『気配』⑥
第6章 逆さまの気配
① 上から足音がする
寝室で横になっていると、天井から足音が聴こえた。
鈍く、はっきりとした重さのあるステップ。
最初は「上の階の住人だ」と思った。
けれど――
この建物に、自分の部屋の真上は“屋根”しか存在しない。
ならば、あの足音はどこから?
天井板を踏みしめるように鳴るそれは、
まるで、**“誰かが天井の裏にいる”**かのようだった。
しばらくすると、音は止まった。
しかし次の瞬間、真上から“こちらの名前”を呼ぶ声が聞こえた。
音の重さが“下”ではなく“上”に向かうと、
空間全体がぐらりと傾いたように感じた。
② 水が天井から流れる
夜中、ポタ……ポタ……という水音。
天井を見上げると、電灯の脇から“水が垂れていた”。
その水は、重力に従って“下”に落ちるのではなく、
天井の模様に沿って“横へ”流れていた。
漏水か?と考えた瞬間、
水は天井の中心に集まり、逆さの水たまりをつくった。
そこに、“誰かの顔が浮かんだ”。
見知らぬ人影。
でも、こちらのことを“知っている”目をしていた。
瞬きもせず、天井の裏側から、じっとこちらを覗いていた。
水音は止まない。
ただ、天井の“あの場所”から、
“こちらに向かって満ちてくる”音だけが増えていった。
③ 窓の外に“地面”がある
朝、カーテンを開けた。
自室はマンションの三階。
いつもは道路と反対側の空が見える――はずだった。
なのに今日は、
窓の外に“地面”が広がっていた。
木の根元、アスファルトの路面、ブロック塀。
見覚えのある風景が、真横にある“はず”の地面として窓に広がっていた。
それは合成でも幻でもなく、
空気のにおいや湿度まで、“実際にある地上”のものだった。
自分の視界が狂っているのか、
**“世界の方が横倒しになっている”**のか、判断がつかない。
ただ、窓ガラスにうっすらと、“逆さの自分”が映っていた。
④ 階段が下りても終わらない
避難のつもりで階段を降りた。
1階、2階、3階と数えながら足を進める。
けれど――
階段が終わらない。
何段降りても、踊り場がまた現れ、
さらに下へと続いている。
おかしい。
自室は3階、ここはもう地上のはず。
なのに、階段の空間だけが“深く”続いていた。
途中から、階段の段差がわずかに傾き、
下へ降りているのか、上へ登っているのかもわからなくなった。
ふと、手すりの端に、**“逆さの自分の影”**が見えた。
まるで、自分より先に“下りきった自分”が、
階段の終わりで待っているかのように。
⑤ 握った手が逆に動いた
恐怖で立ち尽くす中、
震える自分の手を、自分でぎゅっと握った。
その瞬間、
握り返された。
手の内側から、まるで別の“何か”がこちらを掴み返してきたような感触。
皮膚と皮膚のはずが、
筋肉の動きが“反転”して伝わってくる。
自分が力を入れたつもりなのに、
その力が“自分の外”から返ってきて、
どちらがどちらを握っているのかわからなくなった。
握ったままの手が、微かに動いた。
こちらの意思ではなく、
“もう一人の自分”が、内側から命令しているかのように。
⑥ 電灯の下に影が伸びない
日が暮れて、部屋の天井灯を点けた。
柔らかい白い光が、床と壁を照らす。
だが、ふと足元を見ると――
自分の影がなかった。
照明の直下に立っても、背後に回っても、
どの角度にも、影が現れない。
光源はある。
光もある。
なのに、**“自分だけが照らされていない”**かのようだった。
手を伸ばしてみても、壁に写るのは指先の先端だけ。
それも、明らかに“自分の手”ではない動き方をしていた。
光に照らされないということは、
今ここに、存在していないのかもしれない――
そう思った瞬間、背筋がすうっと冷えた。
⑦ 自分の重力がずれている
歩くたび、足裏が“地面”と合っていない感覚。
重心がわずかに前に滑る。
そのたびに、自分の身体が“斜めに落ちている”ように感じた。
右足を出すと、左肩が下がる。
立っているはずなのに、常に**「どこかに引かれている」**感覚がある。
重力がずれている。
この部屋の“下”が、自分だけ別方向に設定されているかのようだった。
まるでこの部屋において、
自分という存在だけが、“別の物理法則”で管理されている。
手に持ったスマホは落ちないのに、
自分の内臓だけが、常にどこかへ傾いていた。
⑧ ひとつだけ逆向きの椅子
部屋の隅に置いたはずの椅子。
昼間は窓に向けていた。
だが、夜になると、椅子が“部屋の内側”を向いていた。
座面の角度も、背もたれの傾きも、完全に変わっている。
誰が動かしたのか?
考えるより先に、直感が警鐘を鳴らした。
それは、**「何かがそこに座っていた証」**だった。
試しに元の位置に戻して眠ると、
翌朝、また椅子は反転していた。
今度は、部屋の隅の“こちら”を向いていた。
誰かがそこに座り、
一晩中、**「自分の寝顔を見ていた」**かのように。
⑨ 外の音が、内側から聴こえる
郵便受けの開く音。
近所の子どもの笑い声。
深夜に車が通る音。
それらすべてが、外からではなく“耳の内側”で鳴っていた。
鼓膜の奥に、まるで街全体が再現されたような感覚。
窓を開けると、音は消える。
窓を閉めると、また“耳の中”で再開される。
つまりそれは、
**“外の出来事を、自分の内部で聴いている”**という異常。
そして気づく。
音の数が、少しずつ、**“こちらを語る声”**に変わっていた。
「見てるよ」
「気づいてるよ」
「もうすぐそこだよ」
その音は、もう音ではなかった。
心の中のどこかで反響する、“囁き”になっていた。
⑩ 世界が静かに反転していく
夜明け前、部屋に淡い青が差し込む頃。
天井と床、壁と窓、光と影の境界が、すべて**“水平”になっていった。**
空間が、じわじわと傾いていく。
まるで世界が、**自分の目線に合わせて“裏返っている”**ようだった。
時計の針は逆回転し、
電子機器の光は“吸い込まれるように”暗くなっていく。
手を挙げると、その手が自分に向かって降ってきた。
上下が、左右が、記憶と現実が、
一枚の紙のように折り返されていく。
気づけば、自分は部屋の天井に立っていた。
ただしそれは、“床が上がってきた”とも言えた。
いま、自分がどこにいるのか。
それを説明できる言葉が、もう存在しなかった。
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