占い師の射程の限界について
# 蔵人頭シリーズ 射程外の相談者
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## 第一話 占い師個人の解釈の幅
圖書寮書記「蔵人頭様。以前より気になっておりました。もし異国の学者バルトが占いの座に着いたら。無著、世親のような唯識の学匠が座ったら。自決の直前の三島由紀夫が座ったら。獄中で客死した劉暁波が座ったら。詩人ランボーが座ったら。異国の放浪の詩人ケルアックが、戯れ半分に座ったら。あるいはケルアックが書物に描いた朋友、ディーン・モリアーティのように、ケルアック本人よりなお破天荒な者が座ったら。占い師はいったい何を読めるのでございましょう」
※以下、本話に登場する者たちの素性。
・バルト(ロラン・バルト):二十世紀フランスの批評家。あらゆる物事は言葉や図像による記号の体系であり、世に「当たり前」とされていることの多くは、実は歴史的に作られた「神話」にすぎないと説いた。
・無著(むぢゃく)・世親(せしん):古代インドの兄弟の学僧。唯識という仏教の一派を大成した。唯識とは、我々が「確かにある」と感じているこの世界のあり方は、実は心の働きが作り出した表象にすぎない、とする教えである。
・三島由紀夫:昭和の作家。晩年は思想と美学を先鋭化させ、最後は自ら命を絶つ形で生涯を閉じた。
・劉暁波(りゅうぎょうは):中国の民主化運動家。当局に長く拘束され、獄中でノーベル平和賞を受けたが、釈放されぬまま獄中で世を去った。
・ランボー(アルチュール・ランボー):十九世紀フランスの詩人。十代で詩作の頂点を極めた後、詩を捨てて放浪した。「我とは他者なり」の一句で知られる。
・ケルアック(ジャック・ケルアック):二十世紀アメリカの作家。定住を厭い放浪しながら書くという生き方そのものを作品にした「ビート世代」の中心人物。禅や易に、半ば戯れとして親しんだ逸話が知られる。
・ディーン・モリアーティ:ケルアックの代表作『オン・ザ・ロード』に登場する、放浪の旅を共にする友人。実在の人物ニール・キャサディがその原型とされる。行き先も予定も定めず、その場その場の衝動のまま車を走らせ、女も職も次々に替える生き方で描かれる。ケルアック自身が既に規範から外れた放浪者だが、作中このモリアーティはさらにその先を行く、制御そのものを持たぬ者として描かれている。
蔵人頭「良い問いです。ただし、これは体系そのものの欠陥を暴く話ではありません。以前語った守護霊批判のような、内側の理屈で内側を崩す仕方――あれとは少し違う筋で考えたい」
圖書寮「と申しますと」
蔵人頭「卦にせよ星にせよ、記号そのものはかなり抽象度が高い。屯は困難の始まり、剥は削られゆく兆し――これらは理屈の上では、どのような相手にも当てはめようと思えば当てはめられなくはない。問題は記号ではなく、それを相手の生き方に翻訳する、占い師個人の解釈の力量です」
圖書寮「解釈の力量、とは」
蔵人頭「バルトを占うには、占いという営みそのものが記号の体系であり神話であるという地点から、なお何かを語れるだけの深みが要る。占い師が『これは吉です』と告げても、バルトはその言葉自体を、社会が作り上げた物語の一片として、一歩引いて見てしまう者だからです」
※免責:ここでの人物名は、いずれも実際にその者を占ったという史実ではなく、思考実験としての例示である。
蔵人頭「無著や世親を占うには、吉凶の判断そのものが妄分別(もうふんべつ)の産物だという唯識の理屈を呑み込んだ上で、なおその者に届く言葉を紡がねばならない」
※妄分別:物事をあれこれ区別して善し悪しを決めつける、心の癖そのものを指す仏教語。唯識の考えでは、占いの「吉」「凶」という区別自体、この妄分別の働きが作り出した仮のものにすぎない。
蔵人頭「三島の前では、危険を示す卦がその者にとってはむしろ本懐でありうると見切らねばならない。劉暁波の前では、己一代の吉凶ではなく数世代先の地平で物を測る者だと見抜かねばならない」
蔵人頭「ランボーの前では、『我とは他者なり』と言い切り持続する己を持たぬ者に、持続する己を前提にした助言がそもそも成り立たぬと悟らねばならない」
※「我とは他者なり」:ランボーが手紙に残した言葉。自分という一人の人間の内側にも、自分ではない何か・他人のようなものが働いている、という感覚を言い表したもの。占いは「今日読んだ兆しを、後日同じ自分が思い出して行動に生かす」という、一貫した一人の自分を前提にしているが、この言葉はその前提そのものを揺さぶる。
