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『まだ言葉にしていないだけ』⑧

第8章「記憶の呼吸」

──想い出は、まだ呼吸をしている

① 洗濯したはずの匂いが残っていた

タンスを開けると、そこに並ぶ服のなかに、
彼女が最後に着ていたシャツが、まだ一枚だけ残っていた。

洗濯したはずなのに、
その布地からは、ほのかにあの香りがした。

シャンプーと、少しだけ甘い柔軟剤の匂い。
それに混じって、たしかに、彼女の体温のようなぬくもりがあった。

洗濯では落としきれない「時間」というものが、
まだこのシャツの中には、静かに息づいていた。

僕はそっと、シャツを手に取る。
そして、胸にあてて、静かに目を閉じた。

その瞬間、彼女の笑顔が、
まるで鏡に映るように、脳裏に浮かんできた。

「……生きてる」
そう思ってしまった。
このシャツの中で、まだ彼女の記憶は、呼吸していた。

 

② 送信履歴のないメッセージ

スマホの中に、送信履歴のないメッセージがひとつだけあった。

宛先を入れたあと、何度も言葉を打っては消し、
そのまま保存された下書き。

「元気?」
「……会いたいです」
「まだ、好きです」

どの言葉も、どこか嘘っぽく思えて、最後まで送れなかった。

画面に残るのは、誰にも届かないまま眠る、
“伝えられなかった想い”の断片。

いつもは見ないようにしていたそのメモを、
ある朝ふと開いてしまった。

そして、驚いた。
そこには、彼女の名前と、最後に打った言葉の途中があった。

「もう一度だけ──」

その続きを、いまだに僕は、考え続けている。
それが“願い”なのか、“謝罪”なのか、“さよなら”なのか、
今でもわからないまま、下書きフォルダに眠っている。

 

③ 毎朝、同じ時間に目が覚める

彼女と会っていた頃、
いつも朝7時にスマホが鳴った。

「おはよう、今日もがんばろうね」
そんな、他愛もないメッセージ。

今はもう届かないその言葉が、
僕の体内時計に、きちんと刻み込まれてしまったらしい。

目覚ましをかけていなくても、
毎朝、7時ちょうどに目が覚める。

彼女がもういないと知っていても。
メッセージが来ないと知っていても。

ベッドのなかでまどろむたび、
どこか遠くで、LINEの通知音が鳴ったような気がしてしまう。

そして、その度に思う。
きっと、記憶は消えたわけじゃない。
ただ、眠っているだけだ。

その記憶が、僕の呼吸といっしょに、今も目を覚ましている。


④ 自販機の前で、いつものボタンを押してしまう

駅前の自販機。
赤い缶コーヒーと、白いミルクティー。

彼女はいつも、迷わずミルクティーを選んでいた。
「これね、朝に飲むと優しくなれるの」
そう言って、蓋を開ける前に必ず、ひと呼吸おいてから微笑んだ。

その姿が頭に染み付いているから、
気づくと、僕の指は自動的にその白いボタンに触れていた。

ガタン、と缶が落ちる音。
手に取った瞬間、その軽さが、やけに切なかった。

口をつけると、あのときと同じ味がした。
でも違った。隣に彼女がいないだけで、味は別物になっていた。

「なんで、これ選んじゃったんだろう」
そう呟いて、缶を強く握った。

でも、きっと選びたかったんだと思う。
彼女がいた朝を、思い出したかったんだと思う。
たとえそれが、少し痛みを伴っても。

 

⑤ 冷蔵庫の中に、好きだった味が残っていた

買い物の途中、何となく手に取ったヨーグルト。
家に帰って冷蔵庫に入れようとして、ふと気づく。

奥のほうに、同じヨーグルトが一つだけ残っていた。
賞味期限ギリギリのまま、誰にも食べられずにそこにいた。

彼女が最後に買ってきたものだった。

「これ、新発売なんだって。ね、一口だけちょうだいね」
そう言って、結局ほとんど食べていた、あの日。

蓋を開けると、やさしい桃の香りがした。
スプーンですくったときのとろりとした感触に、
彼女の「おいしい!」という高めの声が重なってよみがえる。

僕はひと口だけ食べて、そっと冷蔵庫に戻した。

すべてを食べることができなかった。
それは、彼女がそこにいた証を、
完全に飲み込んでしまうことのように思えて。

味覚までも、記憶の一部になっていた。

 

