連載ファンタジー小説『スピの森』②
第2章 エン ― 偶然という名の必然
①ご縁のバス停
早朝の街は、まだ夢の中にいた。
濃い藍色の空。
しんと静まり返った舗道。
誰もいないのに、どこか“誰かの気配”がする。
アリトは、気がつけば歩いていた。
どこに向かうわけでもなく。
でも、足だけが知っていたように。
辿り着いたのは、見知らぬバス停だった。
看板には、手書きのような文字でこう書かれている。
『御縁(ごえん)前』
バスの時刻表はなかった。
代わりに、貼られていた紙が1枚。
“乗る人だけ、来てください”
意味は、わからなかった。
でも、なぜかドキリとした。
ベンチには、ひとりの男が座っていた。
年齢不詳。
真っ白な服に、ゆるく結んだ金の帯。
そして、目隠し――それなのに、こちらを見ているような気がする。
男は、アリトが立ち止まると同時に口を開いた。
「乗るの?」
アリト:「え?」
「“縁”があったみたいだからさ」
アリト:「……誰ですか?」
男は、ゆっくり立ち上がった。
そして、指を一本、空に向けて掲げると、にこりと笑った。
「僕はエン。
あなたの“ご縁案内人”だよ」
そう言った瞬間、道の向こうに、
静かに揺れる“光の扉”が浮かび上がった。
バスもない。音もない。
でも、確かに“何か”が、来ようとしている。
アリトは、その扉を見つめた。
扉の向こうには、なぜか懐かしい風が、吹いていた。
②目隠しの案内人
アリトは、浮かぶような足取りで光の扉に近づいた。
でも、途中で立ち止まる。
背中に、エンの気配を感じていた。
「どうして、目隠ししてるんですか?」
静かな声だった。
でも、その問いには、自分でも気づいていなかった“引っかかり”があった。
エンは、首をかしげた。
「目が見えたら、迷うでしょ?」
「……は?」
「だってさ、“見えたら安心する”って思ってるでしょ?
でもほんとは、“見えたせいで選べなくなる”ことのほうが多いよ」
アリトは、その言葉に詰まった。
「僕ね、見えないからこそ、信じられるんだ。
見えないのに“ここで待ってみよう”って思えるのは、
何かが“導いてくれてる”って感じるからなんだよ」
アリト:「……じゃあ、“ご縁”って、そういうもんなんですか?」
エン:「うん、“偶然に見える”っていう条件つきの奇跡」
「たとえば今、君と僕が出会ったのも偶然。
でもそれが“意味があった”って思えるのは、
“この出会いをちゃんと見たとき”なんだよ」
アリト:「……見えないのに、見る?」
エン:「そう、“縁”は目じゃなくて、心で見るもの」
そのとき、遠くからバスの音がした。
いや、バスは来ていなかった。
でも、確かにアリトは“何かが近づいてくる”音を聞いた。
エン:「準備、できたみたいだね」
アリト:「俺、何をしに行くんですか?」
エンは、にこりと笑った。
目隠しの奥から、光がにじんでいたように見えた。
「“誰か”に、会いに行くんだよ。
ずっと前に、“すれ違った”誰かにね」
光の扉が、すこしだけ開いた。
アリトの胸が、ざわついた。
③あの人は、なぜいたのか?
光の扉をくぐると、景色が変わっていた。
そこは、どこか懐かしい街角。
学校の近くにあった文具屋のような、
昔の商店街のような――
でも確かに“今じゃない”匂いがした。
アリトは歩く。
街は静かだったけれど、
見えない“誰か”がすぐそばにいる気がしてならなかった。
そのとき、不意に――
「アリト」
誰かの声がした。
でも、どこから聞こえたのかはわからない。
振り返っても、誰もいない。
でもなぜか、その声には覚えがあった。
男か女かもわからない。
年齢も、顔も思い出せない。
なのに、心の奥の奥が、
ぎゅうっとしぼられるように苦しくなった。
アリト:「……誰?」
すると、白い猫が道の向こうを歩いていった。
ゆっくりと、こちらを振り返る。
その目は――笑っていた。
猫を追って歩く。
すると、通りのベンチに誰かが座っていた。
後ろ姿だけ。
茶色のカーディガン。
静かにうつむき、手帳を見ている。
名前は思い出せなかった。
でも、
“この人に、伝えたかった言葉”だけが心に浮かんだ。
「ありがとう」
「ごめんなさい」
「行かないで」
「行ってくれて、よかった」
「また会えて、嬉しい」
言葉はたくさんあったのに、声にならなかった。
アリトはただ、立ち尽くしていた。
そのとき、背後からエンの声が聞こえた。
「“縁”ってさ、“忘れられない”じゃなくて、
“意味がわからないまま、心に残ってること”なんだよ」
アリト:「……この人、誰なんですか?」
エン:「さあ、君の中にしかいない人だよ。
でも、君はもう一度この人に出会うことで、
“まだ終わってない自分”に触れるんだ」
風が吹いた。
前のベンチにいた人が、すっと立ち上がった。
顔は見えない。
でも、目の奥でなにかが“ぽとん”と落ちた。
アリトの記憶じゃない。
でも、“自分のなかにあった誰か”だった。
④偶然って、誰が決めた?
