからこそ、
翻訳する人間が必要な場面がある。
あのとき僕がやったのは、
感情を、質問に変える仕事だった。
誰かを守れたとは思わない。
でも、
そのまま読んでいたら、
もっと多くのものが壊れていた気はしている。
ただ――
壊れたのは、
結局、僕だった。
僕は昔から、
性格は変わらないものだと思っていた。
高校生ぐらいの頃には、もうそう感じていた。
ただ、それを確かめる勇気はなかった。
だから、
逆のことをした。
自分を変えようとして、
銀行員になった。
面倒臭がりな自分を、
ちゃんとした人間に矯正したかった。
今思えば、
かなり雑な理由だ。
そして、
十二年間続けた。
結果――
僕は壊れた。
自分を押し殺して、
銀行という社会に無理に合わせ続けた結果、
ある日、限界が来た。
病院で、カウンセラーに言われた。
「ストレスが限界まで溜まって、一気に破裂したんですね」
その人は、とびきり美人だった。
……いや、今それはいい。
とにかく、
僕は、一度完全に止まった。
そのあと一年、
僕は、何も考えなかった。
毎日、パチンコをしていた。
朝起きて、
適当に店に行って、
座って、
回して、
帰る。
それだけの生活だった。
今振り返ると、
あれはリハビリだったんだと思う。
何も考えないこと。
何にもなろうとしないこと。
それが、
自分を戻してくれた。
あまりにも適当な一年だった。
でも、
あの一年がなかったら、
たぶん、今も戻れていない。
そのあと、
いろいろ寄り道はしたけど、
今は警備員をやっている。
もう十年になる。
今は、普通に幸せだ。
性格って、変わるのか。
いろいろな考え方はあるけれど、
結局、どれも同じところに行き着く気がした。
性格の核は、あまり変わらない。
変えられるのは、行動と環境だけ。
だから僕は思った。
性格を変えようとして壊れるぐらいなら、
性格に合った生き方を選んだ方がいい。
ついでに、少しだけ考えてみた。
僕は、面倒臭がりで、どちらかといえば“快”を優先してしまう性格だ。
そういう人間が、銀行員として向いていたのか。
答えは、わりとすぐに出た。
致命的に、向いていなかった。
むしろ、よく十二年も続いたなと思う。
じゃあ、今やっている警備員の仕事はどうなのか。
これも、なんとなく分かっていた。
向いている。
少なくとも、あの頃よりはずっと自然に立てている。
理由も、たぶんシンプルだ。
誰かの評価に合わせて動くよりも、
自分の中の納得や“快”で動くほうが、楽に続けられる。
ただ、ひとつだけ、気をつけなければいけないことも分かっている。
ひとつの仕事に、
生活のすべてと、
生きる意味のすべてを、
詰め込みすぎないこと。
それをやると、また同じことを繰り返す。
僕は、
向いていない場所で、
向いていないやり方を続けて、
見事に壊れた。
ただ、それだけの話だ。
でも、
ひとつだけ、わかったことがある。
性格を変えようとして壊れる人がいるなら、
生き方を変えて助かる人もいる。
僕は、たぶん後者だった。
そして、コンビニに立っていた。
銀行を辞めたあと、そこでアルバイトを始めた。
理由は単純だ。
楽しそうだったから。
新しい店のオープニングスタッフだった。
レジに立って、
商品を並べて、
お客さんと話して、
それだけでいい。
誰かの評価じゃなくて、
目の前のやり取りだけで仕事が完結する。
それが、妙に心地よかった。
そして――
その店に、彼女がいた。
第3章 「彼女は、十八歳だった」
新しい店のオープニングスタッフ。
真新しい床。
まだ誰の手垢もついていないレジ。
売り場の棚に、綺麗に並べられた商品。
コンビニという場所には、妙な明るさがある。
夜中でも明るいし、
朝でも昼でも、だいたい同じ顔をしている。
その感じが、少し好きだった。
銀行の空気は、いつもどこか張り詰めていた。
数字がずっと背中を見ているような場所だった。
でもコンビニは違った。
目の前の人に、
「いらっしゃいませ」と言って、
商品を通して、
「ありがとうございました」と言う。
たったそれだけのことが、
妙に人間的だった。
だから僕は、そこに立っていた。
そして、彼女もそこにいた。
まだ高校三年生だった。
最初に見たときのことは、今でも覚えている。
レジの向こう側で、
少し首を傾けながら笑った。
その瞬間、
ああ、こんな可愛い子いるんだな、と思った。
有名女優に似ていた。
……いや、自慢してるわけじゃない。
本当に似ていたのだ。
少なくとも、レジ越しに笑っているときは、
かなり似ていた。
僕は、その事実を冷静に確認しただけである。
ただし、
心の中では少しだけ思った。
コンビニのアルバイト、悪くないかもしれない。
もっとも、
だからといって、僕は積極的に話しかけたりはしなかった。
嫌われたくなかったからだ。
あの頃の自分には、
若い子に気軽に話しかけることが、少し難しかった。
僕は三十代半ばで、
向こうは制服の残り香をまだまとっているような年齢だった。
年齢差というのは、
数字として見るとただの引き算だが、
感覚としてはもっと複雑だ。
近づいていいのか、
近づいたら何かを壊すんじゃないか。
そういう変な遠慮が先に立つ。
だから僕は、
必要以上には話さなかった。
でも、同じ店で働いていると、
まったく話さないというわけにもいかない。
レジの引き継ぎ。
品出しの確認。
休憩の順番。
廃棄の処理。
そういう、どうでもいい会話が少しずつ積み重なっていく。
たぶん恋というものは、
