『気配』⑨
第9章 消えていく自分
① 視界が他人のものになる
朝、カーテンを開けた瞬間――
**“視界がズレている”**と感じた。
部屋の形も家具の配置も同じ。
なのに、“見ている高さ”が、いつもより数センチ低かった。
焦点が合う位置が違う。
光の滲み方が、自分の目ではない。
見え方そのものが、“借り物”のような感触。
動かした首の角度に、わずかな違和感がある。
まるで、**“他人の体に一時的に意識を埋め込まれている”**かのよう。
鏡を見た。
映っているのは、自分の姿だった。
でも、**「この人を誰かが操作してる」**という感覚が抜けなかった。
② 肌の感触が遅れて届く
袖をまくる。
布が肌をかすめた。
だが、その触感がワンテンポ遅れて届いた。
普段なら瞬時に感じる摩擦や温度が、
**“0.3秒遅れて再生される動画”**のように、ズレて響く。
まるで、
自分の肌が“別のところ”に置かれているようだった。
しかもその触感は、どこか濁っていた。
ふわりとした実感ではなく、
「皮膚を通して他人が感じている感覚」をなぞっているような。
自分の体が、
もう“自分専用”ではないと、皮膚が告げていた。
③ 過去の記憶が第三者視点
幼い頃の記憶を思い出そうとした。
海で遊んだ夏の日。
祖母の手を引かれて歩いた夜道。
だが、浮かんできた映像は、
**“他人が自分を見ている視点”**だった。
目線の高さが違う。
顔の表情が見えている。
つまり、自分の記憶なのに、“自分が登場人物”になっていた。
本来なら“感じたこと”が蘇るはずなのに、
出てくるのは**“演出された回想シーン”**のような冷たさ。
自分の人生が、
“記録映像”になってしまっていた。
④ 言葉が喉に届かない
何かを伝えようと、口を開いた。
けれど――言葉が“喉に届かなかった”。
思考はある。
言葉も浮かんでいる。
なのに、声帯にそれが伝わっていかない。
まるで、**言語を“身体が拒んでいる”**ような感覚。
言葉は出ない。
ただ、口の中で溶けていく。
言葉を失うのではない。
“身体が、自分の声を忘れていく”。
思わず吐いた息は、ただの風だった。
意味も音も、何も帯びていない風。
⑤ まぶたの開閉が一致しない
鏡を見つめながら、目を閉じた。
だが――鏡の中の自分は、0.5秒遅れてまばたきした。
もう一度、瞬きを試す。
微かにズレる。
だんだん、“そのズレを直せなくなっていく”。
閉じたはずの自分のまぶたが、
なぜか“開いている”感覚がある。
逆に、開いているのに視界が遮られる。
目の感覚が、体と視界と一致しない。
まばたきを“共有”していた自分が、
どこかへ消えていったようだった。
⑥ 名前の音が通じなくなる
誰かに名前を呼ばれた。
確かに聞こえた音だった。
けれど――反応できなかった。
音としては認識している。
だがそれが“自分を指す”と理解するまでに、数秒の空白があった。
まるで、
**「その名前は、もう自分に属していない」**とでも言われているように。
呼びかけられても、胸の奥が反応しない。
音が、ただの“記号”として通過していく。
意味を伴わない、名残だけの響き。
呼ばれるたびに、
その名が誰のものだったか、わからなくなっていった。
⑦ 昨日より“存在感”が薄い
コンビニで、レジに並んでいた。
自分の番になっても、店員が気づかなかった。
声をかけても、反応がない。
視線が自分の肩をすり抜けていく。
まるで、“気配がない物体”として立っているようだった。
昨日までは、普通に声をかけられていた。
でも今日は、自分の輪郭が“背景と溶け始めていた”。
エレベーターの鏡に映る自分は、やけに透明感があった。
周囲との距離感が崩れ、
世界が**“自分を意識しないように動いている”**ことが、
ただただ、静かに怖かった。
⑧ 写真から自分が消えていた
昔の旅行写真を見返していた。
友人たちの笑顔の隣に――
自分がいなかった。
確かにそこにいたはずだ。
シャッター音も、空気のにおいも覚えている。
でも、画面の中には**“空白”が広がっていた。**
もともといなかったわけじゃない。
“誰かが消した”わけでもない。
ただ、記録が“自分の存在だけ”を受け入れなくなっただけ。
紙にも、データにも、空間にも。
自分の「証」が、何ひとつ残っていなかった。
その空白が、
どこよりもリアルだった。
⑨ 思い出の中で他人になっていた
ふとした瞬間に浮かんだ記憶。
けれど、そこにいたのは**“自分ではなかった”。**
感情の軸がずれている。
見ていた景色の角度も違う。
懐かしいはずの感覚が、“別人の肌感覚”で届いた。
これは、誰の記憶だ?
あるいは――
自分が“誰かの人生の一部”に組み込まれてしまったのか?
そのうち、自分自身の過去すべてが、
“観察者の記録”のように変質していった。
感情も、痛みも、
もう“わたしのもの”ではなかった。
⑩ 誰かの夢の中に、住んでいた
夜、夢を見た。
だがそれは“自分の夢”ではなかった。
部屋も、出来事も、風景も、
どれも見知らぬ“誰かの記憶”だった。
でも、夢の中で自分は、
「あ、これは自分の居場所だ」と確信していた。
目覚めた後も、その風景は鮮やかだった。
名前もわからない誰かの夢の中で、
自分はそこに**“長く住んでいた”**感覚があった。
その時、思った。
もしかして――
現実だと思っていたこの世界も、
“誰かの夢”だったのではないか。
そして、自分はその夢の“端役”として、
そっと、薄れていっている最中なのではないかと。
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