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『まだ言葉にしていないだけ』⑩

第10章「言葉の外で待っている」

──すべてを言葉にしないまま、ただ在る


① 誰もいないベンチに、座り続けた

公園の片隅にある、古びた木のベンチ。
朝でも夜でもなく、
季節さえも曖昧な時間のなかで、僕はひとり腰を下ろしていた。

となりに君がいた日も、
何も話さず、ただ一緒に空を見上げていたことを思い出す。

言葉は必要なかった。
沈黙がすべてを語っていた。

その沈黙だけが、今の僕の隣に残っている。
それはもう、寂しさではなく、祈りのような時間だった。

僕はただ、そこにいた。
何も求めず、何も答えず。

まるで、風に吹かれるベンチの木片のように。

 

② 時計の音が、世界を静かに進めていた

遠くの街の音が、微かに聞こえてくる。
けれど、この場所には、時計の“コチコチ”という音だけが響いていた。

その音が、まるで世界の針を静かに進めているようだった。
過去も未来も、このリズムに沿って流れていく。

君と出会った瞬間も、
君と別れたあの夜も、
すべてが、この音の中に吸い込まれていった。

時計は、ただ時を刻むのではない。
“記憶を磨く”という役割もあるのだと思った。

思い出が、磨かれ、形を変え、
やがて透明になるその過程に、
僕は身をゆだねていた。

 

③ 名前を呼ばないまま、待っていた

呼べば、壊れてしまいそうだった。
たった一度、君の名を呼ぶだけで、
この繊細な記憶の繭が、ほどけてしまいそうだった。

だから僕は、君の名前を心の中で押しとどめた。
音にしなければ、君はまだここにいる。
呼ばなければ、まだ“想い”のままでいられる。

そんなふうにして、
僕は、名前を呼ばずに君を待った。

ただ、ひとつの感覚だけを信じて。
風の匂い、光の角度、肌に触れる空気のやわらかさ。

それらが、君の“存在の証”だった。

名前の外で、言葉の外で、
僕は今も、君を待っている。

たぶんずっと、このままで。

④ 空気が、君を運んでくる気がした

ふいに吹いた風が、
どこか君の髪の匂いに似ていた。

やわらかく、少し甘く、すぐに消えてしまいそうな感覚。

空気は目に見えないけれど、
その透明さの中に、君の気配が確かに紛れていた。

季節の境目のような、曖昧な風の流れに、
僕は目を閉じて、じっと身を任せた。

すると、耳の奥に、君の笑い声が響いた気がした。
あの夜と同じ、くすっと微笑むような優しい音色。

君はもう、どこにもいない。
でも、どこにでもいる。

この空気の中に、
たしかに君は、棲んでいる。

 

⑤ 声に出さずに、心で呼んでいた

口を開けば、きっと涙がこぼれてしまう。
だから、何も言わないまま、
僕は心の中で、何度も君を呼び続けた。

呼びかけるたびに、胸の奥に静かな波紋が広がっていく。
その波紋が、やがて温かい記憶を包み込み、
僕をそっと、癒してくれた。

声にしない想いほど、深く、真実に近づくことがある。
それを、君が教えてくれた。

言葉の代わりに、手をつないでくれた夜。
目が合っただけで、全部が伝わった朝。

“心で話す”ということの意味を、
僕は君との時間の中で、ひとつずつ学んでいた。

だから今も、声に出さず、
ただ、心でそっと呼んでいる。

 

⑥ もう二度と会えないと思いながら

人はいつも、“最後”を知らずに別れる。
その日が、最期になることを、誰も教えてくれない。

あの別れ際もそうだった。
また会える、そんな気がしていた。

けれど、今はわかる。
もう君に会うことは、きっとない。

そう思うと、世界が少し色あせて見える。
でも、それでいいとも思う。

君がいた時間が、本当に美しかったから。
その美しさが、永遠になるためには、
“終わり”という形が、必要だったのかもしれない。

もう二度と会えないと思いながら、
僕は君の名前を、そっと胸に抱いている。

それは、別れではなく、祈りのような抱擁だった。

 

⑦ 風の中で、微笑みだけが残っていた

ふいに吹いた風が、
君の髪を揺らす光景を思い出させた。

そのとき、僕の胸の奥に、ひとつの微笑みが灯った。

もう、涙も痛みも越えて、
ただ穏やかに浮かぶ、小さな笑みだった。

それは、君と過ごした日々が、
ちゃんと僕の一部になった証。

忘れることじゃない。
忘れられないことでもない。

ちゃんと、受け取っている。
ちゃんと、愛していたんだと、ようやく言える。

風が通りすぎていく。
その中に、微笑みだけが、そっと残っていた。

 

⑧ “言葉にならない愛”というものがあるなら

もし、“愛してる”という言葉が、
この想いを語り尽くせないとしたら、

それはたぶん――
君との時間が、言葉を超えていたから。

触れた手のぬくもり、
視線が重なった静けさ、
帰り道の沈黙、
別れ際の息づかい。

それらすべてが、
“言葉にならない愛”だったのかもしれない。

君を愛したことは、記憶じゃなく、存在そのものだった。
ただ“在る”という事実だけが、愛を語っていた。

だから僕はもう、言葉で追いかけない。
その外で、静かに愛している。

 

⑨ たぶん、今もその中にいる

時が流れても、
僕はまだ、君の中にいる気がする。

そして、君も、
僕の中に居続けている。

互いに違う世界を生きていても、
同じ風景を見ていなくても、

あの場所だけは、
永遠に変わらず、
“二人がいた”という事実だけで、満たされている。

記憶の中ではない。
幻想でもない。

今も、たしかに“その中”にいる。
言葉の外に、静かに在る“愛”のなかに。

 

⑩ そして今日も、何も言わずに思い出している

僕は今日も、言葉を持たずに、
君を思い出している。

名を呼ぶこともなく、
愛を語ることもなく、
ただ、あの日の空気を吸うように。

コーヒーの湯気にまぎれて、
信号待ちの時間に紛れて、
何気ない瞬間に、君は現れる。

そして、何も言わずに微笑む。

僕も、何も言わずに、
その微笑みを受けとる。

それだけで、充分だった。

 

──君を愛したことが、
  僕の人生そのものだった。

 

あとがき ― 言葉にならないもののために

この物語は、
一人の男の“想い”を、ただ綴っただけのものです。

それは、劇的でもなく、報われるわけでもなく、
誰かにとっては、ただの片想いにすら見えるでしょう。

でも、人生で一度だけ、
言葉にならないほどの「誰か」に出会った人なら、
きっとこの物語の意味を、どこかで感じてくれると思います。

名前を呼べなかった。
愛してると言えなかった。
触れられなかった。
けれど、忘れなかった。

そんな記憶が、心の奥に一つでもあるなら、
きっとその“沈黙”の中に、この物語が溶けていきます。

 

この物語は、
読者である「あなた」への、
もうひとつの手紙でもありました。

もしあなたにも、
言葉にできない想いがあったなら――

それはきっと、
人生の中で最も“本物”だった愛なのかもしれません。

 

物語を閉じても、
風のようにそっと、残っていてくれますように。

そして、また静かに思い出してください。
“言葉の外で待っている”誰かを。

 

―― 静月(開 堤互)

※note創作大賞2025では、12ジャンルすべてに作品を投稿しています。
形式は違っても、すべての物語に、ひとつの風が吹いています。

それは、“感情”という名の風。
この物語もまた、その中にあります。

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