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『気配』⑤

第5章 壊れた間取り


① 廊下が、さっきより長い

トイレに立ったついでに、台所へ向かう。
何度も通った、自分の家の短い廊下。
なのに今夜に限って、足音が五歩を超えても目的地に届かない。

明かりの届かない先に続く廊下が、
**“距離ではなく、感覚で長くなっている”**と気づく。

歩けば歩くほど、
見慣れた壁紙が同じように続き、
足元だけが淡く照らされていた。

引き返すと、たった三歩で元の部屋に戻れた。
それは、時間だけが伸びていたのか、空間が引き延ばされたのか、
それとも、“ここがそもそもどこでもなかったのか”。

振り返ると、廊下は、元の長さに戻っていた。


② ドアの先が繰り返される

台所のドアを開ける。
狭い空間に、小さな冷蔵庫と電子レンジ。
閉じる。
もう一度、同じドアを開ける――

そこには、また“同じ台所”があった。

同じ角度に置かれた椅子、同じ水滴の残るシンク。
だが、何かがほんのわずかに違う。

三度目に開けたとき、
椅子の位置が左右逆に配置されていた。
水滴の数も、異なっていた。

まるでドアの向こうにあるのは、
“似て非なる”複製された空間。
ひとつ前の部屋が“記憶”として複製されて、
開くたびに微細な変化を繰り返しているようだった。

自分がどこにいるのか、わからなくなった。


③ 曲がった角に、同じ壁

風呂場に行こうと、廊下を左に曲がる。
その突き当たりに見えたのは――自室の壁だった。

ありえない。
そこは風呂場の入り口のはず。
なのに、曲がった角の先には、
見覚えのあるカレンダーと、剥がれたポスターの貼られた壁。

足元には、さっき脱いだスリッパまで落ちていた。

別の角を曲がっても、同じ風景。
そして、その部屋には――“自分が立っていない”ことだけが違っていた。

つまりこれは、**“自分がいない自室”**なのだ。

気づけば、壁が四方に並び、どれも“知っている場所”に変化していた。


④ 何度閉めても開く窓

夜風が入り込み、寒くなってきた。
窓を閉める。鍵もかける。
ふたたび布団に戻る。

しかし、数分後。
風が、頬に触れた。

立ち上がって窓を見ると、開いていた。
鍵はかかっているのに、
ガラスが“開いたまま”の状態でロックされている。

再度、しっかり閉め直して、確認する。
けれど、次に気づいたとき――風は“中から外へ”吹いていた。

部屋の空気が逃げている。
まるで家そのものが、
**こちらを“外へ追い出そうとしている”**かのように。

そのとき、ガラスにふっと曇りが浮かび上がり、
**「出て」**という字が、消えていった気がした。


⑤ 冷蔵庫の中に誰かの影

喉が渇いて冷蔵庫を開ける。
中は薄暗く、光は弱々しい。
ペットボトルを取ろうとして、手が止まった。

――奥に、もうひとつ“手”があった。

一瞬の錯覚かと思った。
でも、その影は動かなかった。
まるで、こちらが見つけたことを静かに待っていたかのように、
“そこにいる”ことを当たり前のように主張していた。

冷蔵庫の内壁に映る黒い影。
小さく、細く、しかし確かに“指の形”だった。

扉を閉めようとしたとき、
その手が、わずかに扉の内側へと滑り込んできた気がして、
こちらは飲み物も忘れて、逃げるように部屋を出た。


⑥ 戻ってきた部屋が少し違う

トイレを終えて自室に戻る。
いつもの動線、いつもの光、いつものドアノブ。
けれど、ドアを開けた瞬間――
“見慣れているはずの部屋”が、わずかに違って見えた。

机の角が、ほんの少し丸い。
読書灯の光が、少しだけ黄ばんでいる。
床に置かれた本の表紙が、**“買った覚えのないタイトル”**だった。

自分の部屋だ。
でも、“記憶の中の部屋”とは違う。
この部屋にいる限り、「自分」が少しだけズレていく感じがした。

ドアを閉めると、外の廊下もまた、さっきとは微妙に変わっていた。
ここはもう、自分がいた場所ではない――
そう確信したのに、もう戻るドアが見つからなかった。


⑦ 電球が昼なのに灯っている

昼間。
カーテンの隙間から、やわらかな自然光が差し込んでいる。
それなのに――天井の電球が点いていた。

自分でつけた覚えはない。
光のスイッチにも触れていない。
なのに、蛍光灯の淡い白が、部屋を照らしていた。

その光は、太陽の光と混ざることなく、“別の時間”を照らしていた。

コンセントを抜こうとすると、手が止まった。
なぜか、**「その電気だけは、触れてはいけない」**気がした。

光というより、“目”だった。
**部屋の上から、こちらを照らすふりをして“見張っている”**ような気配。

しばらくして気づいた。
その電球だけ、天井の影を落としていなかった。


⑧ 手すりの冷たさが逆方向

階段を降りようと、右手で手すりを握る。
その瞬間――手のひらに、逆流する冷たさが走った。

通常、手すりの冷たさは、触れた面から指先に伝わる。
だがこのときは、“腕の奥から手のひらへ”冷たさが押し出されてきた。

まるで手すりのほうが、こちらに“何かを送り込んでいる”ようだった。

感触も硬さもいつも通りなのに、
握るたびに、腕の内側に“異物”が流れ込むような錯覚。

手を放そうとしても、手首が遅れて反応する。
その0.5秒のズレに、恐怖が滲んでいた。

降りたくない階段だった。
なのに足は、音もなく下へと進んでいた。


⑨ 足音が先回りしている

部屋の中を歩いていると、
自分の足音と“別に”もう一つの音が聞こえた。

ペースも靴の素材も同じ。
だがそれは、自分が動く“少し前”に鳴っていた。

先に角を曲がる足音。
先に廊下を通る靴音。
まるで、“自分の未来をなぞるように”誰かが先に歩いている。

それは追跡ではなかった。
誘導だった。

「次はここを通るだろう」
「次はこの部屋に入るだろう」

そんな意図を持った足音が、
こちらの動きと一致するように、“待っていた”。


⑩ 間取りに名前が刻まれていた

夜、何かに導かれるように押し入れを開ける。
奥の板に、細く掘られた跡があった。

最初は傷だと思った。
だが、光を当てると――そこには、“自分のフルネーム”が彫られていた。

誰が、いつ、何のために?
その問いより先に、背筋に氷のような感覚が走る。

それは“名前”ではなく、**“所有者の印”のように感じた。
この家は、自分のものではない。
最初から、“誰かがこちらの存在を前提として設計していた”**のではないか。

見上げると、天井にも同じ名前が彫られていた。

家に住んでいるのではなく、
**“家に住まわされている”**ことを、初めて理解した。


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