作家短編小説集⑤『三島由紀夫』
はじめに
三島由紀夫――その名前は、文学の枠を超えて、日本の戦後史と文化論の中で特異な輝きを放ち続けています。
華麗で精緻な文体、古典と近代を融合させた作風、そして美学と死生観を極限まで追求する姿勢。
彼の生涯そのものが、一編の劇的な物語でした。
本作では、そんな三島由紀夫をテーマに、五つの異なるジャンルで短編小説を紡ぎます。
ホラーでは狂気、ミステリーではゴシ警部シリーズ、恋愛では耽美的な情感、ファンタジーでは象徴的世界、お仕事では創作の舞台裏を描き、
一人の作家が持つ多面的な魅力を多方向から照らし出します。
三島由紀夫について
三島由紀夫(1925年〜1970年)は、日本を代表する小説家・劇作家・評論家であり、その活動は文学界のみならず社会全体に大きな影響を与えました。
東京帝国大学法学部を卒業後、国家公務員として短期間勤務したのち、文筆活動に専念。『仮面の告白』『金閣寺』などの長編小説は、彼の名を一躍世界に広めました。
彼の作品は、古典文学への造詣と現代的感性の融合が特徴で、耽美的な描写や死への美学を深く追求しています。加えて、能や歌舞伎など日本の伝統芸術にも強い影響を受け、その要素を現代文学に取り込む試みを行いました。
1970年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地での事件と切腹による死は、日本社会に衝撃を与え、賛否両論の議論を呼びました。
その生涯と作品は今なお、多くの研究者や読者を魅了し続けています。
恋愛短編小説『檸檬色の硝子越しに』
──三島由紀夫を想う恋
真琴は古書店の奥で、一冊の初版本を見つけた。
『潮騒』――表紙の布地は褪せ、金文字はかすれている。ページをめくると、活字の匂いに混じって、遠い潮風の香りがした。
「懐かしいな……」
声をかけたのは、文学サークル時代の先輩・俊一だった。十年ぶりの再会。偶然というには、あまりに計算されたような距離感だった。
喫茶店の窓辺に座り、真琴は思い切って聞いた。
「先輩、あの頃、私のこと好きでした?」
俊一は珈琲を置き、笑みを浮かべた。
「好きだったよ。ただ、三島の小説みたいに、永遠に届かないほうが美しいと思ってた」
真琴の胸が熱くなった。
彼の目の奥には、潮騒の島影と、過ぎ去った青春が揺れていた。
触れたら壊れる硝子細工のような想いを、二人は静かに硝子越しに見つめ続けた。
ファンタジー短編小説『金閣の向こう側』
──三島由紀夫と異界の都
文学青年の圭介は、古い古書市で一冊の本を手に入れた。
題名は『金閣の向こう側』。著者名は見当たらない。だが、文体は確かに三島由紀夫を思わせた。
夜、その本を読み耽っていると、ページの金色がわずかに揺れ、圭介の部屋は光に包まれた。
次の瞬間、彼は池に映る金閣の前に立っていた――だがそこは、現実の京都ではなかった。
金閣の向こうには、白い着物の青年が立ち、こちらを見つめている。
「君も、物語に囚われに来たのか?」
青年は微笑む。その背後には、終わりのない廊下と、永遠に落ちない夕陽が続いていた。
圭介は恐れよりも、奇妙な安堵を覚えた。
金閣の向こう側でなら、物語は決して終わらない――そう思った瞬間、ページが閉じ、彼は再び暗い部屋に戻っていた。
しかし、机の上の本の表紙は、さっきより確かに温かかった。
ホラー短編小説「黒革の部屋」
古びたマンションの一室。
三島の未発表原稿が眠っているという噂を聞き、文芸研究会の四人が夜に集まった。
部屋の中央には、黒革で装丁された分厚い手帳が置かれていた。
ページを開いた瞬間、古時計の**カチ…カチ…**という音が部屋に満ちた。
時計など、ここにはないはずだった。
読み進めるごとに、カチ…カチ…が速くなる。
やがて一人が青ざめた声で言った。
「これ、俺たちの会話…書かれてる」
確かに、ページには今交わされた言葉が、墨のように滲みながら浮かび上がっていた。
一人が慌てて手帳を閉じると、音はピタリと止まる。
安堵の息が漏れた瞬間、壁の向こうから**カチ…カチ…カチ…カチ…**と狂ったように早まった音が襲ってきた。
全員が一斉に振り向く。
そこには黒革の手帳を抱えた黒い影が立ち、笑っていた。
その笑いは低く、だが徐々に高く、甲高く、耳を裂くように変わっていく。
カチカチカチカチカチカチカチ——ッ!