蔵人頭「ケルアックの前では、本気か戯れかも定かならぬ構えのまま座る者に、構えの定まった相手用の言葉遣いをしても届かぬと知らねばならない」
圖書寮「では、そのモリアーティのような者はいかがでしょう。ケルアックよりなお奔放と申されましたが」
蔵人頭「ケルアックは、放浪しながらもなお、それを言葉に留め、後で振り返って意味を与える者です。だからこそ本気か戯れかという構えの話が成り立つ。しかしモリアーティは、その場その場の衝動が行動そのものになる者として描かれています。占いは兆しを示し、相手がそれを踏まえて思案し、行動を選ぶという段取りを前提にしていますが、思案という一段そのものがほとんど働かぬ相手には、兆しを示したところで、行動に反映される保証がどこにもない。ケルアックの場合は構えが揺れ動くのが問題でしたが、モリアーティの場合は、構えという概念自体がほとんど成り立たない。同じ『破天荒』でも、質が一段違います」
圖書寮「では、ただ読めぬだけで済むのでしょうか」
蔵人頭「いえ、それだけでは済みますまい。占い師の常套句を思い出してください。『今は動くべきではありません』『足元を固めなさい』『安定を求めなさい』――この手の忠告こそ、彼らの生き方が最も嘲るものです。ケルアックやモリアーティにとって、道の途中で足を止め計算高く構える態度は、生を萎縮させる臆病にほかならない。彼らの物語そのものが、そうした慎重さを説く者を、退屈な小心者として笑い飛ばす調子で書かれている。占い師が彼らを前にして、いつもの調子で『慎重に』と説けば、読み違えるどころか、彼らの目にはその説教自体が愚弄の対象として映るでしょう。占う側が愚弄される、という逆転がここには潜んでいます」
圖書寮「並の占い師には、到底及びますまい」
蔵人頭「その通りです。ごくありふれた世間並みの世界観の中で生き、ごくありふれた相談を捌くことに慣れた占い師は、たとえ記号そのものは万人に開かれていようと、その記号を翻訳する己の器がそこまで届かない。すると何が起きるか。当たらぬだけならまだしも、助言そのものが的外れになる。三島に『慎みなさい、危険です』と説くのは、忠告ではなく、その者の生き方の否定になりかねない。これは体系の限界ではなく、占い師個人の解釈の幅と深みの限界です」
圖書寮「……しかし蔵人頭様、これらはみな並外れた才と信念を持った者ばかりではございませんか。ごくありふれた、隣に住むような人間には、無縁の話に思えまする」
蔵人頭「その疑いこそ、次に崩さねばならぬものです。バルトやランボーは、規格外の者として名指しやすいぶん、むしろ安全な話に見える。占い師も『あの手の相手は特別だから』と初めから匙を投げていれば、己の器の狭さに気づかずに済む。厄介なのは、同じ狭さが、何の変哲もない顔をして座る隣人にも及んでいる場合です。それは追って語りましょう」
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## 第二話 蓄積は誰をも覆ってきたか
圖書寮「蔵人頭様。先だっての『隣人にも及ぶ』というお話、あれから考えておりました。まことに、そのような者がおりましょうか」
蔵人頭「おりますとも。片田舎の勤め人の顔をしていながら、腹の底ではバルトやデリダの読み解いた地平まで、独学で踏み込んでいる者がいる。子を生すこと自体を、生まれてくる者に苦しみを強いる行いとして退ける、反出生主義の理屈を独りで組み上げている者がいる。誰にも告げず、一切の縁を断って世を捨てようと、静かに支度を進めている者もいる」
※デリダ(ジャック・デリダ):バルトと同じ頃のフランスの思想家。言葉や概念は、それ自体で意味が定まるのではなく、他の何かとの違いによってかろうじて成り立つと説き、確固たる土台があるという思い込みを揺さぶる「脱構築」という手法で知られる。
※反出生主義:この世に子を生み出すこと自体を、生まれてくる者に苦しみを強いる行いとして否定的に捉える思想の立場。
圖書寮「口にせぬのなら、占い師には見えぬのでは」
蔵人頭「その通りです。だからこそ厄介なのです。バルトや三島であれば、名を聞いた瞬間に身構えられる。しかし隣人は、何気ない顔で『恋の行方を占ってほしい』などと口にするだけです。占い師はその言葉通りに世間並みの答えを返すが、実のところその者の胸の内では、恋愛という営みそのものへの根本的な懐疑が進んでいるかもしれない。子を生すことへの深い留保を抱えているかもしれない。あるいは、この世との縁そのものを静かに断とうとしているかもしれない。占い師は、相手が並外れているという兆しすら受け取れぬまま、見当違いの助言を重ねることになる」