最初から特別な言葉で始まることは少ない。
「これ、どこに置けばいいですか」
「この時間、混みますね」
「レジ袋、足りなくなりそうです」
そんな会話の中に、
あとから振り返ると少しだけ温度があったと気づく。
当時は、まだ気づいていなかったけれど。
彼女は卒業しても就職せずに、
そのまま店で働いていた。
フリーター、という言葉で片づけることもできたけれど、
彼女には彼女なりの考えがあったのだと思う。
ただ、その頃の僕に分かっていたのは、
彼女と話す時間が少しずつ増えていった、ということだけだった。
当時は、まだLINEがなかった。
だから、やり取りはメールだった。
僕らは、わりとよくやり取りをしていた。
相談相手みたいな感じだったと思う。
少なくとも、僕はそう思っていた。
そしてある日、
いつものようにメールをしていて、
冗談で、
本当に冗談で、
神に誓って冗談で、
こう送った。
「二人で温泉行かない?」
温泉の話題が出たからだ。
さすがに僕も、
何の流れもなくそんなことを言う人間ではない。
……たぶん。
ただ、送ったあとで思った。
これ、冗談の顔をした本音なんじゃないか、と。
そういうことは、
送信してから気づく。
そして、返事が来た。
「いいですよ」
僕は、その文を三回読んだ。
いや、ほんとはもっと読んだ。
もう一度確認する。
僕のメールは、
「二人で温泉行かない?」だ。
“二人で”である。
で、返事が、
「いいですよ」である。
この「いいですよ」に対して、
どう返すか。
人生で一番、頭を使ったかもしれない。
冷静になるまで三十分くらいかかった。
冷静になってから、
さらに三十分かけて返信を考えた。
ここで変に浮かれると終わる。
かといって、妙に引いても終わる。
大人の余裕を見せつつ、
でも話は進めなければならない。
難易度が高すぎた。
そして、僕はこう返した。
「じゃあ、いい温泉知ってるから、俺に任せて。12日と13日空けといて」
今でも思う。
この返事は、ちゃんと前に進む形にはなっていた。
感情は出ていなかった。
あのときは、それどころじゃなかった。
問題は、そのあとだった。
僕は全国の温泉を調べ始めた。
いい温泉なんて、ひとつも知らなかったのである。
知ってるから任せて、と言ったくせに、
全然知らなかった。
人は、ときどき勢いで未来を予約してしまう。
そして、予約したあとで必死に辻褄を合わせる。
恋愛の初期というのは、
だいたいそういうものかもしれない。
あの夜――温泉に誘った、あのときの自分は、きっと必死に冷静を装っていた。
そしてその不器用さは、たぶん、今もそんなに変わっていない。
少なくとも、
全国の温泉を調べる前に、
一回深呼吸くらいはできるようになった。
たぶん。
第4章 「観察するという愛」
付き合い始めたときのことは、
正直、あまり覚えていない。
どっちから告白したのかも、
はっきりとは思い出せない。
ただ、
気づいたら一緒にいた。
それだけは確かだった。
コンビニの休憩室。
夜の帰り道。
メールのやり取り。
特別な瞬間というより、
どうでもいい時間が、少しずつ繋がっていった。
気づいたら、
それが当たり前になっていた。
彼女といると、
会話が途切れることはあまりなかった。
無理に話さなくてもいいし、
話せばちゃんと続く。
そういう相手は、
そんなに多くない。
彼女は、
よく人を見ていた。
観察する、という言い方のほうが近いかもしれない。
誰かが困っていたら、
先に気づく。
誰かが落としたものを、
自然に拾う。
そういう行動に、
説明はいらない。
ただ、身体が先に動いている。
それを見ていると、
この人は、
ちゃんと世界を見ているんだな、と思った。
ある日、
彼女が聞いた。
「私のどんなとこ好き?」
よくある質問だと思う。
でも、そのときの僕は、
少しだけ真面目に考えた。
見た目とか、
優しいところとか、
そういう答えはいくらでもある。
でも、それだと、
なんか違う気がした。
僕は、少し考えてから答え始めた。
「まず、コンビニで会計終わったあと、必ず店員さんに“ありがとうございます”って言うところ」
彼女は少し笑った。
僕は続けた。
「それから、レストランで水をこぼしたとき、店員さんが来る前に自分のハンカチ出して拭こうとするところ」
彼女は黙って聞いていた。
「あと、道で子どもが転んだとき、反射的にしゃがんで“痛かったね”って言ったところ」
少し考える。
「電車でお年寄りに席を譲るとき、周りに気づかれないように立つところ」
彼女は、ずっと微笑んでいた。
僕は止まらなかった。
「僕が仕事で落ち込んでるとき、“大丈夫?”って聞くんじゃなくて、“ご飯食べよ”って言ったところ」
「それから、猫見つけると必ずしゃがむところ」
「あと、映画見て泣いたあと、恥ずかしそうに“泣いてないよ”って言うところ」
「それから、僕のくだらない話でも、ちゃんと最後まで聞くところ」
「それから、怒ってるときでも“ちゃんと話そう”って言うところ」
「それから、僕が風邪ひいたとき、ポカリとゼリーとプリンを全部買ってきたところ」
「それから、駅の階段で前の人が重そうなスーツケース持ってると、黙って持つの手伝うところ」
「それから、僕の誕生日に、去年僕が“この本面白そう”って言ったの覚えてて買ってきたところ」
まだ続ける。
「それから、笑うとき右目が先に細くなるところ」
「それから、怒ると敬語になるところ」
「それから、真剣に考えるとき、左の眉だけ少し上がるところ」
彼女は、
