連載小説『不倫』③
最終章 終わりのはじまり
🟥第1節 連行
ハンドルを握る彼女は黙っていた。
後部座席に座る年配の女性――その足先が、無言で僕の背中を小突き続ける。
道中、会話はなかった。
エンジン音とウィンカーの乾いた音だけが、車内の空気を満たしていた。
到着すると、玄関先で靴も脱ぎきらないうちに、彼女は髪をわしづかみにされ、廊下へ引きずられた。
胸の奥がきゅっと縮む。僕は立ち尽くしたまま、その様子を見ていた。
ふいに、その人の視線が僕を射抜く。
「……なんて、優しい目をしてるの」
許されるのか――そう思った瞬間、ガラスの灰皿が弧を描き、目尻に当たった。
熱い感触が頬を伝い落ちる。
僕はただ、息を飲んだ。
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🟥第2節 境界線の外で
やがて、彼女は部屋の奥に消えた。
残された僕に、その人は一言だけ告げる。
「もう二度と会わないで」
その声は、怒りよりも疲労が勝っていた。
聞き返すことも、否定することもできなかった。
けれど、数日後――僕たちはまた会っていた。
駅前のカフェ、人気のない夜の公園、仕事帰りのホテル。
「やめなきゃ」と思うたびに、互いの存在はより強く引き寄せられていった。
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🟥第3節 告発
家庭は、静かに軋み始めていた。
元妻の友人から、人事部に匿名の文書が届いた。
そこには、僕と彼女の関係が詳細に書かれていた。
僕は当時、執行委員長という立場にあり、事態は一気に表沙汰になった。
退職。
そして、遠くの県への転居。
それは決意というより、追い立てられるような移動だった。
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🟥第4節 別れの理由
彼女は、僕が離れることに反対した。
「この街にいてほしい」
それが最後の願いだったのかもしれない。
彼女は長女として、家族のそばにいる義務を背負っていた。
僕と一緒に来る選択は、最初からなかったのだろう。
しばらくは電話が続いた。
やがて、彼女は「お見合いをした」と告げた。
そして、「結婚する」と。
🟥第5節 最後の声
それきり、彼女と会うことはなかった。
けれど、別れた後も、何度か電話が鳴った。
受話器の向こうで、彼女は言った。
「最後まで、大好きだった」
その声は、笑っているようで泣いているようだった。
きっと彼女は、断腸の思いで僕ではなく家族を選んだのだ。
結婚が決まってからも、何度か声を聞いた。
言葉の一つひとつが、僕の胸に沈んでいくようだった。
電話を切ったあとも、その余韻だけが耳の奥に残っていた。
まるで、手を離した瞬間にもなお、温もりが残るように。
それは、どんな季節の風よりも、長くそこに留まり続けた。
あとがき
この物語は、ある過去の出来事をもとに再構築したフィクションです。
人は、ときに自分の選ばなかった未来を思い返し、その中に残る言葉や表情を繰り返し辿ります。
けれど、その記憶は時間とともに変わり、淡く滲み、やがて“自分だけの真実”として残るのかもしれません。
読んでくださった方が、それぞれの心の奥に眠る選択や別れを、そっと思い出すきっかけになれば幸いです。
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