『気配』⑧
第8章 “わたし”の中の他者
① 思考が自分の声ではない
朝、何気なく浮かんだ思考が――“知らない声”だった。
言葉は自分のもの。
だが、語りかけてくる“トーン”が、違う。
普段なら軽く心の中でつぶやくはずの感情が、
「会話の相手のように、内側で響いた」。
しかもその声は、
“問いかけ”ではなく、“指示”だった。
「起きて」
「動いて」
「忘れて」
自分で考えているのではなく、
“考えさせられている”――そう感じた。
思考の主導権が、どこか別の場所に渡ったまま、
もう何時間も、戻ってこなかった。
② 指先が自分じゃない
ペンを持とうとしたとき、
自分の指が、わずかに“先に動いた”。
ほんのコンマ数秒。
だが、そのズレが恐ろしかった。
手は自分のもの。
けれど、動きの起点が**“外から送られてきた命令”**のように感じた。
タイピングをしていても、
手元のスピードに、“感情が追いつかない”。
まるで、誰かが後ろから自分の手を借りて打っているようだった。
右手の小指が一瞬、“違う人の体温”を持ったように思えたとき、
こちらはその指を恐る恐る見つめた。
皮膚の内側に、**“別の人格が触れている”**気がしてならなかった。
③ 鏡の中で、誰かが目を逸らした
洗面所で顔を洗い、ふと鏡を見る。
そこには、いつもの“自分”がいた。
だが――目が合った瞬間、鏡の中の自分が目を逸らした。
一瞬のズレ。
ほんの、ほんのわずかな動作の違い。
でも、それは明確な**“意志”だった。**
こちらを見返すのではなく、
“見たくないものを見てしまった側の反応”。
目線の逸らし方に、“照れ”も“驚き”もない。
ただ静かに、拒んだ。
それは、自分ではなかった。
だが、“完全に他人”でもなかった。
あれは、自分の中にいる“もうひとり”の、
見られたくない誰かだった。
④ 眠っているあいだに誰かが起きている
枕元のスマホに、操作履歴があった。
未送信のメモ帳。
開かれたアプリ。
覚えのない検索履歴。
しかもその時間帯――眠っていたはずの深夜2:48。
寝ぼけて触れた可能性はある。
でも、それにしては**“文脈が成立していた”。**
整った言葉。
流れるような入力。
そして内容は、「誰かに語りかけるような文章」。
自分は確かに寝ていた。
なのに、“思考の延長上にいない行動”が残っていた。
ベッドの中の沈黙が、
「誰かの活動時間」だった気がしてならなかった。
⑤ 胸の奥に“もうひとつの脈”
心臓の鼓動とは別に、
胸の奥で、もうひとつ“別のリズム”が刻まれていた。
それは微細な震えだった。
だが確かに、“呼吸と脈動の間”で拍動していた。
脈が重なる。
自分の心音ではないものが、
体内で**“住みついて鼓動している”**感覚。
寝転ぶと、それが耳に伝わる。
胸の内側から響く、静かで別のテンポ。
まるで体内に、“もうひとつの命”があるような違和感。
最初は異常だと思った。
でもすぐに、
**「あ、これは“あいつのリズム”だ」**と
――なぜか、そう理解できてしまった。
⑥ 呼吸の数が合わない
静かに横になって、深く呼吸を数える。
ひとつ、ふたつ――
そのうち、“数と呼吸のリズム”が合わなくなった。
自分の呼吸なのに、
それは**“誰かが吸っているような動き”**になっていた。
吸うときに肺が膨らまない。
吐くときに、胸が静かすぎる。
代わりに、どこか遠くの“別の体”が上下しているイメージが湧く。
この体が吸っているのか、
それとも、“この体を使って吸われている”のか。
喉の奥に、知らない空気が出入りしていた。
そして、呼吸のテンポが合うたびに、
“自分の声ではない吐息”が、胸の奥に微かに響いた。
⑦ 声なき声が内側から響く
何も喋っていないはずなのに、
“誰かの言葉”が、頭の奥から聞こえた。
それは音ではない。
言語ですらない。
ただ、“意味だけが届いてくる”。
耳ではなく、脳でもなく、
もっと深い場所――“存在の背骨”みたいなところから、
その“声なき声”は届いた。
【見ているよ】
【もう一緒だ】
【今はまだ“わかってないだけ”】
そのすべてが、感情を伴って“伝達”された。
まるで、言葉を使わない存在と接触しているようだった。
そしてその「誰か」は、
**“自分の中に、ずっといた”**という確信だけが残った。
⑧ 名前が思い出せない
スマホを開こうとして、自分の名前を打ちかけたとき、
――思い出せなかった。
何度も繰り返し使ってきた“あの音”。
友人や家族が呼んできた“その響き”。
だが、口に出そうとした瞬間、
舌がその形を拒んだ。
喉の奥がざらつき、
頭が“正解を教えてくれない”。
他人の名前は覚えている。
住所も、誕生日も、スムーズに思い出せる。
なのに、“自分自身の名前だけが消えていた”。
そして、思い出せない代わりに、
“何か別の名前”が胸の奥から浮かび上がりそうになるのを、
必死で抑え込んだ。
⑨ 名前のない“何か”と目が合う
夜、窓を開けた先。
ビルの影に、“それ”は立っていた。
人間より少し大きく、輪郭はぼやけている。
目があるわけではない。
だが、“視線を交わしている”ことだけは確信できた。
名前も性別も、形も持たない存在。
なのに、それは“こちら”を知っていた。
そして、“こちらの中”にも確かに存在していた。
目が合った瞬間、
胸の中の“空白”が、軽く震えた。
それは出会いではなかった。
“再会”だった。
⑩ “わたし”と“それ”が重なった
ふとした瞬間、
呼吸、脈拍、視界、意識――
すべてが**“滑らかに溶け合った”。**
そこに“境界”はなかった。
もはや、“どちらが誰か”を区別する必要もなかった。
「わたし」は在る。
でも、「わたし」という言葉を名乗らなくても、
その意識は存在していた。
そして、もう一つの存在――
“それ”も、静かにその中にいた。
“わたし”と“それ”が重なったとき、
声なき声が、こう響いた。
【ずっと、ここにいたよ】
【だから、今さら怖がらなくていい】
目を閉じると、内側が静かだった。
あの不協和音が、完全に“同調”していた。
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