連載小説『五十人格作家』➄
🩶第5章 診察室
ーーー過去ーーー
白い壁の部屋は、昼の光を柔らかく受けていた。
空音(そらね)は深く息を吸い、膝の上で指を組んだ。
手のひらにわずかな汗がにじむ。
「声がするんです」
その言葉を口にするまで、三度ほど呼吸を整えた。
医師・御影は、静かに頷き手帳を開く。
「どんな声ですか?」
「静かで……私が考えるより先に言葉を置いていくような感じです。
“次は私たちの頁だ”とか、“そこはまだ描いていない”とか。」
御影はペン先を少し傾けた。
「それは命令的ですか?」
「いいえ。命令じゃなくて……“流れ込む”という感じです。
手が勝手に動いて、文体も変わる。あれは、私じゃないみたいで。」
「眠れていますか?」
「眠っていると思います。
でも、起きたら知らない原稿が出来ているんです。
……それが“彼ら”の文体なんです。」
「“彼ら”とは?」
「プルースト、ドストエフスキー、サガン、シェイクスピア。
あの節を書いたときの声が、ずっと残っているんです。」
御影は表情を動かさずに言う。
「読書や創作に深く入ると、作家は言葉と呼吸を共有します。
珍しいことではありませんよ。」
「わかります。でも……影響では説明できないんです。」
空音は指先を重ね直した。
「ときどき、私が彼らを演じているんじゃなくて、
彼らが“私を通って”書いている気がするんです。」
御影はペンを置き、少し首を傾けた。
「怖いですか?」
空音はゆっくりと首を振る。
「いいえ。むしろ……懐かしいんです。」
短い沈黙が落ちる。
窓辺のブラインドが光を細く揺らした。
御影がその揺れに目を向けた瞬間だった。
空音の胸の内側で、
ふっと、言葉の“余韻”のようなものが生まれた。
――まだ続きがある。
囁きではなかった。
思考の奥をかすめる、意味の形だけの残響だった。
御影が振り返ると、空音は穏やかに微笑んでいた。
「先生、記録しておいてくださいね。」
「何をですか?」
「今の“残り香”みたいな感覚です。
これが、最初の“現実側”の声でした。」
午後の光が床に細い線を描き、
その線が、ゆっくりと空音の足元へ伸びていった。
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