ずっと嬉しそうに聞いていた。
本当に、
嬉しそうに。
僕は、最後に言った。
「あと、今」
「僕の話を途中で止めないで、ずっと嬉しそうに聞いてるところ」
少し間があって、
彼女は笑った。
そして言った。
「そんなふうに、私のことを一生懸命観察してるところ」
「そういうとこ、好き」
少しからかうように、
でも、ちゃんとした声で。
彼女が聞いた。
「嫌いなところは?」
僕は少し考えてから言った。
「まだ見つからない」
彼女は少し笑った。
僕は続けた。
「もし見つかったら、そのときも本音で話す」
「約束する」
彼女は少し黙ってから笑った。
「まだ覚えてることあるの?」
僕はうなずいた。
「たくさん、あるよ」
「家着いたら言う」
彼女は笑った。
その会話は、
たぶん特別なものじゃない。
どこにでもある恋人同士のやり取りだと思う。
でも、今振り返ると、
あのときの会話には、ひとつだけ特徴があった。
僕は、
彼女を理解しようとしていたんじゃない。
ただ、
見ていた。
理解しようとすると、
言葉が必要になる。
説明が必要になる。
理由を探し始める。
でも、
見ているだけなら、
そこに理由はいらない。
ただ、
そこにあるものを、
そのまま受け取るだけでいい。
それが、
あの頃の僕の愛し方だった。
そして、
たぶんそれは、
少しだけ不器用な愛し方でもあった。
理解しようとしないということは、
深く踏み込まないということでもある。
彼女が何を考えていたのか、
どこで迷っていたのか、
本当は何を求めていたのか。
僕は、
ちゃんと聞いていなかったのかもしれない。
ただ、
見て、
好きだと思って、
それで満足していた。
四年という時間は、
長いようで、あっという間だった。
でも、
その四年の中には、
確かに温度があった。
そしてその温度は、
あとになっても消えない種類のものだった。
だから僕は、
今でも、
彼女のことを思い出してしまう。
右目が先に細くなる笑い方も、
怒ると敬語になるところも、
全部、ちゃんと覚えている。
忘れなかったのではなく、
最初から、
忘れられない形で見てしまっていたのかもしれない。
そしてその記憶が、
このあと、
少しだけ重さを持つことになる。
第5章「笑わせることで、成立していた」
あの頃、僕はよく本を読んでいた。
別に知識を増やしたかったわけじゃない。
仕事に活かしたいとも思っていなかった。
ただ――
彼女を笑わせたかった。
それだけだった。
小説も読んだし、エッセイも読んだ。
人の話し方や、言い回しや、間の取り方まで、妙に気にするようになった。
「これ、使えるな」
と思ったものは、頭の中にメモしていた。
ネタ帳みたいなものだったと思う。
会えない日は、メールを送った。
やたら長いやつを。
今思えば、少し異常だったかもしれない。
出来事を、そのまま書くんじゃない。
どう書けば、ちょっと面白くなるかを考えていた。
オチをつけたり、言い回しを変えたり、
一回書いて、読み返して、少し直してから送る。
そんなことを、普通にやっていた。
全部、彼女を笑わせるためだった。
彼女は、よく笑ってくれた。
会っているとき、
くだらない話でも、楽しそうに聞いてくれた。
その笑い方を思い出しながら、
僕は長いメールを書いていた。
届いていると思っていた。
あるとき、彼女が言った。
「ブログとかやればいいのに」
僕は少しだけ驚いた。
そんなふうに考えたことはなかったからだ。
でも、そのときは、軽く流した。
「いやいや、そんな大したもんじゃないよ」
そう言って、終わった。
——あのとき、
彼女が何を見て、そう言ったのか、
僕はちゃんと分かっていなかった。
たぶん、
分かろうともしていなかった。
その言葉の意味を思い出したのは、
ずっとあとになってからだった。
あの頃の僕は、
笑わせることができていれば、それで十分だと思っていた。
それ以上、何かを考える必要はないと思っていた。
——今思えば、
僕は、彼女のことをちゃんと見ているつもりで、見ていなかったのかもしれない。
笑ってくれるかどうか、
その結果ばかりを見ていた。
その奥にあるものに、
目を向けようとしていなかった。
それが、少しずつズレていった理由だったのだと思う。
第6章「見ている世界が変わっていった」
彼女と仲が悪くなったわけじゃなかった。
そこを、たぶん僕はずっと勘違いしていた。
喧嘩が増えたわけでもない。
会話が途切れたわけでもない。
嫌われた、という決定的な出来事があったわけでもない。
ただ、少しずつ、見ている世界が変わっていった。
それだけだった。
彼女はコンビニを辞めた。
新しい仕事は、薬局の美容担当だった。
「見つかって良かったじゃん。
ゆかに似合いそうな仕事だね。
応援してるよ。」
それは、たぶん本音だった。
彼女は昔から、そういうものに向いている感じがあった。
ただ、そのときの僕は、
“向いている”の意味をちゃんと分かっていなかったのだと思う。
仕事が変わってから、彼女は少しずつ変わっていった。
服の話をするようになった。
化粧品の名前を口にするようになった。
僕には違いの分からない色の話を、楽しそうにするようになった。
髪型も、前より少しだけ大人っぽくなった。
持ち物も変わった。
一つひとつは小さなことだったけれど、並べてみると、ちゃんと別の景色だった。
僕はそれを見ていた。
見てはいたけど、
その中には入っていけなかった。
「それ、どう違うの?」
と聞けばよかったのかもしれない。
「面白そうだね」
