見出し画像

お酒短編小説集②『日本酒Vol.2』

本作は、特定の作家の作風に敬意をもって執筆した「文学的実験」です。登場人物や物語はすべてオリジナルです。


はじめに(太宰風)


酒と食べ物の話は、どうも私には弱い。

なぜなら、うまい肴や安酒の匂いを思い出すたび、そこにいる人間の顔や、その場の空気までも蘇ってしまうからだ。

酔いというのは、あれは単なるアルコールの作用ではない。

過ぎた日々と、少しの後悔と、どうでもいい笑い話が、同じ皿の上に盛られて出てくる――あの不思議な混合物のことだ。


今回お届けする五つの短編は、そんな「酒と食の記憶」にまつわる話である。

恋人との食卓もあれば、見知らぬ旅先の屋台もある。

温かい汁物の湯気の向こうに見えるのは、愛か、それとも孤独か。

そして、ときには、苦いだけの盃を差し出してくる人間もいる。


私は、酒や料理そのものより、それを口にする人間たちの、ちょっとした仕草や沈黙のほうに、つい目を奪われてしまう。

おそらく、そこにこそ、その人の正体が、いや、人生が現れてしまうのだろう。


では、どうぞ、盃を片手にお読みいただきたい。

これは、きっとあなたの舌にも、心にも、少しばかり残る味のはずだ。


酒と食の記憶について(太宰風)


酒と料理は、けっして贅沢の象徴などではない。

それは、むしろ日々をなんとか生き延びるための、ささやかな口実である。

たとえば、寒い夜、安い鍋を囲んで、皆で息を白くして笑う。

その笑いは、たいていの場合、別に面白くもない話から生まれる。

だが、酒の匂いと、鍋の湯気が、それをなぜか幸福な思い出にしてしまうのだ。


料理というものは、不思議に正直だ。

作った人間の疲れ具合や、機嫌や、生活の匂いまで、皿の上にこぼれてしまう。

それを食べるこちらも、うすうすそれを感じながら、何も言わず箸を動かす。

沈黙が長く続けば、味噌汁の塩気まで、やけに濃く感じられるものである。


酒は、その沈黙を和らげるための道具でもある。

酔えば、笑顔も泣き顔も、少しだけ本当になる。

だからこそ、私は、酒と食べ物の記憶を描くとき、必ずそこに人間の弱さと、ちょっとした狡さを忍ばせる。

それがなければ、単なる献立表に過ぎないからだ。

恋愛短編「酔いの余白」太宰風


店の暖簾をくぐったとき、外の雨がまだしとしと降っていた。
彼女は、私よりも先に席に着き、湯気の立つ燗酒を前にしていた。
「遅かったね」
そう言った声は、怒っているふうでもなく、ただ湿った空気に溶けていった。

焼き魚の皮がはぜる音、湯呑に酒を注ぐ音、それらがやけに大きく響く。
私はうまく笑えず、箸先で冷奴を崩す。豆腐はやわらかく、箸の動きに合わせて無抵抗に崩れ落ちた。
それを見て、彼女は一瞬だけ、微笑んだように見えた。

話題は取り繕った。
隣の席の酔客が、やけに楽しそうに笑っている。その笑い声が、やけに遠く聞こえた。
彼女は湯呑を傾けながら、視線を私に向けなかった。
私はその横顔を盗み見るたび、何かを置き忘れてきたような気がした。

「もう、会うのはやめようか」
その言葉は、あまりに自然で、まるで料理の感想みたいだった。
私は反論もせず、ただ酒を口に含んだ。燗のぬるさが、妙にやさしかった。

帰り道、雨は上がっていた。
舗道の水たまりに街灯が映って、揺れた。
私の影は、その揺れの中で、ひどく頼りなく見えた。


ファンタジー短編「月白の膳」太宰風


その夜、私は見知らぬ村の酒場にいた。

木の扉を開けると、土と火の匂いが鼻をつき、奥の囲炉裏から白い煙がゆらゆらと立ちのぼっていた。


「旅の方ですね」

女将がそう言って、青白い光を放つ椀を差し出した。中には、淡く光る魚が浮かんでいる。

私は箸を入れ、ためらいながら口に運んだ。温かく、舌に乗せると消えるように溶け、あとには月明かりを呑み込んだような静けさが残った。


村人たちは、黙って酒を飲み、時折こちらを盗み見た。

耳を澄ますと、どこからか水音がする。それは川の流れではなく、もっと緩やかで、まるで夜そのものが溶けて流れているかのようだった。


「この膳を食べた者は、二度と月を見上げなくなる」

女将はそう言った。

笑っているのか、脅しているのか、分からなかった。

私は、器の底に残る光を、指先で掬って口に含んだ。


帰り道、空には雲ひとつなく、月が皿のように浮かんでいた。

だが私は、なぜかその光を見つめることができなかった。

首を上げると、胸の奥に冷たい水が流れ込むようで、思わず目を逸らした。


ホラー短編「冷えた茶碗」太宰風


昼間は温泉宿としてにぎわう古い木造の建物も、夜になると妙に広く、しんと静まり返る。
私はその夜、館内を歩きながら、廊下に置かれた小さな茶碗を見つけた。
白磁の縁には細い亀裂が走り、中には水が半分ほど入っている。