圖書寮「では、歴史を振り返ってみれば……思えば中国の長い歴史の中には、仏僧も道士も、異民族の商人も、数え切れぬほど多様な者が行き交っておりました。占いの蓄積は、すでにそうした多様さを踏まえてきたのではございませんか」
蔵人頭「良いところを突きました。ここで分けねばならぬのは、人として変わらぬ部分と、まるきり変わってしまった部分です。生まれ、老い、病み、死ぬこと、愛し、憎み、恐れること――これらは千年経とうと大差ない。占いの蓄積が的中してきたのは、主にこの変わらぬ部分に支えられてのことです」
圖書寮「では変わった部分とは」
蔵人頭「たとえば、かつては主君のために殉死(じゅんし)することが最高の忠義とされた時代がありました。今日、そのような死に方を美徳とする者はまずおりますまい」
※殉死:主君が亡くなった際、家臣が後を追って自ら命を絶つこと。かつては忠義の極致として讃えられた風習だが、今日ではまず行われない。
蔵人頭「代わって今日の世には、多様な生き方を認めようとする気風、国境を越えて物事を測ろうとする気風、この星の行く末を案じる気風――かつての蓄積のどこにも存在しなかった、まったく新しい価値の軸が立っています。仏僧や道士が行き交った時代の多様さは、既存の価値の軸の中での多様さでした。しかし軸そのものが新しく立つとき、いくら過去の蓄積が厚かろうと、それを測る物差しは持ち合わせていない」
圖書寮「軸そのものが違う、と」
蔵人頭「たとえて言えば、心の学問の話に近い。かつてフロイトという学者は、人の心の動きのほとんどを、性や攻撃にまつわる一つの根の欲動で説明しようとしました。今日の心の学問では、この考えは単純に過ぎるとして、多くが退けられております。それでもなお、この古い単純な学説だけを後生大事に使い続ける者がいたとしたら、どう思われますか。あるいは、遥か昔に採った統計を、今日の世相を測る物差しとしてそのまま使う者がいたら」
※フロイトの欲動論:精神分析の祖フロイトが唱えた、人の心の動きの多くを性的な欲動に帰す学説。二十世紀前半は広く支持されたが、今日の心理学では、単純化されすぎた説として学問的にはおおむね過去のものとされている。
圖書寮「それは、いかにも心許のうございます」
蔵人頭「命術や易の蓄積も、これと変わりません。古い農耕社会、身分の固定された世で積まれた相関を、そのまま今日の相談者に当てはめようとする。しかもその古さの上に、先ほど語った占い師個人の解釈の幅の狭さが重なる。この二重の隔たりを持って、Z世代の相談者や、同性を愛する者、誰にも恋愛感情を持たぬ者、性別の枠に己を当てはめぬ者を前にしたとき、はたして何が起きるでしょうか」
圖書寮「読めぬどころか、見当違いの助言をしてしまう、と」
蔵人頭「たとえば四柱推命という命術には、夫星(ふせい)や官殺(かんさつ)という星があり、これが伝統的にはその人にとっての配偶者を表すとされます。しかしこの配当は、そもそも男女が結ばれ家を成すという、異性婚を前提にした割り振りです」
※夫星・官殺:四柱推命で、女性から見た夫や、社会的立場を表すとされる星の名。この命術の星回りの多くは、もとより異性同士の結婚と、男女で異なる役割を担う家庭を前提に組み立てられている。
蔵人頭「これは体系の欠陥として以前語った通り。しかしその上、占い師個人が世間並みの結婚観、世間並みの家族観しか知らずに生きてきたとすれば、たとえ体系を無理やり読み替えたところで、その解釈に血が通わない。Z世代の相談者が皆婚規範を持たぬ世で育ったことも、性の多様な在り方も、机上の知識としてなぞるだけで、実感を伴った助言にはならない。占い師が『理解のあるふりをして当てはめる』とき、これは往々にして、古い価値の軸に新しい言葉の衣を着せているだけの代物です」
圖書寮「体系の古さと、占い師個人の狭さ、両方が塞いでいるのですね」
蔵人頭「その通りです。だからこそ、この一連の話は占いという営みへの単純な否定ではありません。変わらぬ部分において、占いはなお何事かを言い当てるでしょう。しかし変わった部分――新しく立った価値の軸、新しく生まれた生き方――において、蓄積は物差しを持たず、占い師個人もまた、それを補うだけの解釈の幅を、多くの場合持ち合わせていない。この二重の限界を弁えぬまま託宣を下すことこそ、最も警戒すべき態度だと、私は思います」
圖書寮「肝に銘じまする」