と、もう一歩踏み込めばよかったのかもしれない。
でも僕は、だいたい笑って流していた。
「俺には分からない世界だなあ」
みたいなことを言って。
その場は、それで成立していた。
彼女も笑っていた。
だから僕は、何も問題ないと思っていた。
でも今思うと、
あれは“会話していた”というより、
彼女の世界の入口で立ち止まっていただけだったのかもしれない。
交友関係も変わっていった。
職場の人の名前が、少しずつ会話の中に出てくるようになった。
最初はそれを、普通のことだと思っていた。
当たり前だ。
職場が変われば、人間関係も変わる。
でも、楽しそうにその話をする彼女を見ていると、
少しだけ置いていかれる感じがした。
知らない人たち。
知らない会話。
知らない空気。
僕のいない場所で、
彼女がちゃんと笑っている。
それが、なぜだか少しだけ寂しかった。
一度、ディズニーランドに誘ったことがある。
かなり前の話だ。
彼女は少し考えてから笑って、
「不倫だと思われるから、やめとこ」
と言った。
僕も笑った。
彼女も笑った。
その場はそれで終わった。
だから、別に気にしていないつもりだった。
でも後になって、
彼女が職場の友だちとディズニーランドに行った話を、楽しそうにしているのを聞いたとき、
胸の中で何かが小さく引っかかった。
もちろん、責める理由なんてない。
友だちと行くのは普通だ。
僕と行くのとは違う。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、
少しだけ傷ついていた。
そのとき思った。
行けなかったのは、
ディズニーランドじゃなかったのかもしれない。
彼女の新しい世界のほうだった。
僕は、たぶん、
彼女が変わっていくこと自体を嫌だったわけじゃない。
きれいになっていくのを見るのは、むしろ好きだった。
楽しそうにしているのも、嬉しかった。
本当に、そうだった。
ただ――
その変化の隣に、
自分がいない気がした。
前は、笑わせればよかった。
長いメールを書いて、
ちょっとした出来事を面白くして、
彼女が笑ってくれれば、それでうまくいっている気がした。
でもいつの間にか、
それだけじゃ届かない場所に彼女は立っていた。
僕は相変わらず、
笑わせようとしていた。
彼女は相変わらず、
笑ってくれていた。
だから僕は、
大丈夫だと思っていた。
仲は、良かったのだ。
ちゃんと会話もしていたし、一緒にいる時間もあった。
何も問題はなかった。
ただ、見ている世界が少しずつ違ってきていた。
そしてたぶん、
本当に怖いのは、喧嘩や沈黙じゃない。
仲がいいまま、
少しずつズレていくことなんだと思う。
壊れる音はしない。
終わりの予告もない。
昨日までと同じ顔で会話ができる。
でも、気づいたときには、
もう同じ景色を見ていない。
あの頃の僕は、
そのことにちゃんと気づいていなかった。
いや、
気づいていないふりをしていたのかもしれない。
笑ってくれている。
だから大丈夫。
今日も普通に話せた。
だから大丈夫。
そんなふうに、
小さな確認を繰り返していた。
でも本当は、
大丈夫かどうかじゃなくて、
彼女が何を見始めているのかを、
もっとちゃんと知ろうとするべきだったのだと思う。
僕は見ていた。
でも、
見ているだけだった。
その違いが、
あとになってから、
ゆっくり効いてきた。
第7章 「勘違い」
彼女が美容とファッションに夢中になり始めた頃、たぶん、その時点でもう、僕たちは少しずつズレ始めていた。
春の終わりだった。
駅前の小さなカフェ。
窓際の席で、彼女はストローを回していた。
氷が、グラスの内側に当たって、
ときどき小さな音を立てる。
外では、夕方の光がゆっくりと街を薄くしていた。
人の影が、歩道の上を流れていく。
彼女は23歳だった。
僕は39歳だった。
それだけのことなのに、
僕たちはときどき、
周囲から奇妙な視線を向けられた。
四年という時間は、
長いようで、あっという間だった。
気づいたら過ぎていて、
振り返ろうとしたときには、
すでに形が曖昧になっている。
でも、その日は違った。
彼女が言った。
「私、気づいたの」
ストローを回したまま、
グラスの中を見ている。
僕は、
何を、とは聞かなかった。
聞く必要がない気がしたからだ。
氷がまた、
小さく鳴った。
「ずっと勘違いしてたって」
その一文は、あまりにも静かで、あまりにもはっきりしていた。
窓の外では、信号が青に変わっていた。
人の流れがまた動き出す。
僕は少しだけ考えた。
彼女にとって、僕は何だったんだろう。
恋人だったのか。
それとも、恋だと思っていた何か別のものだったのか。
言葉は、そこまで説明してくれなかった。
でも、説明されなくても、だいたい分かることはあった。
僕は、特に何も言わなかった。
——あのときの僕は、何も言わないほうがいい気がしていた。
「どういうこと?」
「なんで今それを言うんだ?」
そんな言葉が、頭の中には浮かんでいた。
でも、どれも違う気がした。
違うというより、
もう遅い気がした。
彼女は、
ストローを回すのをやめて、
少しだけ顔を上げた。
その表情は、
驚くほど普通だった。
泣いているわけでもなく、
怒っているわけでもなく、
ただ、
何かを終えた人の顔だった。
僕は、
その顔を見て、
ようやく理解した。
ああ、
これは、
もう決まっていたことなんだな、と。
帰り道、
駅のホームで電車を待ちながら、
僕はもう一度思った。
四年という時間は、
