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『気配』④

第4章 眠れない音


① 枕元に指が落ちる音

布団に入り、目を閉じた数分後。
右耳のすぐ近く、枕の布地が小さく鳴った。

パチン――という、乾いた破裂音。
硬質ではない、けれど確実に“何か”が接触した音。

瞬間的に思った。「指だ」と。
その音は、何かの指先が枕元にそっと触れ、
あるいは、“落ちて”きたときの音にしか感じられなかった。

静寂の中で、あまりにもはっきりしていたその一音に、
身体は氷のように固まった。
顔を上げることも、目を開けることもできず、
ただ、右耳のすぐそばに存在する“それ”の痕跡に、全神経を奪われた。

布団の中で呼吸だけが、不自然に速くなっていった。


② 呼吸と呼吸が合わない

自分の呼吸の音は知っている。
吸って、吐いて、そのリズムは一定で、
“安心”そのもののリズム。

だが、その夜――
呼吸の合間に、もうひとつの呼吸音が混じっていた。

同じテンポではない。
早くもなく遅くもない、けれど決して自分と重ならない、
ズレた“誰かの呼吸”。

耳を澄ますと、それは部屋のあちこちから聴こえてきた。
頭の左側、足元、天井。
位置は定まらず、ただ“どこかにいる”。

その呼吸音は、まるでこちらのリズムを崩すように、
絶妙なタイミングで入り込んでくる。
「こちらを起こしたい」かのように。


③ ドアノブが鳴った

深夜、静まり返った部屋に、
“カチリ”という金属音が響いた。

それは紛れもなく、ドアノブが軽く揺れたときの音だった。
鍵をかけている。誰も入れるはずがない。
けれどその一音は、確実に“誰かが手をかけた”感触を伝えてきた。

ベッドから起き上がることができず、
ただその方向に神経を研ぎ澄ませた。
音はそれっきりだった。

だが、その沈黙が――
**「扉の向こうに何かが立ち尽くしている」**と告げていた。

ドアの下の隙間から、冷たい空気が静かに滲んできた。


④ 冷蔵庫の音が会話に聴こえた

部屋の片隅で、冷蔵庫が小さく唸っていた。
いつもの稼働音。
ただ、その夜だけは、違って聴こえた。

「……た……し……」
「……こえ……てる……」

そんなふうに、冷却音が**“言葉の断片”に聞こえた。**

耳を澄ませるほど、音が意味を持ち始めた。
文章にならない、けれど“話し声”のような波。

それは雑音ではなく、
**こちらに向けてささやかれている“声の模倣”**のようだった。

頭では冷蔵庫だと理解している。
でも、その理解の上に、
別の音のレイヤーが重なっている感覚がどうしても消えなかった。


⑤ 窓の外、爪でガラスを叩く音

ポツン……ポツン……と、
爪でガラスを軽く叩くような音が、部屋に響いた。

雨ではない。風の音でもない。
乾いていて、尖っていて、一定の間隔。

まるで、**“誰かが外からこちらを試している”**ような、そのリズム。
一発ごとに、音の輪郭が強くなる。

窓を開ければ、そこに誰もいないことはわかっていた。
でも、だからこそ――開けてはいけない。

その叩く音は、ただそこに“いる”だけではなかった。
**「気づくまで叩き続ける」**という、
冷たい意思が宿っていた。

最後の一音だけが、少しだけ強かった。
それは、“視線が合った合図”のように思えて、
全身が跳ね上がるように震えた。

⑥ 音を止めたくて、耳を塞いだ

深夜、部屋のどこにも“音”はないはずだった。
だが、全身にまとわりつくようなノイズが、耳の奥を震わせていた。

それは高周波でも、低音でもない。
ただ、“こちらを知っている音”だった。

自分にしか聞こえないとわかっていても、耐えられなくなって、
思わず両手で耳を塞いだ。

しかし――その瞬間、音は“内側”で鳴り始めた。

皮膚の内、骨を伝って、脳の奥で響く音。
外界から来ていたはずの何かが、
すでにこちらの中にいると告げるような、濁った振動だった。

耳を塞ぐことで“気づいてしまった”音が、
今は、離れなくなっていた。


⑦ “それ”は天井から音を落とす

静かな天井。
明かりも消して、ただ仰向けに横になっていると、
そこから――“コトン”という音が落ちてきた。

何か小さな物体が、天井の裏から床に落ちたような、乾いた衝撃音。
けれど当然、天井の上に部屋はない。
音の出どころが“上”である理由がなかった。

続いて“トン”……“トト”……と、リズムが変わりはじめる。

耳ではなく、肌で聴く音。
その振動は徐々に重くなり、
最後には天井から、“誰かの足音”が垂直に降ってきたように響いた。

天井が鳴るたびに、心臓が一緒に“跳ね”た。


⑧ 音は鳴っていないが響いている

しばらくすると、音は止んだ。
けれど“終わった”という感覚は、どこにもなかった。

音は鳴っていない。
ただ、部屋の中には確かに**“響き”が残っていた。**

水の底にいるときのような、無音の中の振動。
空気全体が、まるで遠くの音を共鳴させているようだった。

耳鳴りとも違う。
不快ではなく、ただ“存在”だけが残されたような、
音が抜け落ちたあとの重さがあった。

その重さの中心が、
今、自分の真上、あるいはすぐそばにある気がして――
身動きが取れなくなった。


⑨ 心の中で誰かが歩く

目を閉じると、
足音が聴こえた。

遠くからではない。
上の階からでも、廊下でもなく――
自分の中から。

心の内側に、足音がひとつずつ、踏み込んでくる感覚。
それは実際の音ではなく、
“歩くという行為”そのものが、こちらの意識の中で鳴っていた。

最初は恐怖ではなく、ただ奇妙だった。
だがやがて、
“その足音の主が、自分ではない”と気づいた瞬間、
脳内で叫び出しそうになった。

心という家に、
誰かが勝手に住みついて歩き回っている――
そんな感覚だった。


⑩ 耳の奥で、名前を呼ばれた

最後に、音は**“音声”に変わった。**

耳の奥、それも鼓膜の裏側から、
自分の名前が囁かれた。

はっきりと、明瞭に、
それでいて現実の空気を震わせない“音”。
つまり、内側だけで成立した発声。

目を開けても、閉じても、その声は消えなかった。
まるで“名”を刻まれたかのように、
その響きは、脳と身体の境目で鳴り続けた。

呼ばれた、というより、
“呼び戻された”気がした。

どこへ――誰に――
その答えは、まだ“音の続き”の中にあった。


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