連載小説『不倫』②
第2章 踏み越えた夜
🟥 第1節 背もたれが触れた瞬間に
新幹線の窓際に彼女が座り、僕が通路側だった。
朝の光が車窓を流れ、時折まばゆく反射して、彼女の髪を柔らかく照らした。
車内は静かだった。出張に向かう人々の気配だけが、控えめに漂っている。
何気ない風景なのに、僕の心臓だけが妙に騒がしかった。
少しだけ、彼女が体を傾けた。背もたれが、僕の肩にかすかに触れた気がした。
それだけで、手に持っていた缶コーヒーの温度が、急にわからなくなった。
彼女は何も言わない。
ただ、目を閉じている。眠っているのか、それとも何かを考えているのか。
車内アナウンスが聞こえても、僕の耳には届かなかった。
目の前の景色は後ろに流れていくのに、
僕の心だけは、前へ前へと進んでいく気がしていた。
いけない方向へ、引き返せない場所へ。
窓の外、青く晴れた空に、小さな雲が浮かんでいた。
その雲が、何かのサインのように見えて――僕は、そっと目を伏せた。
🟥 第2節 チェックインの合図
出張先のホテルは、駅から徒歩5分ほどのビジネスホテルだった。
まだ日が沈む前、空はグレーとオレンジの境界線をつくっていた。
チェックインカウンターで、ふたり並んで受付を済ませる。
僕は705号室、彼女は706号室――隣同士だった。
「荷物、少ないね」
彼女が笑った。なんでもない会話だったのに、声が震えそうになるのを隠した。
エレベーターの中、無言のままボタンが点灯するのを見つめていた。
彼女の指先が、ボタンの「7」を押したとき、なぜか胸が締めつけられた。
廊下を歩く。
彼女が先に部屋のドアを開ける。その一連の動作が、やけにスローモーションに感じられた。
「じゃあ、またあとで」
ドアの向こうに消える彼女の背中。
その後ろ姿を、僕はしばらく見つめていた。
カードキーを取り出す手が、少しだけ震えていた。
🟥 第3節 触れたのは、罪だった
夜になって、予定通りの食事を済ませた。
居酒屋の個室、料理の味はほとんど覚えていない。
彼女の笑顔と、グラスの縁をなぞる指先だけが、妙にくっきりと焼きついている。
飲みすぎないように気をつけていたつもりが、気づけばもう22時を回っていた。
ホテルに戻るエレベーター。
彼女が黙ったまま、僕の隣に立っていた。無言なのに、空気が高く鳴っているような感覚。
心臓がうるさくて、呼吸が浅くなった。
部屋の前に立ち、ふたりして無言でカードキーを取り出す。
彼女の手が止まった。僕も、止まった。
「……少しだけ、話さない?」
小さく、でも確かに、彼女が言った。
僕は頷くしかなかった。断れる状況じゃなかった。
いや、本当は、断りたくなかった。
706号室に入ると、カーテンが半分開いていて、夜の街の明かりが部屋の中に差し込んでいた。
淡い照明。乾いたエアコンの音。無言のまま、ふたり並んでベッドの端に腰かけた。
そして――彼女の指先が、僕のシャツの袖に触れた。
その瞬間、言葉がすべて消えた。
触れたのは、指先なんかじゃない。心だった。
そして僕たちは、確かに“踏み越えた”。
🟥 第4節 朝になっても夢のまま
翌朝、カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。
白い天井。無音の空調。ホテル特有の乾いた空気。
彼女は先に起きていた。
ベッドの端に腰かけて、スマホを見ている。
画面の光が頬に反射し、どこか別の世界に戻りかけているようだった。
「……おはよう」
ぎこちなく、でも自然に挨拶を交わす。
昨夜の出来事は、現実だったのか、それとも夢だったのか。
僕の心は、まだその狭間にいた。
朝食バイキング。
目玉焼きとサラダをトレイに乗せ、彼女と並んで席についた。
普通の会話をしていた。
天気、会議の内容、資料の確認。
でも、フォークを持つ手が震えそうになるのを、何度も押さえた。
彼女の指先には、昨夜僕のシャツを掴んでいた感触が、まだ残っているような気がしていた。
🟥 第5節 帰り道の沈黙
新幹線の中、僕たちはまた隣同士の席に座っていた。
車窓の外、冬の空はどこか遠く、まばらに並ぶ電柱がやけにまっすぐだった。
走る車両の振動が、僕の罪悪感を小刻みに揺さぶっていた。
「疲れたね」と彼女が言う。
僕はただ頷く。
そのひとことに、昨夜のことを含んでいるのか、それとも含んでいないのか。
確かめる勇気はなかった。
彼女はイヤホンを耳に差し、目を閉じた。
表情は穏やかで、美しかった。
だけど、僕にはわかっていた。
もう元には戻れない。
少なくとも、僕の心のなかでは、明らかに何かが変わってしまっていた。