勘違いだったらしい。
電車が来る音がして、
風が少し強く吹いた。
彼女は、
いつもと同じように立っていた。
少しだけ距離があって、
でも、
手を伸ばせば届くくらいの距離だった。
その距離は、
最後まで変わらなかった。
電車が来て、
ドアが開いて、
人が流れ込んでいく。
僕たちは、
同じ車両に乗った。
隣に立っていたけれど、
会話はなかった。
窓に映る自分の顔が、
少しだけ他人みたいに見えた。
僕は思った。
彼女にとって、
この四年は、
何だったんだろう。
そして、
同時に思った。
僕にとっては、
何だったんだろう。
電車が駅に着いて、
彼女は先に降りた。
振り返らなかった。
僕も、
呼び止めなかった。
そのまま、
終わった。
でも僕は、
今でも思っている。
あの笑顔の中に、
ほんの少しだけ、
本当が混ざっていたんじゃないか、と。
それすら、
勘違いなのかもしれない。
それでも僕は、
その勘違いを、
まだ手放していない。
第8章 「二時間ちょっとの距離」
あの夜のことは、妙に残っている。
夜勤室の窓には、街灯の光が貼りついていた。
古い蛍光灯が、低く唸るような音を立てていた。
僕は、机の上のスマートフォンを見ていた。
こういう姿は、あまり人に見せるものではない。
いい歳をした男が、夜中に小さな画面を何度も確かめている。
きっかけは、なんとなく登録したサイトだった。
暇つぶしのつもりだったが、完全にそれだけでもなかった。
何度かやり取りをしたあと、その人がふと、こう書いた。
「年齢知りたいですか?」
その一行は、妙に軽かった。プロフィールには、年齢は出ていなかった。
軽い言葉というのは、ときどき重くなる。前の恋とは、少し違うと思った。
僕は少し考えた。
知れば、数字になる。知らなければ、想像のまま残る。
人は、知らないものを少しだけ美しく考える。
僕はそれを知っていた。でも同時に、知りたいとも思った。
こういう矛盾は、別に珍しくない。ただ、少しだけ情けない。
しばらく画面を見てから、短く打った。
「わからない。言いたい?」
送信してから、スマートフォンを机に置いた。
もっと気の利いた返事があった気がする。
でも、考え直しても思いつかなかった。
それからも、やり取りは少しだけ続いた。
距離は、ゆっくりと縮まっていくようで、どこか曖昧なままだった。
窓の外を、トラックが一台通っていく。
そのとき、ふと思い出した。
その人は、仙台だと言っていた。
仙台。
頭の中で、地図を開く。
川崎。仙台。新幹線。二時間ちょっと。
その距離は、近いのかもしれない。遠いのかもしれない。距離というものは、数字だけでは決まらない。
僕は、小さく独り言を言った。
「日帰りもできるな」
言ってから、少し笑った。
僕は警備員で、その人は仙台にいる。それだけのことだ。でも人は、ときどき意味のない想像をする。その夜の僕も、例外じゃなかった。
もう一度、スマートフォンを見る。既読はついていない。たったそれだけのことが、今夜は妙に長い。
しばらく画面を見ていた。蛍光灯は相変わらず、低く唸っている。
そして、ふと思った。
その距離は、思っていたより、少しだけ短いのかもしれない。
僕は、結局、行かなかった。
行こうと思えば、行けた。二時間ちょっと。それだけの距離だ。
でも、行かなかった。
理由はいくらでも作れる。仕事がある。疲れている。タイミングが合わない。でも、たぶん違う。
僕は、知ってしまったからだ。
距離が近いことと、関係が近いことは、別だということを。
前の恋をしていた頃の僕なら、たぶん行っていた。勢いで、理由を作って、自分を納得させて。
でも、今の僕は、それをしなかった。
会わない、という選択をした。
それは、あきらめではなかった。むしろ、少しだけ、大事にしていたのかもしれない。
近づけば、壊れるものもある。触れなければ、残るものもある。
僕は、その両方を知ってしまった。
だから、距離を保った。
二時間ちょっと。
その距離は、ずっとそのままだった。縮めることもできたし、広げることもできた。でも僕は、そのままにした。
それが、今の僕にできる、いちばん正直な選択だった。
第9章 「音の消えた体育館」
僕は、昔から大事なところで弱い。
それはたぶん、今も変わっていない。
高校時代の最後の試合でも、そうだった。
六月の準々決勝だった。
体育館は、
もう夏の匂いがしていた。
窓は全部開けられていて、
外から吹き込む風が、
ときどきカーテンを揺らす。
でも、
コートの中にはほとんど届かない。
床のワックスと汗の混ざった匂いが、
ずっと漂っていた。
僕らの高校は進学校だった。
バスケットで名前が知られている学校じゃない。
練習も、
特別多いわけじゃなかった。
それでも、その年だけ、
なぜかメンバーが揃っていた。
誰かが特別すごいわけじゃない。
でも、
五人が並ぶと、
妙に噛み合った。
試合が始まると、
体育館の空気が少し変わった。
相手は県の王者だった。
最初のシュートは、
少し遠かった。
でも、
打つ前から、
入る気がしていた。
ボールを放つ。
リングに触れる音が、
軽く響く。
ネットが、
ふっと揺れる。
三点。
ベンチがどよめいた。
次の一本も、
また外からだった。
ボールが空中を進む時間が、
やけに長く感じた。
また入る。
気がつくと、
相手のディフェンスが、
少しずつ前に出てきていた。
でも、
その日は身体が軽かった。
ボールが手に吸いつく。
リングが、
いつもより大きく見える。
三点シュートが、
