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連載ファンタジー小説『スピの森』⑤

第5章 海の手放し、灯火の記録

日の出前、海の匂いが森を薄く押しのけ、湿った風が頬の産毛を逆立てた。砂は夜の冷たさを残していて、踏むたびに指の腹が細かく砕けた硝子を撫でるようにざらつく。波は規則正しく崩れ、間にふいと沈黙が差し込まれる。その沈黙のかたちを見計らったみたいに、裸足の女がこちらへ歩いてきた。髪は濡れて背に貼り、目はまっすぐだった。

「ようやく来たんだね」

それだけ言って、女は僕と並んで波打ち際を歩き始める。砂に並ぶ足跡はすぐに水にくずれ、輪郭だけが残る。女は貝殻を拾い、爪の先で欠け目を確かめた。

「捨てたいんでしょう?」

僕は否定も肯定もしなかった。女の声は、潮騒の合間に入りこむ薄い息のようで、返事を待つ気配がない。

「捨てるって、不思議だよ。海に預けると、たまに返ってくる。形を変えて」

女は浜小屋から古びた瓶を持ち出し、口を開けて、折った紙片を落とした。瓶の表面は細かな砂で曇り、指で拭うと、そこだけ鈍く光った。

「昔のわたしが書いた手紙。戻らない恋のこと。忘れたくて、忘れられなくて、海にお願いした」

瓶はゆっくりと波に呑まれ、浅瀬の向こうで一度だけ光ってから、見えなくなった。女は腰を落とし、濡れた砂をすくい上げる僕の手の甲を見た。

「ほら。流れるものは流れていく。残るのは輪郭だけ。それで足りることもあるよ」

砂が指の間から落ち、掌に残った粒が朝の湿り気で重くなった。僕は、その重さを言葉にできないまま、胸の内側で同じ重さを探していた。

「忘れるって、消えることだと思ってた」

「忘れるのは“見えなくなる”こと。消えるのは、たぶん、もっと別のこと」

女は僕の手元を覗き込み、欠けた縁の貝殻を指差した。

「十年前に流した。戻ってきても、欠けはそのまま。だから、ちゃんとこれだってわかる」

波の音は少し揺れを増し、遠くで低い鐘が響いたような気がした。女は海の方を見ないまま言う。

「次に行きな。灯りのある所。あなたの歩いたことが、書かれている」

僕は頷き、海から踵を返した。砂の冷たさが足裏に残り、歩幅が少しだけ大きくなる。森へ戻る道は、夜露で黒く光る石畳に変わった。葉の先から落ちる水が肩にときどき触れ、そのたびに肌がかすかに縮む。

灯火の図書館は、森の呼吸を集めて板で封じたような匂いがした。蝋燭の炎は低く、芯の周りだけ薄く明るい。紙の乾いた手触りと、古い革の酸味が空気に溶けている。長机に座る青年は、指先にインクの薄い染みをつけて、僕を見た。

「来たんだね、アリト」

青年はミナトと名乗った。机の上に一冊の本が置かれている。表紙には金字で僕の名。開くと、波音や砂の温度まで、そのままの言葉で記されていた。読んだばかりの朝が、もうインクになっていることに、喉が鳴った。

「これは、君の“心の記録”だよ」

ミナトは淡々とした口調でそう言い、ページの中ほどに指を置いた。そこだけインクが滲み、文字の縁がほどけて白が覗く。

「ここは、まだ決まっていない」

「決まっていないなら、なぜ書ける?」

「決まっているところだけが、勝手に書かれる。君が“読まないでおく”ことを選べば、滲みは滲みのまま残る」

僕は本の別の頁をめくった。ナギサの瓶が波に消えた瞬間、海面に光が走った描写の横、余白に小さな文字がある。僕の字だ。無意識の癖まで、見覚えがある。

『輪郭が残るなら、まだ触れる。ゼロではない。』

声に出して読むと、紙の香が濃くなる。ミナトは微かに笑って、銀糸の栞を差し出した。触れると体温に応えてかすかに温かい。

「全部を知ってしまえば、その道しか歩けない。栞は、閉じるためのものでもある」

「本当に、自由があるのかな」

「知らない余白が、自由の形だとしたら?」

ミナトは炎の芯を爪で少し持ち上げ、灯りを絞った。影が長くなり、紙面の滲みが闇に紛れる。僕は本を閉じ、表紙の革に指を置いた。革は冷たく、しかしすぐに指の温度を移した。

図書館を出ると、湿った空気に蝋の匂いが薄くまとわりついた。外の光は、さっきより青い。森の葉の裏に残る水滴が、落ちるたび低く弾ける。その音が、不思議と海の引き波に似ていた。

ナギサの海で空けた場所に、紙の重みが少しだけ入っていく。手放したものの輪郭と、書かれたものの輪郭が、胸の奥で重なり、形を確かめ合う。歩きながら、僕は栞を親指でなぞった。糸の編み目が、脈の打つ速さに合わせて微かに震える。

道の先で風が変わり、遠いところから舞台の照明に似た白い光が、森の天井を薄く照らした。足を止めると、砂の冷たさと紙の温度が、同じ場所に並んで立つ。僕は息を長く吐き、余白のほうを選ぶみたいに、まだ見えないほうへ踏み出した。

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