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連載小説『五十人格作家』①

 

🩶第1章 四人の影


ーーー夢ーーー 


 白い部屋に、窓はなかった。光だけが在った。誰のものでもない筆が宙を漂い、硯の上に影を落とす。インクが一滴落ちるたび、世界が一つ誕生し、一つ滅びた。遠くで雨が降っていた。それは天からではなく、紙の裏からだった。音はなく、匂いだけが残る。誰かが言った。「地獄もまた、人の手で描ける。」その声は震えていたが、どこか誇らしげでもあった。筆は震えをやめ、誰かの名前を書こうとして、やめた。


 そこに青年がいた。帽子の影に埋もれた瞳が、ガラスのように濡れていた。彼は詩を書いていた。夢の中でさえ呼吸を乱し、言葉の粒が息に混ざって光った。「死ぬことばかり考えるのは、愛を諦めきれない証拠なんだよ。」誰に言ったのか、本人も覚えていない。足元の海が静かに逆流し、空に昇っていく。魚の代わりに言葉が泳いでいた。彼はそのひとつを掴み、胸に押し当てた。紙が湿っている。涙か、海か、境目はもうなかった。


 笑い声がした。いや、嗤い声だった。青年とは違う、少し年上の男が椅子に座っていた。机の上には空の酒瓶と、破り捨てた便箋の山。月が白々と彼の首筋を照らしている。「滑稽だな。人間なんて、書かなければ死ぬし、書けばもっと死にたくなる。」彼は笑いながら、便箋を丸めて投げた。それが着地したのは、鏡のような湖面だった。湖の中に自分の顔が映っていた。笑っていた。だが、次の瞬間、その顔は沈んだ。泡が、ひとつ、ふたつ。静かに弾けた。


 風が変わった。鉄と血の匂いが混じり、闇が動いた。白衣の男が現れた。眼鏡の奥の瞳が、異様に澄んでいる。手には注射器、机の上には黒いノート。そこに記されたのは、倫理を超えた「感情の実験記録」。男はそれを読み上げるように呟いた。「恐怖とは、記憶の最も忠実な形だ。」壁に吊られた影が動いた。いや、動かされた。ノートの紙がひとりでに燃え、灰が宙を舞う。燃え残った一片に、こう書かれていた――“書く者は、必ず狂う。”


 すべての光が交わり、部屋が色を失った。筆、詩、酒、注射器――四つの影がひとつに重なり、輪郭を失う。誰かが目を開けた。だが、それが誰なのか、誰も知らない。声だけが残った。「おまえは、誰の夢を見ている?」その問いに答える者はなく、白い部屋が再び呼吸を始めた。

 ――インクの匂いがした。


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