ぽんぽん決まった。
靴底が床をきしませる音。
ドリブルの弾む音。
ベンチから飛んでくる声。
それらが混ざって、
体育館の中で反響していた。
コートの外側は人で埋まっていて、
応援の声が、
天井にぶつかって返ってくる。
タイムアウトでもないのに、
ふと視線が客席に流れた。
そのとき、
見覚えのある顔が目に入った。
中学のときの先生だった。
僕は一瞬だけ、
動きが遅れた気がした。
どうしてここにいるんだろう、と。
次のプレーで、
外でボールを受ける。
三点ラインの外。
ディフェンスが一歩離れている。
その瞬間、
また先生が目に入った。
シュートを打つ。
ボールがリングに落ちた瞬間、
先生が思いきりガッツポーズをした。
大人なのに、
少し不器用なガッツポーズだった。
走りながら、
ちらっと客席を見る。
先生の目が、
少し赤くなっていた。
一度だけ、
目が合う。
先生は何も言わなかった。
ただ、
小さく頷いた。
それだけだった。
中学のとき、
僕はずっと補欠だった。
試合のとき、
先生の後ろで立っているだけだった。
コートの音を、
遠くから聞いていた。
気がつくと、
僕らがリードしていた。
残り十分。
このままいけば、逃げ切れる。
また外でボールを受ける。
ディフェンスが一歩遅れている。
迷いはなかった。
ジャンプして、
放つ。
ボールは高く弧を描いて、
リングの中心を抜けた。
身体を返して、
ゴール下へ走る。
相手のシュートに合わせて、
僕も跳ぶ。
空中で、
ほんの一瞬だけ肩が触れた。
次の瞬間、
相手が大きく体をのけぞらせて倒れた。
笛が鳴った。
短く、
乾いた音。
振り向くと、
審判が手を上げている。
五本の指。
五つ目だった。
僕は、
思わず天井を見上げた。
体育館のライトが、
白くぼやけていた。
ベンチに戻る途中、
交代の選手が立っていた。
少し緊張した顔をしている。
僕はその肩を叩いた。
「頼む」
それだけ言った。
ベンチに座ると、
試合は続いていた。
選手が走る。
ボールが動く。
観客が声を上げる。
でも、
その音が、
どこか遠かった。
僕の中では、
急に音が消えていた。
ドリブルの音も、
笛の音も、
歓声も。
すべてが遠くなって、
映像だけが流れていた。
まるでモノクロの映画を見ているようだった。
残り時間が、
少しずつ減っていく。
点差が縮まり、
やがて逆転された。
試合が終わったあと、
相手はインターハイに行った。
それから長い時間が経った。
でも僕は、
ときどきあの体育館を思い出す。
六月の匂い。
床のきしむ音。
肩を叩いたときの感触。
そして――
残り十分の、
音の消えた体育館。
恋愛も、
少し似ていると思う。
うまくいっているときは、
全部が軽い。
自然に決まる。
迷いもない。
でも、
大事な場面になると、
少しだけズレる。
ほんの一瞬、
視線が逸れる。
ほんの少し、
判断が遅れる。
それだけで、
流れが変わる。
取り返せないほどではない。
でも、
戻せないほどには変わる。
僕は、
あの試合で負けた。
そしてたぶん、
恋愛でも、
同じ負け方をしていた。
大事なところで、
ほんの少しだけ、
遅れる。
その遅れが、
すべてを決める。
それを、
僕はずっと繰り返していた。
だから、彼女から連絡が来たとき、
僕の中であの体育館が静かに重なった。
今度も、同じ負け方をするのか。
そのとき、不意に思い出した。
先生は、何も言わなかった。
ただ、ちゃんと見ていた。
あの視線は、たぶん、信じている人の目だった。
僕は――
誰かを、あんなふうに見たことがあっただろうか。
彼女のことも、ずっと見ているつもりだった。
細かい仕草も、癖も、全部覚えていた。
でも、それは“観察”だった。
あのときの先生みたいに、
相手の中にあるものを、
そのまま受け取るような見方じゃなかった。
第10章 「再会と、やさしい拒絶」
店のガラスに、
街の灯りが揺れていた。
グラスの縁が、
かすかに鳴る。
十年ぶりの彼女は、
昔より少しだけ、
静かな笑い方をしていた。
生ビールの泡が沈む音。
テーブルの木目。
醤油の匂い。
どれも、
なぜか懐かしかった。
「変わってないね」
僕がそう言うと、
彼女は首を横に振った。
「変わったよ」
そう言って、
少しだけ笑った。
その笑い方に、
十年分の季節が一度に押し寄せる。
「ねえ、あのパン屋、まだある?」
彼女が、
箸を止めてそう言った。
たった一言の言葉。
でも、
胸の奥で何かが灯る。
僕らが何度も行った、
あの小さな店。
焼き立てのチーズパン。
朝の匂い。
聞きたかったのは、
パンのことだけじゃない。
あの時間が、
まだどこかに残っているのか。
僕たちの間に、
温度は残っているのか。
その確認だった。
話は、
よく弾んだ。
仕事の話。
どうでもいい失敗談。
あの頃の上司の物まねまで出てきた。
僕が調子に乗り始めた頃、
彼女がスマートフォンを開いた。
何かを打ち込む。
数秒後、
僕のスマートフォンが震えた。
「相変わらず楽しい人ですね」
目の前にいるのに、
LINE。
声に出すより、
ずっとやさしい。
僕は笑って、
画面を軽く見せた。
「読んだよ」
彼女はグラスを持ち上げて、
小さく乾杯の仕草をした。
その距離は、
最後まで変わらなかった。
「この十年で、恋愛とか……あった?」
僕は、
聞いてしまった。
彼女は箸を置いて、
水をひと口飲んだ。
そして、
少しだけ間を置いて言った。
「三年付き合った人がいた」
「ほんとに好きだった」