⑥ 笑い声の記憶が、耳から離れない

彼女の笑い声には、癖があった。
口元を抑えて笑うけれど、最後のほうだけ、かすかに鼻に抜ける音が混じる。

それが妙に可愛くて、僕はその笑い方が好きだった。

今でも、街中で誰かの笑い声を聞くと、
一瞬、彼女かと思ってしまうことがある。

テレビのバラエティ番組。
隣の席の女子高生。
道端で電話している誰かの声。

そこに“似ている音”を見つけては、
心のなかの再生ボタンが押される。

思い出の中で、彼女は今も笑っている。
あの鼻に抜ける小さな癖と一緒に。

「……また聞きたいな」
そう呟いたとき、自分でも驚いた。

笑い声まで、恋しくなるなんて。
耳の奥に焼き付いたその響きが、いちばん鮮やかな記憶かもしれなかった。


⑦ 記憶だけが、今も鮮明だった

時が経つにつれて、いろんなものがぼやけていった。
駅までの道順も、彼女の部屋の間取りも、好きだった映画のタイトルも。

けれど――
なぜか、彼女の表情だけは曖昧にならなかった。

困った顔。笑った顔。拗ねた顔。驚いた顔。
すべてが、まるで昨日のことのように蘇る。

あのとき、僕はどんな言葉を返したっけ?
彼女は、どんな声色でそれを言ったんだっけ?

気づけば、目を閉じて、その光景を何度も再生していた。
色褪せるどころか、むしろ日々、鮮明になっていくような気がした。

僕の中で、彼女は今も生きていた。
いや、きっと――記憶こそが、いちばん確かな“存在”なのかもしれない。

 

⑧ 夢で会った気がした朝

その朝、目が覚めた瞬間、胸のあたりがやけに温かかった。
理由もなく、心が満ちていた。

「あれ……なんか、会ってた気がする」

夢の中。
たしか、彼女が隣にいた。
何を話したかは思い出せない。
でも、彼女の顔だけは、確かにそこにあった。

夢の中の出来事は、時間と共に消えていく。
けれどその温もりは、午前中いっぱい僕の中に残っていた。

夢でしか会えないなんて、少し哀しい。
でも、夢でならまた会えると思ったら、
その哀しみさえ、どこか優しく思えた。

 

⑨ 忘れたいと思ったことすら忘れていた

昔、彼女と喧嘩した夜があった。
僕がつい口にした、冷たい言葉。

「……なんであんなこと言ったんだろう」

後悔ばかりで、何度もその夜を思い出していたはずだったのに、
いつの間にか、その“喧嘩の内容”を忘れていた。

覚えていたのは、ただ彼女が泣いたという事実だけ。

人は、優しかった時間だけを残すのだろうか。
それとも、記憶が自動的に守ってくれているのだろうか。

忘れたい、と思っていたことさえ、
気づけば忘れたことに、少し安堵した。

それは赦しのようでもあり、再生のようでもあった。

 

⑩ 息をするたび、思い出していた

深呼吸をする。
空気が肺に入り、胸が静かに膨らむ。

そのたびに、彼女のことを思い出していた。

それは意識的なことではなく、
むしろ、無意識に近い。

春の風の匂い。夏の蝉の声。秋の木の葉。冬の空の色。
季節のひとつひとつが、彼女の何かと結びついていた。

生きている限り、僕は呼吸をやめられない。
ということは、彼女を思い出すことも、やめられない。

記憶とは、息づかいそのものだった。
忘れようとして忘れるものじゃない。
ただ、呼吸のなかにあるもの。

そして、その呼吸がある限り、彼女はいつまでも、僕の中で生き続ける。

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