音は耳の奥を焼き、次の瞬間、すべての光が消えた。
お仕事短編小説 「朱筆の一行」
出版社の編集部。
新人編集者・佐伯は、原稿の山の中に、見慣れない厚い封筒を見つけた。差出人は——三島由紀夫。日付は半世紀前。
「こんなもの、なぜ今…?」
封筒を開けると、未発表の戯曲が出てきた。だが、最後のページは空白。編集長は「商機だ」と目を輝かせる。佐伯は補筆のために資料を読み漁り、三島の肉声を録音した古いテープを再生した。
——「作品は、書く者の命で終わらねばならない」
低く響く声に背筋が粟立つ。
やがて補筆を終えた夜、佐伯は夢を見た。白い軍服の男が、微笑みながら戯曲の最後の一行を朱筆で書き加える。
翌朝、机の上には完成された原稿と、乾ききらない朱色の文字が残っていた。
ミステリー短編小説『割れた万年筆』― ゴシ警部シリーズ ―
青森市内の古書店で、店主が死亡しているのが発見された。机の上には血の付いた万年筆と、破られた原稿用紙が散らばっていた。
警察署に着くや否や、ゴシ警部(本名:五十嵐修司)はメビウス10ミリをくわえ、相棒の佐久間純に言った。
「昼メシはラーメンだ。現場に行く前に腹を満たす」
「またですか……事件現場に行ってからでも」佐久間は呆れたが、結局二人は行きつけの醤油ラーメン店で一杯すすることになった。
古書店に到着すると、壁には珍しい洋書が並び、紙の匂いが漂っていた。万年筆の持ち主は店主ではなく、常連客の作家・田沼涼だった。田沼は殺害当日の午後2時に来店しており、その直後に現場を出たと証言。しかし、近所の喫茶店の防犯カメラには、彼が3時半まで店の前に立っていた映像が映っていた。
「なぜ現場を離れなかった?」ゴシが低く問うと、田沼は汗をかきながら答えた。
「原稿を……取り戻したかっただけです」
佐久間がパソコンで原稿用紙の下書きデータを確認すると、それは田沼が盗作したもので、店主に突き返された形跡があった。争いの末、田沼は万年筆で店主を刺し、原稿を破ろうとしたが、時間内に処分しきれなかったのだ。
「悪魔の文字列は俺には無理だ」ゴシは佐久間の画面を横目に見ながら言った。「お前が解いてくれて助かったよ」
夕方、二人は再びラーメン屋のカウンターに座った。
「警部、あの盗作の件……」
「作家ってのは自分の言葉で戦うもんだ。万年筆は武器じゃねぇ」
湯気の向こうで、ゴシはゆっくりと麺をすすった。
ミステリー短編小説(番外編)『ゴシ警部、文学談義』
― ゴシ警部シリーズ 番外編 ―
青森市内の場末のラーメン屋。
湯気の向こうで、ゴシ警部がメビウスに火をつけた。
「なぁ佐久間、お前、三島由紀夫って読んだことあるか?」
「高校の授業でちょっとだけです。『金閣寺』とか…」
「ふん、あれな。美しさに憑かれた奴の話だろ? でもよ、現場の人間からすると、美も理想も結局は現実に押し潰されるもんだ」
佐久間は箸を止める。
「警部、それってこの間の事件の話と似てますね」
「お、気づいたか。犯人も結局、自分の理想の形に周囲を合わせようとして破綻したんだ」
カウンターの向こうで、店主がチャーシューを切る音だけが響く。
「文学だろうが事件だろうが、突き詰めると人間の欲望が見えてくる。それが俺の仕事の半分だ」
「じゃあ残りの半分は?」
「ラーメン食うことに決まってんだろ」
二人の笑い声と、湯気の匂いが夜の店に溶けていった。
あとがき
今回の三島由紀夫編では、恋愛からファンタジー、ホラー、お仕事、そしてミステリーへと続き、最後は恒例の番外編でゴシ警部と佐久間が締めくくりました。
三島の生き様や美意識を、各ジャンルごとにどう表現するかを試行錯誤しながら生まれた五編は、まるで異なる色彩を放ちつつも、共通して彼の思想の影を宿しています。
本編を最後まで読んでくださった方々、本当にありがとうございます。
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