手のひらに残る、柔らかな感触。
それが、どこかで冷たくなっていくのが、怖かった。
窓に映った自分の顔は、少しだけ疲れて見えた。
🟥 第6節 ただいまが遠い
玄関のドアを開けた瞬間、日常が待っていた。
元妻がキッチンに立ち、子どもがリビングでテレビを見ていた。
「おかえり」と声が飛んでくる。
僕は、とっさに笑顔を作って「ただいま」と返した。
鞄を下ろし、靴を脱ぎながら、背中がざわついていた。
ただの仕事の出張だった。誰にも怪しまれていない。
けれど、心だけが、取り返しのつかない場所に置き去りにされたままだった。
夕食は、唐揚げだった。
子どもが嬉しそうに箸を伸ばし、元妻が「ちょっと揚げすぎたかな」と笑う。
その光景が、痛かった。
僕は、箸を動かしながら思っていた。
――罪って、こうやって始まるんだな。
言葉にならないものが、胸の奥でゆっくりと広がっていた。
🟥 第7節 帰り道の記憶がない
その夜、布団に入っても眠れなかった。
唐揚げの匂いがまだ鼻の奥に残っている。
家族の笑い声が耳に残っている。
でも、心はまったく違う場所にいた。
何かを取り返そうとするように、スマホを握っていた。
メッセージはなかった。
だけど、それが安心だったのか、不安だったのか、もうわからない。
出張から数日が過ぎても、世界は何事もなかったように動いていた。
朝、会社に行き、メールを処理し、会議をこなす。
そして、隣の席で彼女と同じ空気を吸う。
彼女は、すぐ隣に座っている。
いつもの白いブラウス。キーボードを叩く音。
会話は最小限。
周囲の目を意識しすぎて、逆に不自然なほど距離を保っていた。
見れば、彼女が元気そうかどうかなんて、すぐわかる。
でも、それでも僕は――文字で聞きたかった。
「元気?」
デスクの下、こっそりスマホを開いた。
すぐに返ってきた、短い返事。
「会いたい」
その瞬間、僕は深く息をついた。
また、始まるのだと思った。
今度こそ、もう戻れない。
🟥 第8節 優しさの仮面
再会から数ヶ月後、あの日の出張は“始まり”に過ぎなかった。
仕事帰り、彼女の家の近くのホテルで会うようになった。
気配を殺し、時間を調整し、誰にも知られないように会っていた。
でも、世界は僕らほど鈍くなかった。
ある日、家に帰ると、元妻の様子が違った。
「……ねぇ、何か隠してない?」
キッチンに立ちながら、背中越しにそう言われた。
僕は「いや、何も」と答えた。
でも、声が少しだけ震えていた気がする。
「ほんとに?」
その言葉が、やけに静かで、逆に怖かった。
夜、子どもが寝たあと、元妻がテーブル越しに僕を見た。
目の奥に、まだ怒りはなかった。
でも――冷たさがあった。
「……何があっても、子どもを悲しませないでね」
その言葉に、返す言葉がなかった。
罪はまだ“発覚”していなかった。
でも、“気配”が確実に広がり始めていた。
🟥 第9節 男の正義
その数日後、一本の電話が鳴った。
彼女の母親が、僕の元妻に連絡したのだと、あとで知った。
「話がある。ひとりで来てくれ」
指定されたのは、駅前の繁華街。
人通りの多い金曜の夜。
嫌な予感しかしなかった。
彼は、彼女の婚約者だった。
背が高く、痩せていて、目つきが鋭かった。
「お前が、あの子を壊した」
そう言って、胸ぐらをつかまれた。
シャツが引きちぎれそうな勢いだった。
「殴っていいよ」
僕は、まっすぐ彼の目を見て言った。
「それで気が済むなら、思いっきりやってくれ」
そのとき、彼は唸るような声をあげ、拳を震わせながら言葉を飲み込んだ。
「……なんで、そんな目をしてんだよ……」
僕は黙った。
拳は振り下ろされなかった。
でも、彼の目は涙ぐんでいた。
🟥 第10節 止められなかった
すべてが終わった――はずだった。
元妻も、彼女の母親も、婚約者も、すべてが僕らを引き裂こうとした。
それでも僕らは、こっそり連絡を取り、また会ってしまった。
「……それでも、あなたに会いたい」
彼女がそう言った夜、僕は答えた。
「俺もだ。どうなってもいいって思ってしまうんだ」
それは、決してロマンチックな言葉じゃなかった。
罪と、孤独と、渇望の中でしか育たない感情だった。
駅の改札口、人の流れの中で、ふたりはそっと手を繋いだ。
まるで、世界中のノイズから逃れるために。
自分たちの罪を、手のひらで握りしめるように。
音のない叫びが、心の中でこだましていた。
もう戻れない。
でも、それでも――
止められなかった。
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