連載お仕事小説『新聞配達』④
最終章:涙の最後の配達
「今朝が、最後の配達です。」
配達所のリーダーにそう告げたのは、
いつもと変わらない朝の、まだ空が青くなりきらない時間だった。
4年と少し。
それが、僕の新聞配達員としての時間。
長いようで、息を止めていたみたいな日々だった。
はじめは積立制度が目当てだった。
お金さえ貯まれば、それでよかった。
人と関わる気も、長くいるつもりもなかった。
「4年で辞めます」
入社初日に言い切った僕を、
誰も咎めることなく、ただ受け入れてくれた。
銀行で心が壊れ、
コンビニで恋に敗れ、
未来に何の期待も持てなかった僕にとって、
新聞配達は、「今を生きることだけ」に集中できる唯一の仕事だった。
朝が早すぎて、誰にも会わない。
誰の顔も見ずに、ただ一軒一軒ポストに投函していく。
それが気楽で、でも不思議と少しずつ“誰かとつながっている”気持ちをくれた。
寒い日もあった。
雨に打たれた日も、
大雪でバイクを動かせなかった日も。
でも、何度も配り終えた後に顔を上げると、
空が、いつも、きれいだった。
人間関係に傷ついた僕にとって、
空は裏切らなかった。
朝焼けは、誰にも遠慮せず、僕を照らしてくれた。
ある日、自販機の前で凍えながら缶コーヒーを飲んでいたとき、
先輩が言った。
「お前、表情変わったよな。最初、死んだ魚みたいな目してたのに」
僕は笑えなかった。
でも、涙が出そうになった。
たしかにあの頃の僕は、
“生きてる”というより、“死んでない”だけだった。
でも、新聞配達はそういう僕を拒まなかった。
寒かろうが暗かろうが、朝は来る。
そして、新聞は刷られ、束になって、僕の目の前に現れる。
それを運ぶことが、
どこか“自分の存在を確認する”作業のようだった。
毎朝、ポストの音だけが鳴る。
無言の世界。
でもその静けさが、僕の神経を休ませてくれた。
配達先の家の中で、誰かが目覚める。
その生活の入口に、自分の置いた新聞があると思うと、
少しだけ誇らしかった。
ある冬の日、配達を終えて帰ろうとしたとき、
小学生くらいの男の子が家の前に立っていた。
「おじさん、新聞くれる人?」と聞かれて、
「うん、そうだよ」と答えた。
男の子は少しうれしそうに頷いて、
「ありがとう。パパが、新聞読むの楽しみにしてるんだよ」
そう言って、手を振ってくれた。
それだけで、
その日1日が、生きててよかったって思える1日に変わった。
なんでもない日々が、少しずつ積み重なって、
壊れた心が、知らないうちに修復されていた。
笑えるようになった。
ごはんが美味しいと感じられるようになった。
仲間と冗談を言い合えるようになった。
朝が、嫌いじゃなくなった。
そして、今日が、最後の朝だ。
いつもより少しだけ早く起きた。
道具のチェックも、何度もした。
遅れないように、迷わないように、失敗しないように。
でも本当は、少しでも長く、この時間の中にいたかった。
いつも通り、静かだった。
空気はひんやりしていて、世界はまだ寝ていた。
バイクの音だけが、道に線を引く。
ポストの蓋を開けて、新聞を入れる──
その動作を、ひとつひとつ、噛みしめながら進む。
このルートも、今日が最後。
この家も、この角も、この坂も。
どれも、明日からは僕の景色じゃなくなる。
途中で、いつも顔を合わせていたおじいさんが、
たまたま玄関先に出ていた。
「ああ、今日が最後かい?」と聞かれて、
僕は笑って「はい、今朝で終わりです」と答えた。
「ありがとうよ、君が来ると安心だったよ」
そう言って、深く頭を下げてくれた。
胸が、きゅっと音を立てた。
こんな僕でも、誰かの“安心”になれていたのか。
何かを返したかったけど、言葉が出なかった。
僕は深く頭を下げて、
その場をそっと離れた。
配達の終盤、
一番高い丘の上にあるアパートが見えた。
そこから見る朝焼けは、
いつもどんな天気でも、少しだけ赤くて、やさしかった。
その丘の上で、
僕は最後の新聞を取り出して、ポストに入れた。
カチン。