「仕事で海外に行くって言われて、ついていくか本気で悩んだ」
言葉は静かだった。
でも、
重さだけははっきり伝わってきた。
「三ヶ月前に別れた」
心の底が、
音もなく沈んだ。
僕は十年、
彼女のことをどこかで引きずったまま生きてきた。
彼女は三年を、
誰かの隣で本気で生きた。
その事実の重さを、
言葉は追い越せない。
駅までの道を、
並んで歩く。
距離は一定だった。
一歩分、
詰めることはなかった。
別れ際、
彼女は少しだけ目を見て笑った。
それだけで、
来てよかったと思えた。
翌朝、
僕はメッセージを送った。
「あのパン屋、やっぱり閉店してた(笑)」
少しして、
返ってきた。
「そっかぁ……あのチーズパン、もう一回食べたかったな」
「でも、お店より、あの日が一番おいしかった気がするね(笑)」
その一文を読んだとき、
胸のどこかが、
ふっと緩んだ。
あの夜の温度は、
たしかに残っていた。
そして僕は、
もう一度だけ、
会うことにした。
夜。
人の少ない路地。
自販機の光が、
白く浮かんでいた。
缶コーヒーの金属が、
夜気を映している。
僕は立ち止まった。
「俺、もう一度、ちゃんと伝えたいと思ってる」
言葉は、
思っていたより静かに出た。
そこまで言ったところで、彼女は少しだけ笑った。
「……ありがとう」
「でも、ごめんなさい」
その瞬間、空気が変わった気がした。
「過去は、キラキラしたままにしておきたいの」
「続けたら、違うものになっちゃう気がするから」
それは、
やさしい拒絶だった。
強くはない。
でも、
揺るがない。
僕は、
うなずいた。
うなずいたつもりだった。
胸の中では、
十年前と同じ音がしていた。
鈍くて、
重くて、
消えない音。
改札の手前で、
彼女は手を振った。
少しだけ笑っていた。
その笑顔が、
答えのすべてだった。
振り返ったときには、
もう姿はなかった。
手の中の缶コーヒーは、
少しぬるくなっていた。
甘さだけが、
舌に残る。
たぶん、
勝てない試合だった。
でも、
今回は、
ちゃんとコートに立てた気がした。
逃げなかった。
遅れなかった。
それだけで、
十分だったのかもしれない。
あのときの言葉の意味が、今ならわかる。
あの四年間は、キラキラしたままだった。
第11章 「エゴたちの撤収会議」
「……ありがとう。でも、ごめんなさい」
その声は、真冬の夜みたいに澄んでいた。
冷たいはずなのに、どこか温かさも残っていた。
駅までの道。
街灯が、一定の間隔で並んでいる。
僕たちは、並んで歩いていた。
どちらも、ポケットに手を突っ込んだまま。
横顔を盗み見る。
彼女の表情は、柔らかかった。
でも、その奥にある線は、もう二度と越えられない境界みたいに見えた。
改札の前で、足を止める。
彼女は、少しだけ笑った。
「体に気をつけてね」
それだけだった。
僕は、うなずくしかなかった。
振り返ったとき、もう彼女はいなかった。
人の流れの中に、きれいに溶けていた。
あのときのことは、今でもはっきり覚えている。
彼女の姿が見えなくなったあと、頭の中でまた会議が始まった。
――エゴ会議室、緊急招集。
【ネガ予測エゴ】
「解散。終了。完全敗北。全滅だ」
【純粋期待エゴ】
「でも……笑ってくれたよ?」
【防衛判断エゴ】
「“男”としては完全に負けだ。追撃は愚策だろ」
【合理整理エゴ】
「関係性は整理された。これは適切な着地だ」
【演出家エゴ】
「……いいシーンだったな。静かに負けるやつだ」
【記録係エゴ】
「この痛み、保存。あとで使える」
【回収エゴ】
「……あの四年間は、キラキラしてたってことだろ」
しばらくして、【マモリタイ・エゴ】だけが、少し遅れて口を開いた。
「……会えてよかったじゃないか」
その一言で、会議室が一瞬だけ静かになったのを覚えている。
「終わったままだったページに、ちゃんと句読点が打てた」
誰も反論しなかった。
エゴたちは、少しずつ席を立ち始めていた。
騒いでいた連中も、怒っていた連中も、ひとりずつ会議室から出ていく。
まるで、戦場から帰る兵士みたいだった。
部屋に戻った。
灯りは、つけなかった。
ソファに沈む。
テーブルの上には、半分だけ残った水。
さっきまでの会話が、まだ耳の奥に残っていた。
笑い声。
グラスの音。
僕はスマホを開いた。
彼女からの最後のLINE。
「相変わらず楽しい人ですね」
少し笑ってしまったのを覚えている。
この一文は、優しさだったのか。
それとも、遠回しな別れの言葉だったのか。
たぶん、両方だった。
人は、未来を手に入れるために、過去を手放す。
彼女は、そうやって生きてきた。
僕は、違った。
想い続けることで、自分を守ってきた。
どちらが正しいかなんて、たぶん意味はない。
ただ、ひとつだけわかっていることがある。
この十年は、無駄じゃなかった。
届かなかったとしても、意味がなかったわけじゃない。
むしろ、その時間があったから、今の自分がいる。
しばらくして、【マモリタイ・エゴ】が、もう一度だけ言った。
「想いは、持ち続けてもいい」
「ただ――少し軽くして持っていこう」
僕は、ゆっくり息を吸って、吐いた。
窓の外を見る。
冬の星が、静かに光っていた。
カーテンが、わずかに揺れていた。
その音が、やけに優しく聞こえたのを覚えている。
これでいい、と思った。
これは、終わりじゃない。
区切りだ。
パン屋も。
十年前の笑顔も。
そして、あの夜も。
全部、ちゃんと自分の中に残っている。
もし、また会える日が来たら。
そのときは、