「偶然って、誰が決めたんだろうね」
それは、バス停に戻ったとき、エンがぽつりと言った言葉だった。
アリトは黙っていた。
さっきの“あの人”のことが、まだ胸の奥に残っていたからだ。
エンは、目隠しのまま空を仰いだ。
「“あの瞬間があったから、今がある”って気づくとき、
もうそれは偶然じゃなくなるんだよね。
だから偶然って、後からしか名前がつかないんだ」
アリト:「でも……全部が意味あるって考えるの、苦しくないですか?」
エン:「そう思う人もいる。
でも、“意味を探す”んじゃなくて、
“意味があるかもしれない”っていう姿勢が、“ご縁”を受け取る力になるんだ」
アリトは、ふと中学のときの出来事を思い出した。
雨の日に、駅で傘を貸してくれた見知らぬ女性。
名前も、顔ももう覚えてない。
でも――なぜか、今、強烈に思い出した。
アリト:「あの人に、今、会ってみたいと思いました」
エン:「でしょ?
その想いが、“今”というご縁をつなぐんだよ」
アリト:「でも、それってもう、会えないかもしれない」
エン:「うん。会えないまま、かもしれない。
でも、“会いたかった”って気づいた君が、
もうすでに誰かの“ご縁”になってるかもしれない」
アリト:「…………」
エン:「ご縁って、起こるものじゃない。
“受け取る準備”ができたとき、
同じ景色が“出会い”に変わるんだ」
風が吹いた。
また、“音のしない”バスの気配。
どこにもいない誰かが、
“また会おう”とつぶやいたような気がした。
アリト:「偶然って……ほんとは、呼び方だけなんですね」
エン:「そう。“ご縁”って呼べば、
この世界は、ちょっとだけあたたかくなるんだよ」
⑤ひとつずれていたら
もし、あの時、右じゃなくて左に曲がっていたら――
もし、あの日、電車に乗り遅れていなかったら――
もし、あの瞬間、目をそらしていなかったら。
アリトは、そんな「たら・れば」を、ひとつずつ数えていた。
湖のほとりに立ちながら、足元の石をそっとつつく。
「ひとつずれていたら、出会えてなかったんだよな……」
エンは、近くのベンチに座って、いつものように目隠しをしていた。
「うん、そうだね。
でも“出会えた”ってことは、
そのとき、君が“ちゃんとそこにいた”って証拠なんだ」
アリト:「証拠、ですか?」
エン:「そう。“奇跡”ってさ、
誰かが起こしてくれたんじゃなくて、
君が、そこにいたから起きたってことなんだよ」
風が、柔らかく草をなでた。
アリトの中に、またひとつ、“誰か”の顔が浮かんだ。
小学生のころ。
いじめられて泣いていたときに、
ランドセルに貼られた“手紙のふせん”。
誰が書いたか、今も知らない。
ただ、そこには一言、こう書かれていた。
「あなたの声、ちゃんと届いてたよ」
今まで、忘れていた。
でも――なぜか今日、この風の中で思い出した。
アリト:「……ひとつでも違ってたら、あのふせん、見てないかもしれなかった」
エン:「そう。でも、君はそれを見た。
つまり、それは君のためにあった“ご縁”だってこと」
アリト:「でも、誰だったんだろうな。あれ書いたの」
エンはにこりと笑った。
「たぶん、今もわからないままで、いいんだよ。
“正体がわからないのに、心に残る”って、最強じゃない?」
アリト:「……なんか、それ、泣けますね」
エン:「“ご縁”って、泣けるんだよ」
アリトは空を見上げた。
ふと、涙が出そうになる。
でも、笑った。
確かにそこにいた自分が、
この涙を受け取っているとわかったから。
⑥繋がりたかった心
アリトは、しゃがみこんで、土の上に指で文字を書いた。
誰にも見せないように、音も立てずに。
「また会えたら、って思ってる」
書いても、すぐに風が消していく。
でも、それでもよかった。
言葉にした、ということが大切だった。
