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連載小説『五十人格作家』➉

🩶第10章「夢を話す席」


喫茶店の窓際で、空音はカップの縁に指を置いた。湯気はもう無く、表面に街の光だけが薄く残る。入口の風鈴が一度だけ揺れ、音は途中でほどける。カウンターの灯が沈み、店内の影が少しだけ長い。水差しの水面が止まり、氷の輪郭だけが静かに浮く。千佳が向かいに座り、砂糖の袋を指で押し平らにする。空音は笑いそうになり、笑う前に息を整える。言い出す順を選ぶように、視線をカップの黒へ落とす。風が逆へ流れるみたいに、昨夜の家の匂いが戻る。空音は顔を上げ、千佳を見た。風が止んだ。

「ねえ、千佳。」空音の声は軽く置かれ、重さは文末に残らない。千佳はストローを回す手を止めず、目だけを上げる。「何、また変なの混ざった。」空音は首を振り、指先でスプーンを持ち直す。「違う、昨夜はちゃんと私のままだった。」千佳の眉が一瞬だけ上がり、次に口角が動く。「その言い方、もう十分に変。」空音は笑い、笑いの熱を喉で止める。「夢にね、お父さんが出た。」千佳の手が止まり、氷の浮いた水面を見るみたいに空音を見た。「やっと来たの。」空音は小さく頷き、頷き方だけが先に進む。風が止んだ。

「饅頭をさ、紙袋で持って来た。」空音は言葉を選ばず、手の形だけを思い出す。千佳は息を吸い、吐く前に笑う。「あの人、そういうの得意だった。」空音はカップを持ち上げず、縁の冷えを指で確かめる。「止まり方がさ、叱る前の間と同じで。」千佳は肩をすくめ、目を細くする。「あった、あの間、講義の前も同じ。」空音は頷き、頬の力がほどける。「粉が袖口についてて、包み紙を触った跡。」千佳は指で空をつまむ仕草をし、白い粉の形を作る。「研究室でも白かった、チョークの粉みたいに。」空音は笑い、笑いの後に息を置く。「私は袋を開けずに、頬に当てた。」千佳は声を出さずに笑い、テーブルの上で指を揃える。「やるね、空音、あんたも小さい頃から頑固。」風が止んだ。

千佳は急に昔の顔になり、視線を窓の外へ逃がす。「覚えてる、夏の夕方にさ、川沿いの店で饅頭買ってさ。」空音は頷き、思い出の匂いを舌の奥で確かめる。「家に着く前に一個減ってるやつ。」千佳は小さく笑い、指で二つを一つにする。「私にも一口くれて、これは内緒なって言うやつ。」空音はカップを持ち上げ、冷めた苦さを口に置く。「内緒の言い方が、いつも丁寧語だった。」千佳は膝を叩き、声が少しだけ弾む。「そう、妙に丁寧、教授の癖が抜けない。」空音は笑い、笑いの中に布の匂いを混ぜる。「家の上着で来て、柱にもたれてた。」千佳は頷き、柱の角度を手でなぞる。「もたれる場所、決まってた、畳の縁のところ。」空音はその縁を目で探し、今はテーブルの木目に置き換える。風が止んだ。

「でね、今日はまた来た。」空音は言い、言葉の後ろで自分の声を確かめる。千佳は眉を上げ、ストローを置く。「連日。」空音は頷き、笑いが先に出そうになる。「数が二つだけで、妙に現実っぽくて。」千佳は口角を上げ、目だけは真剣のまま。「売り切れ想定まで夢がやるの、あの人らしい。」空音は肩を落とし、落とし方で息を整える。「茶を探すみたいに視線を動かしてさ。」千佳は小さく息を吐き、言葉を短く置く。「湯飲みの場所、絶対覚えてる。」空音は頷き、指先をカップの底へ滑らせる。「無理すんな、って言って消えた。」千佳は一度だけ目を閉じ、閉じたまま頷く。「言い方までそのまま。」空音は笑い、笑いの中で胸の奥がほどけるのを待つ。「嬉しいのに、嬉しいって言うと軽くなるから言わない。」千佳は頷き、頷きだけで返す。風が止んだ。

千佳は窓の外を見たまま、言葉の角を丸くする。「あれから一年か。」空音は返事を急がず、カップの表面を指でなぞる。店の灯が沈み、外の光が薄く伸びる。「病気って聞いた日、私、研究室の前で立ってた。」千佳の声は低くなく、ただ乾いたまま落ちる。空音は頷き、頷きの奥で喉が一度だけ熱くなる。「デビューを見届けて、これで安心だって、そういう言い方だった。」千佳は砂糖の袋を畳み直し、きっちり角を揃える。「あの人、最後まで整える人だった。」空音は笑い、笑いの端が揺れても戻す。「だからかな、夢の中も整ってる、饅頭の数まで。」千佳は空音を見て、目だけで言う。「来たなら、いい。」空音は頷き、頷きの後に息を置く。「うん、来たなら、いい。」水差しの水面は動かず、氷の輪郭だけが静かに溶ける。風が止んだ。


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