“想い出”じゃなくて、
“今”を渡せるように。
スマホを伏せた。
灯りを消した。
静かな夜が、ひとつ終わっていった。
第12章 「約束を思い出した日」
コンビニの夜勤だった。
あのとき、僕は嘘をついた。
「ゆかとのこと、小説書いてるんだ」
なんでそんなことを言ったのか、
今でもよくわからない。
彼女は少し驚いて、
すぐに笑った。
「本当? すごーい!読みたい!読みたーい!」
その一言で、
僕は引き返せなくなった。
「完成したらね」
視線をそらして、
そう答えた。
本当は、
一文字も書いていなかった。
あのときのことは、
ずっと、
どこかに引っかかっていた。
でも、
思い出すこともなく、
そのまま、
時間の中に埋もれていった。
それから、
何年も経った。
コンビニを辞めて、
気がついたら、
警備員になっていた。
今は、
同じ場所で、
同じ人たちと働く、
静かな毎日だ。
無理をしなくていい。
それだけで、
十分だった。
そして、
NOTEを始めた。
理由は、
よくわからない。
ただ、
書きたくなっただけだ。
……あのとき、彼女が「ブログやってみたら」と言ったことを、ふと思い出した。
恋愛小説を書いていた。
創作大賞に出そうと思って、
自分の過去を、
ひとつずつ、
掘り起こしていた。
そのときだった。
ふと、
思い出した。
「あっ」
あの夜のことを。
嘘ついたことを。
頭の中で、
点と点が、
一気に繋がった。
書いているこの話、
あのときの、
“約束”じゃないか。
ゾッとした。
偶然なのに、
まるで、
ずっと決まっていたみたいだった。
僕は、
しばらくスマホを見ていた。
LINEを開く。
彼女の名前が、
そこにある。
指が止まる。
送る理由は、
もう十分すぎるくらいあった。
でも、
それでも、
少し怖かった。
あのときの嘘を、
今さら持ち出していいのか。
読んでほしいのか。
それとも、
ただ、
“約束を果たした”と、
言いたいだけなのか。
自分でも、
よくわからなかった。
それでも、
指は動いた。
「note始めたんだ。ゆかとのこと書いた小説、完成したよ。」
それだけ送った。
少しだけ間を置いて、
URLをひとつ貼りつけた。
プロフィールの画面も、
ついでにスクリーンショットで送る。
送信ボタンを押したあと、
心臓が、少し遅れて鳴った。
既読がつく。
少し間があって、
返信が来た。
「すごーい!本当に書いたんだね。必ず読むね」
「表現できる場所が見つかって、本当に良かったね」
「応援してます」
その三行を見て、
僕は、
少しだけ笑った。
そして、
少しだけ、
泣きそうになった。
ああ、
ちゃんと、
回収できたんだな、
と思った。
あのときの嘘が、
ちゃんと、
現実になった。
それが、
嬉しかった。
読んだかどうかは、
わからない。
そのあと、
やりとりは、
なかった。
それでも、
十分だった。
「応援してます」
あの言葉は、
今も、
残っている。
最終章 「名前の出ないスキ」
朝。
スマホを開く。
通知は、
いつも通りだった。
「スキがつきました」
それだけ。
何も変わらない朝。
昨日と同じ画面。
でも、
ひとつだけ違った。
スキ一覧の中に、
それがあった。
『ゲストユーザーからの1スキ』
……出た。
思わず、
少しだけ笑う。
この表示は、
ときどき現れる。
でも、
出るたびに思う。
「誰だよ」
名前がない。
アイコンもない。
履歴も追えない。
ただ、
“読んだ”という事実だけが、
そこにある。
僕は、
その一個のスキを、
少しだけ長く見る。
他のスキより、
少しだけ丁寧に。
理由は、
自分でもわかっている。
――もしかしたら
そんなわけないのに、
そんなわけないって、
わかってるのに、
頭のどこかで、
勝手に繋がってしまう。
長い時間。
会わなかった時間。
そして、
あの夜。
「相変わらず楽しい人ですね」
あの一文。
――いや、違う。
そんな都合のいい話じゃない。
彼女は、
ちゃんと自分の人生を生きている。
僕とは違う場所で、
違う時間を。
それでも。
それでも、
思ってしまう。
「読んでるかもしれない」
エゴ会議室が、
静かに開く。
でも、
今回は、
誰も騒がなかった。
【深読みエゴ】も、
【暴走エゴ】も、
【ネガエゴ】も、
出てこない。
ただひとり、
あのエゴだけがいる。
【静かな核心エゴ】
「……別に、どっちでもいいじゃない」
僕は、
少しだけ息を吐いた。
そうだな、
と思う。
読んでいるのが、
彼女でも、
彼女じゃなくても、
どっちでもいい。
この文章を、
誰かが読んで、
いいと思ってくれた。
それだけで、
十分だ。
スマホを閉じる。
窓の外を見る。
朝の光が、
ゆっくり街に広がっている。
新しい一日が、
始まっている。
僕は、
少しだけ考えてから、
また書き始める。
誰に向けてかは、
わからない。
でも、
たしかにどこかにいる、
誰かに向けて。
――もし、
またどこかで、
この文章を読んでくれているなら。
今度は、
ちゃんと届くように、
書くよ。
画面の中に、
新しい文章が増えていく。
そのどこかに、
まだ名前のない読者がいる。
そして、
それでいい、
と思った。
静かに、
物語は続いていく。
いいなと思ったら応援しよう!
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。皆さまの応援が、静月の物語を生み出す力です。いただいたチップは、すべて次の作品作りに大切に使わせていただきます。