エンは、何も言わずに隣にいた。
目隠しをしたまま、空を感じているようだった。
アリト:「……繋がりたかった人が、います」
エン:「うん」
アリト:「でも、ちゃんと話せなかった。
気持ちも伝えられなかった。
怖くて、タイミングを逃して、結局……」
エン:「それが“ご縁のかけら”だよ」
アリト:「かけら?」
エン:「そう。完成してない、でも“確かにあった”って証拠。
未完成のまま心に残るものはね、
“今の自分”に繋がってるの」
アリトは、静かに目を閉じた。
過去の記憶が、断片的によみがえる。
手が触れそうで、触れられなかった瞬間。
何かを言いかけて、飲み込んだ息の重さ。
アリト:「……あのとき、勇気を出せてたら」
エン:「そうだね。でも、出せなかったからこそ、
“今の君”がここにいるんだよ」
アリト:「……それで、いいんですか?」
エン:「うん、だってね、
繋がりたかったって思えること自体が、
君の心が“ちゃんと愛してた”証拠なんだよ」
アリトは、不意に泣いた。
涙が、理由もなく、ぽろぽろと落ちた。
けれど、それは悲しみじゃなかった。
もっと奥の、
“ずっと伝えたかった想い”が、やっと出てきた感じだった。
エンは静かに言った。
「会えなかった人に、会いたかったと思える。
それってね――
もう、君は“今ここ”と繋がってるってことなんだよ」
風が吹いた。
今度は、あたたかくて、柔らかくて、
まるで誰かに抱きしめられているような風だった。
⑦覚えていない再会
白い霧の中を歩いていた。
どこかはわからない。
でも、遠くに光があった。
アリトはそこに引かれるように、ゆっくりと進んだ。
足元に草が生えていた。音はなかった。
ただ、懐かしさだけが胸を満たしていた。
やがて、ベンチが見えた。
そこに、誰かが座っていた。
アリトは足を止めた。
心臓が、ことん、と跳ねた。
その人は、こちらに背を向けていた。
髪は短く、服はベージュのコート。
どこにでもいそうな人影。
でも――
アリト:「……知ってる」
口が勝手に言っていた。
誰かは、こちらに気づいたようで、
ゆっくりと立ち上がる。
そして、振り返る――
――でも、顔が見えなかった。
輪郭はあるのに、目も鼻も口も“記憶に映らない”。
それなのに、心は叫んでいた。
「この人を、知ってる」
手が動いた。近づいた。
その人も、ゆっくりと近づいてくる。
アリトの胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
何を言いたかったのか、わからない。
でも、ずっと“言いたかった”ということだけが、はっきりしていた。
そして、すれ違うとき――
その人が、小さくつぶやいた。
「ありがとう、アリト」
声は、記憶の底から響いた。
まるで、何百年も前から知っていたかのような響き。
振り返っても、もう誰もいなかった。
でも、空気だけが残っていた。
たしかに、あたたかかった。
アリトは目を閉じた。
その言葉を、胸にしまった。
エンの声が、遠くから届いた。
「“再会”って、
“覚えてるかどうか”じゃなくて、
“感じられたかどうか”なんだよ」
⑧すれ違いの奇跡
アリトは、もう一度振り返った。
でも、さっきの人影はやっぱりいなかった。
あの人は、“いた”のか?
それとも、“思い出した”だけだったのか?
でも――
心のどこかで、あれが「再会」だったと知っていた。
エンが、そっとつぶやいた。
「出会えることは、奇跡。
でもね――
出会えなかったことも、奇跡なんだよ」
アリト:「……どういう意味ですか?」
エン:「会いたかった人に、会えなかった。
それってね、
“本気で、誰かを想ったことがある”って証拠なの」
アリト:「……でも、会えなかったら、何も始まらないじゃないですか」
エン:「本当に?