静かな音がした。
それは、ただのポストの蓋が閉まる音だった。
でも──
僕には、何かが完結したような音に聞こえた。
アパートを下りて、バイクに戻る。
エンジンを切ったまま、しばらく動けなかった。
4年分の記憶が、音もなく胸を通り抜けていく。
配達中に流れていた音楽。
仲間と笑い転げたコンビニの駐車場。
雨の日に泥だらけになって帰ったこと。
積み立てが増えていく通帳を見て、
少しだけ未来を信じた日。
何も残らない仕事だと思ってた。
でも今は、
“この日々が僕を救った”としか言えない。
帰り道、朝焼けがいつもより優しく見えた。
丘のてっぺんから見た空の色と、
胸の中の色が、なんだか重なっていた。
配達所に戻ると、
仲間たちが笑顔で待っていた。
「お疲れ!」
「ついに終わったなー!」
「ちゃんと積立満期まで来たやつ、初めて見たわ(笑)」
みんな、
何も言わなくても、わかってくれていた。
僕がどれだけ、この4年間に救われたかを。
僕はただ、「ありがとうございました」とだけ言った。
たくさん言いたいことがあったのに、
言葉にすると、きっと涙になってしまう気がして。
積み立て満期の書類を受け取ったあと、
スマホで口座を確認した。
画面の中に並んだ数字を見て、
ほんの少しだけ、笑った。
4年間の証が、そこにちゃんとあった。
所長が手を差し出してくれた。
僕は握手をしながら、最後に背中を叩かれた。
「お前、よく頑張ったな。」
その瞬間、堪えていた涙が、
静かに、でも止まらず流れた。
心が壊れて、何も信じられなかった僕を、
この職場は、何も問わずに迎え入れてくれた。
未来なんていらないと思っていた日々に、
“未来を受け取る準備”をくれた場所だった。
バイクにまたがり、ヘルメットを被る。
最後に深呼吸をして、エンジンをかけた。
後ろを振り返らずに走り出した。
でも、風の中で小さく、誰かの声が聞こえた気がした。
「また来いよ」
それは、幻聴だったかもしれない。
でも、僕はそれに答えるように、ヘルメットの中で小さく笑った。
配達は終わった。
でも僕の人生は、また始まった。
風が背中を押してくれる。
新聞はもう配らない。
けれど、この配達が、僕自身をどこかに届けてくれた気がする。
未来はまだ、わからない。
だけど今、確かに言える。
「配達していたのは、新聞じゃなかった。
僕だったんだ。」
──完。
あとがき
──風のあと、静けさの中で
配達所を出て、
僕はひとりで、丘の上までバイクを押して歩いた。
エンジンはかけなかった。
朝の音が、まだ体の中で鳴っていたから。
空はすっかり明るくなっていた。
いつもの風景なのに、
今日だけは、すべてが少し遠くに感じた。
誰もいない道。
新聞の束を積んでいないバイク。
制服も返却して、手ぶらになった帰り道だった。
いつもは前カゴの片隅か、左手に持っていた横長の順路帳も、
もう手元にはない。
すべて返して、すべて置いてきた。
ああ、本当に、終わったんだなって思った。
誰にも言われてないのに、
胸の奥が、そっと手放していった。
ここで配達した4年と少しの時間は、
きっと、僕が思っているよりずっと、
僕という人間のかたちを変えていたんだろう。
丘の上で立ち止まって、風を感じた。
ふわっと吹いてきた風は、
あの朝の、あの小学生の「ありがとう」と同じ匂いがした。
泣かなかった。
でも、何かが静かに揺れていた。
心の奥で、ひとつだけ思った。
> 「もう戻らない。
でも、いつまでもここにある。」
それが、朝だった。
それが、配達だった。
それが、再生だった。
たぶんこのあとも、僕は何度も迷うだろう。
また心が濁ったり、うまく呼吸できない朝が来るかもしれない。
でもそんなとき、
風が吹けばきっと、思い出す。
> あのポストの音。
あの小さな「ありがとう」。
あの丘の上で、
「生きてる」と思えた、たったひとつの朝を。
──静月
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