読書、言語化するための小説思考
こんばんは。クロードに「空からビラが降ってくる物語」と言ったらすげぇもん拵えてきました。ええじゃないかええじゃないか。
最近、「言語化するための小説思考(著:小川哲)」を読みました(誤読あり)。
以下は、私の「誤読」を多分に含みます。他の方のこの本に関するnoteと読み比べると面白いです。
小説の執筆に関する書籍に分類されるとおもいますが、技術的な話ではなく、著者曰く「言葉を生み出す過程で働いている思考の動きを言葉にする」という試みだそうです。
実際、私が読んでみて、「文章を書くってこれをすることだ」が書かれていると読み取りました。
読み取りましたと書いたのは、作者が何を発信したかよりも、読者が何を受信したかが重要と私が考えているからです。
この本にも、
小説は「作者が何を表現したか」ではなく「読者が何を受け取ったか」によって価値が決まる。
と書いてあり、そうだ!そうだ!と思いました。これは絵や小説みたいな表現に限らず、日常会話などのコミュニケーション全般に言えますね。noteなんかモロです。モロ。
また、小説やnoteなど文章の特徴として、リニアな表現であることが挙げられています。
日常では、視覚、聴覚、嗅覚などの五感、それに加えて、考えたことや過去の思い出など、それらすべての情報は一度にやってくる。しかし、文章で書くときは順番に書かなければならない。そして、その順番が超重要。
映画なんかは視覚と聴覚を同時に表現出来ますが、文章では順番に一つずつ書くしかありません。そして、その情報を出す順番によって、読み手の受け取る印象が変わります。
次に、
読みやすくするとは、視点人物と読者の情報量の差を最小化すること。
なるほどと思いました。報告書やプレゼンなんかでも、資料の情報と受け手が受け取る情報には乖離がないほど望ましいです。理解しやすい。結論が最後まで出てこないミステリ形式のプレゼンは悪です。
小説やnoteはそこに誤読の余地があることが楽しいですが、プレゼンでは聞いた人がみな同じ解釈をすることが必要です。
正確に情報を届けるために、
コミュニケーションがうまくいくためには、語り手が聞き手に対して適切に情報を与えなければならない。さらに、適切な情報は端的であるほど良い。
「過不足なく」かつ「端的に」説明することが重要です。
「過不足なく」はムツカシイ。なぜなら、
相手が何を知っているかによって、どこまで説明すべきかが変わる。背水の陣というときに、相手も背水の陣という言葉を知っていなければ伝わらない。
相手によって、何が不足で何が過剰なのか分からないから。冒頭のええじゃないかも歴史を知らなきゃなんのこっちゃです。それでもええじゃないか。
ということで、非常に良い本と出会えました。ちなみにこの本にはプレゼンや報告書のことは一切、全く、書かれておりません。私が「誤読」しました。
おしまい