君は、今日ここで“その人を思い出してる”。
つまり、その人は今、君の中に“いる”ってことなんだよ」
アリトは、風を感じながら目を閉じた。
思い出したくなかった場面があった。
手を伸ばしながら、間に合わなかったあの瞬間。
声をかけようとして、飲み込んだあの夕暮れ。
「あのとき、勇気があれば……」
何度もそう思った。
でも、それでも――
今日、この森で、その人に「ありがとう」と言ってもらえた。
アリト:「……会えなかったことも、ちゃんと繋がってたんですね」
エン:「そう、“すれ違った”ってことは、
君が“そこにいた”ってことだから」
アリト:「……なんか、それだけで、救われるな」
エンは、少しだけうなずいたように見えた。
目隠しの奥で、彼のまなざしが
“いまこの瞬間”を静かに見つめていた。
アリト:「……じゃあ、いつかまた、会えるかな」
エン:「うん。会おうとしなくても、
縁があれば、また風が吹くよ」
風が、また、アリトの髪を撫でていった。
⑨もう一度だけ、会えたなら
「もう一度だけ、会えたなら――」
アリトは、つぶやくように言った。
自分に言ったのか、誰かに言ったのか、わからなかった。
でも、その言葉には、明確な“温度”があった。
遠い過去の夕焼けに、灯るような光。
エンは何も言わなかった。
ただ、そばにいてくれた。
アリト:「……やっぱり、会いたいです。
名前も思い出せない。顔もはっきりしない。
でも、“あの人”に、もう一度会って、ちゃんと伝えたい」
エン:「何を?」
アリト:「ありがとう、って。
会ってくれて、そこにいてくれて、すれ違ってくれて……」
アリトは、笑った。
そして、目を閉じた。
まぶたの裏に浮かんだのは、
ずっと昔、雨の日の帰り道。
傘を差し出してくれた誰かの手。
寒くて、震えていた自分の肩に、そっとかけられた一言。
「大丈夫。ちゃんと見てるよ」
たったそれだけ。
でも、それだけで世界がやさしくなった。
アリト:「……あれ、たぶん、人生でいちばん救われた言葉でした」
エン:「“もう一度会いたい”って思うとき、
それは“今、心が育ってる”証拠なんだよ」
アリト:「育ってる……?」
エン:「うん。昔はただ助けてもらっただけだった。
でも今の君は、“ありがとう”って言いたいと思ってる。
それが、“心が広がった”ってことなんだよ」
風が吹いた。
まるで、どこかで誰かが、アリトの言葉を受け取ったかのように。
アリトはもう、涙をこらえなかった。
胸の奥にあった、
伝えられなかった想いが、
ようやく“言葉”という姿を得たから。
それは、もう“過去”じゃなかった。
今この瞬間に、生まれ直した想いだった。
⑩また、会えるよ
バス停に戻ると、あの看板がゆらいで見えた。
『御縁(ごえん)前』――
今はもう、その文字が少しあたたかく見えた。
ベンチに、エンが座っていた。
変わらず目隠しをしたまま、空に向かって微笑んでいる。
アリト:「もう……行くんですね」
エン:「うん。でも、“君が行く”んだよ。
僕はまた、誰かをバス停で待ってるだけだから」
アリトは、少しだけ寂しくなった。
でも、不思議と“別れ”の感じはなかった。
それはたぶん、彼が“どこにでもいる”人だから。
アリト:「また会えますか?」
エン:「また会えるよ。
同じ人に会わなくても、同じ“想い”に再会するから。
それがご縁。形じゃなくて、波のように巡るもの」
アリト:「……じゃあ、また出会ったとき、どうすれば?」
エン:「笑って、こう言って。
“やっぱり、縁だね”って」
アリトは、ふっと笑った。
涙も、笑顔も、全部“ここ”にあっていいと思えた。
エンは立ち上がった。
目隠しの奥に、光が差し込んでいるように見えた。
「君が誰かを想った分だけ、
誰かが君を想っている。
ご縁って、そういう“見えない風”なんだよ」
アリト:「……ありがとう。ここにいてくれて」
エン:「こちらこそ。君が、来てくれてよかった」
風が吹いた。
バスが、来る音はしなかった。
でも、アリトは静かに歩き出した。
足音が、“次の出会い”へ向かって鳴り始める。
振り返ると、もうベンチにエンはいなかった。
でもその場には――
やさしい風だけが、残っていた。
そして、どこかで、誰かの声がした。
「また、会えるよ」
その言葉が、アリトの胸の奥で、そっと灯をともした。
――第2章・了。
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