『終わりの音を聴いた少年⑧』
第8章 忘れられた金曜日
ピアノの部屋は、あの日と同じだった。
扉を開けると、埃っぽい空気が流れてくる。
ミユとアキラは、僕の後ろで静かに立っている。
でも僕は、もう自分の足で進むと決めていた。
床を踏みしめるたびに、昔の記憶が戻ってくる。
窓際に差し込む光、張り紙の色、足音の反響。
あの子がいた、あの日の放課後。
僕は、ピアノの前で立ち止まった。
何もない。
でも――
鍵盤が、ひとつだけ、音を立てた。
ポロン……
誰もいないはずなのに、静かに音が鳴った。
そして、その音に呼ばれるように――
“彼女”が、現れた。
姿は、少女のままだった。
髪は肩まで、白いワンピース。
でも、顔ははっきりとは見えない。
まるで“影”のベールがかかっているように、淡く揺れている。
「……ルイくん?」
その声だけは、忘れようとしても忘れられなかった。
僕は、震える声で返した。
「……来るのが、遅くなって、ごめん」
彼女は小さく笑った。
「いいよ。……本当は、ずっと待ってた。
でも、待ってるうちに、“私”が少しずつ、消えていったの」
「……消える?」
「“忘れられた記憶”は、影になるの。
私、あなたに“忘れられた”って思った時から、ここに縛られてたの」
僕は首を振った。
「忘れたんじゃない。怖かったんだ。
約束を守れなかったら、嫌われると思って……
謝るのが怖くて、逃げたんだ」
彼女の影が、すこしだけ薄くなった。
「……ありがとう。ちゃんと言ってくれて。
それだけで、少しだけ軽くなった」
僕の胸に、どくん、と音が鳴った気がした。
ずっと忘れていた、心の中のピアノが、ゆっくりと目を覚ますような感覚だった。
でも、その瞬間――
ピアノの奥から、“別の影”がうごめき出した。
ミユが叫ぶ。
「来るよ!! 本物の“影”だ!!」
教室の床が黒く滲み、彼女の足元から吸い込まれていく。
「ダメッ! このままじゃ、“彼女ごと”影に飲まれる!!」
僕の視界が、震えた。
あのときと同じだった。
“金曜日”の放課後、僕は来なかった。
彼女はずっと待っていたのに、僕は、怖くて来なかった。
その選択が、彼女を“この部屋に”閉じ込めてしまったんだ。
僕のせいだった。
僕はとっさに、手を伸ばした。
「名前を……! 君の名前を教えて!!
名前を呼ばなきゃ、ここから連れ出せない!!」
彼女は、かすれた声でつぶやいた。
「……ユイ」
「ユイ……ユイ!! ユイ!!」
その瞬間、彼女の輪郭が、一気に鮮明になった。
影が、後ずさる。
“名前を呼ぶ”ということ。
それは、この世界で、ただひとつ、確かなこと。
音が消えたこの世界で、たったひとつ、残された“響き”だった。
僕は、名前を叫びながら、自分自身を思い出していた。
何を守れなかったか。何を、取り戻したいのか。
ユイが微笑んだ。
「ありがとう。
私、ちゃんと“存在してた”んだね」
そして――ユイの手の中から、譜面が現れた。
『終わりの音 第3楽章』
譜面の上には、うっすらと涙の痕があった。
何度も書き直された跡。音符の一つ一つが、彼女の想いだった。
それは“誰にも聞かれなかった祈り”のように、美しかった。
扉は、開かれた。
でもその代わりに――
ルイの背中に、黒い印が浮かび上がった。
ミユの声が、震えていた。
「……ルイ、君に、“呪い”が映った」
黒い印は、音を食べるように、静かに広がっていた。
そして、ルイの耳の奥に、誰にも聞こえない“ざわめき”が生まれていた。
それは、遠くで鳴る第4楽章の予感だった。
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