連載ファンタジー小説『スピの森』⑨
第9章 目醒めは、いつも独りで訪れる(アマナ)
東の空がまだ白む前、森の奥に敷かれた石段は夜露を吸って黒く光っていた。足裏にその冷たさが染み込み、息を吐くたび、白い煙が浮かんでは溶ける。杉の樹皮の渋い匂いと、湿った苔の匂いが、胸の奥をじんわりと満たす。
その先の頂に、小柄な影が立っていた。背筋を真っすぐ伸ばし、杖を支えに空を仰ぐ老婆――アマナ。彼女の瞳には、まだ昇らぬ星が二つ宿っているようだった。
「……起きてしまったなら、もう眠れない」
振り返らずに放たれたその声は、霜を割るような冷たさと、焚き火のような温かさを同時に含んでいた。
石段を登り切ると、火の気のない小さな社が現れた。アマナは杖を地面に突き立て、乾いた木の音を響かせる。
「お前はまだ、“誰かに見届けてもらいたい”と思っている。だが目醒めは、独りでしか来ない。拍手も証明も、誰も連れてこない」
アリトの胸の奥で、硬く結びついた何かがぎしりと軋む。その音は自分にしか聞こえなかった。
アマナは歩み寄り、掌をアリトの胸に当てた。皺だらけの手は驚くほど熱い。
「世界を変える前に、自分の呼吸ひとつ変えられるか。胸じゃない、下腹で息を吸え」
深く吸い込むと、土の匂いと湿った空気が腹の底まで降りてくる。吐くとき、舌の奥に金属のような朝の味が残った。
「それが生きている味だ。そこに立て」
社の裏手は苔むした斜面で、登ると風が一気に強くなる。草が擦れ合い、細い音を立てる。
「人は“使命”という言葉に酔いやすい。酔えば孤独を見ないで済むからな」
アマナは自嘲するように笑う。
「孤独を見ない使命は空洞だ。お前に必要なのは、立派な言葉じゃなく、この朝の冷たさだ」
東の空が薄金色に変わり、最初の鳥が鳴いた。二声、三声と森が応える。
「見ろ。世界は毎朝勝手に生まれ直す。お前もそれを内側でやるんだ」
アリトは、言葉を持たない頷きをひとつ残した。胸の結び目が、風と音の中で静かにほどけていった。
アマナは振り返らず、石段の影に溶けるように去っていった。残ったのは杉の香りと、深く息を吸う自分の身体だけだった。
いいなと思ったら応援しよう!
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。皆さまの応援が、静月の物語を生み出す力です。いただいたチップは、すべて次の作品作りに大切に使わせていただきます。
