連載ファンタジー小説『スピの森』⑥
第6章 仮面と沈黙の旅
森の奥、霧の薄闇に光る白い布のテントが現れた。入口の鈴が低く震え、白檀と冷えた鉄の匂いが鼻腔を満たす。中に入ると、丸い鏡に水を張る占い師の女がいた。名はレヴィ。水面には、僕の知らない自分の顔がいくつも浮かんだ――成功者の笑い、優しい人の頷き、冷たい無表情。それは全部、「なりたい他人」の仮面だった。
「守ってくれた顔は、悪者じゃない。でも、要らない場面でも貼りつく。外すには、不格好になる覚悟がいる」
レヴィはそう告げ、水面を指で揺らす。僕は一つの仮面を外すように、言えなかった言葉を吐き出した――「ごめん」「ありがとう」「怖かった」。音は短く、しかし胸の奥の蝶番が鳴るような感覚があった。水鏡に映る素顔は、思ったより静かで、少しだけ疲れていた。それでいい、とレヴィは微笑む。
テントを出ると、雨上がりの草が銀色に光っていた。胸の中に、鈴の音がひとつ響いた。
道を抜けると、乾いた坂道を無言で歩く男がいた。名はトオル。歩調を合わせると、彼は言った。
「速いのは足じゃなくて、頭だ」
丘の上で、五感の順番を入れ替える方法を教わる――触る、嗅ぐ、聞く、見る、そして考える。草のざらつき、青臭い匂い、蜂の羽音、雲の光。それらを先に受け取ると、考えは遅れてやって来た。余白のある考え。名をつけずにそのまま持つ感覚は、不安にも似て、しかし軽かった。
「過去と未来の音量を下げるだけで、今が鮮やかになる」
麦茶の氷が触れ合う小さな音が、胸の奥まで涼しく届いた。
夕暮れ前、森の谷間に霧が溜まり、そこに白い鹿が立っていた。角は月光の欠片のようで、瞳は水面のように静かだ。目が合った瞬間、幼い日の願いが蘇る――「大きくなったら、ずっと笑っていたい」。誰にも届かず霧に消えたと思っていた願いは、鹿の中で生きていた。
鹿は額を僕の胸に寄せ、『在ることに理由はいらない』と告げた。息を吸うと、過去も未来も、呼吸の中に溶けた。涙は悲しみではなく、「足りない」という思いが森に返された証だった。
足は自然に前へ出る。森の最深部、その扉が静かに待っていた。
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