なぜか、その水面が微かに揺れていた。
窓は閉まっている。風もない。
耳を澄ますと、どこかで低く、ひとつ、ふたつ、と木魚のような音が響く。
足の裏に伝わる床の冷たさが、骨の奥まで染み込むようだった。

翌朝、女将に茶碗のことを尋ねると、笑って首を横に振った。
「うちには、そんなもの置いておりませんよ」
あの笑顔が、妙に固まっていたのを覚えている。

その晩、また廊下を通ると、茶碗は同じ場所にあった。
だが今度は、水面に私の顔が映っていた。
いや、正確には、私によく似た、目の奥が真っ暗な誰かの顔だった。

手を伸ばしかけた瞬間、足首に冷たい感触が絡みついた。
思わず振り払うと、水が跳ね、茶碗は倒れた。
床に広がった水は、まるで生き物のように廊下を這い、闇の奥へ消えていった。

翌朝、茶碗は跡形もなく消えていた。
だが、足首の冷たさだけは、今も続いている。


お仕事短編「裏口の鍵」太宰風


会社の裏口は、いつも錆びた匂いがした。

朝一番にその鍵を開けるのは、入社三年目の私の仕事であった。

鍵穴は古く、時々、回す指先に金属の冷たさがねっとりと絡みつく。


ある日、裏口の前に段ボール箱が置かれていた。

中には資料がぎっしりと詰まっている。

誰が置いたのか、誰宛なのか、何も書かれていない。

不思議に思い、総務の課長に尋ねると、苦い顔をして

「……見なかったことにしなさい」

とだけ言った。


午後、その箱は消えていた。

しかし、私のデスクの引き出しに、一枚の封筒が入っていた。

中には白紙の紙と、錆びた裏口の鍵。

持っているはずの自分の鍵と、まったく同じだった。


翌日から、裏口の鍵はどちらも回らなくなった。

代わりに、毎朝、誰かが先に中に入っている形跡があった。

湯気の立つコーヒー、半分沈んだ椅子の座面。

そして机の上には必ず、昨日より新しい白紙の紙が一枚。


その白紙を、私はいまだに捨てられずにいる。

なぜか、捨てると、鍵を返すことになる気がするのだ。


ミステリー短編「三つのカップ」太宰風


昼下がりの喫茶店は、雨宿りの客でいっぱいだった。
私はカウンター席の端に腰を下ろし、いつものブレンドを頼む。
木のカウンターには、すでに三つのカップが置かれていた。
どれも飲みかけで、湯気はもう消えている。

マスターは、洗い物の手を止めずに言った。
「面白いでしょう。三つとも別の客の席だったんですよ」
私は笑って返事をしたが、妙な胸騒ぎがした。
その席の主たちは、さっき私が来る前に順番に立ち去ったらしい。

ふと、カップの並びが気になった。
右のカップには口紅が付いている。
真ん中は、縁に砂糖の結晶がこびりついていた。
左のは、飲み口が異様に大きく削れていた。

その時、ドアベルが鳴った。
雨具も持たずに入ってきた男が、真ん中のカップを見て微笑んだ。
マスターは、何も聞かずにカップを片付け、奥へ持って行った。

残された二つのカップのうち、口紅の付いた方はすでに冷たく、
削れたカップの方は、いつの間にか空っぽになっていた。

マスターは戻ってきて、私に問うた。
「……あなたは、どれを選びますか?」

私は答えなかった。
どれを選んでも、きっとここから帰れないような気がしたから。


あとがき(太宰風)


おそらく、この一連の短編は、読者にとっては、少し湿っぽく、そして少し照れくさい匂いがしたかもしれません。

書きながら、私は幾度も、高校の放課後の教室を思い出しました。窓際で、まだ冷たい夕方の風を受けながら、一冊の文庫本に顔を近づけ、読み進める私の姿。そう、あの頃から、私は太宰治という作家に首まで浸かっていたのです。


彼の、どうしようもない自己開示と、それでもなお文章を紡ぐ力に、救われるような、堕ちていくような、そんな奇妙な快感を覚えたのが、十七の秋でした。今回の作品群に漂う湿度や、語尾の息切れのような間は、おそらく、あの頃の私が胸の奥にしまい込んだ太宰の影が、今も勝手に滲み出ているのでしょう。


書き終えた今も、私は、まるで古い友人と久しぶりに酒を酌み交わした夜のような、少し後ろめたく、しかし妙に晴れやかな気持ちでいます。

読者のあなたも、もしどこかで太宰の匂いを感じてくれたのなら、それはきっと偶然ではありません。



---

いいなと思ったら応援しよう!

静月 いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。皆さまの応援が、静月の物語を生み出す力です。いただいたチップは、すべて次の作品作りに大切に使わせていただきます。