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芥川賞「DTOPIA」とトガヒミコ


芥川賞受賞作のDTOPIA(安堂ホセ)を読んだ。これは俺達のトガちゃんの物語だ。


どんな小説?

DTOPIAはなかなかどういう物語、というと難しい作品で。

恋愛リアリティショー「DTOPIA」新シリーズの舞台はボラ・ボラ島。ミスユニバースを巡ってMr.LA、Mr.ロンドン等十人の男たちが争う──時代を象徴する圧倒的傑作、誕生!

恋愛リアリティーショーが舞台。序盤はミス・ユニバースの「ここには黒人がいない」という発言から物語が展開していく。「トトロの見過ぎで(日本人は)ケモナーなった」とか。なかなかのパンチラインが飛び交う。恋愛ショーの中で男女、性的マイノリティ、人種といった「違い」でストーリーが紡がれるのかな。そう思ったが、違った。主人公であり参加者のモモはその中でキースという男性にであう。彼は幼少期をともに過ごした汽水という少年だった。久々の再開。汽水との過去から物語は恋愛リアリティショーの枠を超えた新たな方向へと急展開する。

正直、最初は説教臭い感じだなと。芥川賞っぽいなって。
ただ途中から、汽水との過去からそんな説教くささはなくなって。文章も読みやすいし、なにより作者の安堂ホセがあくまでエンタメとして書いたと発言しているように、啓発啓発しすぎていない。

作者の安堂ホセ

安堂ホセ自身が肌の色など、いわゆるマイノリティであることから(もちろん、こういった書き方自体が差別であるという指摘はありえるし、そう思う。甘んじて受け入れたいが今回は話を進めるためあえてこの表現を使わせていただく)作品のメッセージ性と彼自身の出自を結びつけられてしまうし、私自身も無意識でそう読んでいたのだろう。しかし、彼のインタビューを見る限りは説教するつもりはなくて、「面白い小説を書こう」という純粋な思いから生まれた作品だ。

「当たり前の世界」への驚き

だからこそ、彼から見た世界はこう映るんだ、というある種の驚きと自分の思慮の浅さを痛感する。私は中年の男性であり、異性愛者だ。マジョリティからマイノリティに向ける視線は「こうであろう」「こうであってほしい」というバイアスがかかる。問題意識の提示、説明、怒りと悲しみ。
もちろん、作中に問題意識や怒り・悲しみもあるのだが、むしろ「とはいえ今の世の中ってこうだよね」という現実として描かれている。マイノリティだけに見える「当たり前の世界」。

ここまでは序章であり、ここからが本題。

私は本書は「加害性」の話だと思う。

トガヒミコ

僕のヒーローアカデミアという漫画をご存知だろうか。知らなければ今すぐにKindleでも紀伊国屋でもいいので、ダッシュで買って読んだほうがいい。明日は学校を休んでもいいし、有給を使おう。
私はヒロアカを少年漫画の最高到達点だと思っている。絵もストーリーもキャラクターも。全てが完璧に近い。

トガヒミコというキャラクターがいる。

ヒロアカはヒーローと敵(ヴィラン)に分かれて戦う漫画。ほぼすべての人間が個性という名の特殊能力を持っている。個性を使って悪事をするものをヴィラン、取り締まるものがヒーローだ。ヴィランの親玉は紛れもない悪なんだけど、トガを含めた部下というか仲間は社会に馴染めず、弾かれたものたちだった。落ちこぼれ、異形により虐待されたもの、、、ヒーローとヴィランの線引は非常にあいまいだ。
トガは先述したように非常に人気があるキャラだ。トガは生まれつき人の血を見ることが好き。好きな相手の血を見たい。当然、クラスメイトからは嫌われ、親からは絶望の目を向けられる。しかし、彼女は血を見ることがやめられない。

性的マイノリティ、LGBTQをこういった人間と並列に並べることに抵抗を覚える方もいるだろうが、私が言いたいのはそこではない。

加害性

トガは自身が持つ「他者への加害性」に悩み絶望した。

加害性は「DTOPIA」の一つのテーマであるように思う。
ネタバレになるので、あまり多くは語らないが、

  • 「主人公の自身に対しての加害」

  • 「汽水の他社への加害」

  • 「フランス政府の核実験による加害」
    など、DTOPIAにはたくさんの加害がある。

重要なことはこの中の多くの加害が加害者と被害者で明確な罪が定義されていないという点だ。フランス政府の例はさておき、汽水というキャラの加害性は加害者も被害者も同意のもとで行われている。

「十三歳までに人を殺しておくべき、自分はもう十四だから」

作中の言葉。本作でも非常に大事な言葉である。これより先に進める前に、この言葉を覚えておいてほしい。


「親の監督責任」という加害


昨今、夫婦別姓の議論がなされている。是非はいったん無視して、「子どもに性を強制するのか」「子どもに性を選ばせるのか」という指摘がある。

子どもに性を強制すること、選択させることは残酷なことなのだろうか。

残酷だったとしよう。であれば、

  • 住居を強制することは残酷ではないのだろうか。

  • ジャンクなものを食べたいのに三食バランスよく食べさせることは残酷ではないのだろうか。

  • 小学生に無理やり中学受験をさせるのは残酷ではないのだろうか。

親は子どもに対してどこまで残酷になっても許されるのだろうか。

一方で、子どものやりたいようにやらせることは残酷ではないのだろうか。
勉強も運動もしない。
今はいいけど、将来困ることになる。
そんな未来を想定せず、強制しないことは残酷ではないのだろうか。

結論、私は親は子どもに対して「残酷」にならざるおえず、加害性をもたざるおえないと考えている。というより人は人に対して加害性を持たないと生きていけない。加害の害が相手への害なのか法的な意味での害なのかという問題もあるが、総じて害は人間の営みにおいて生まれてしまうものだ。
満員電車で足を踏んでしまう、肩がぶつかる、野球部員にノックをする、4月25日に出席番号25番を指名して答えさせる。
少なからず加害である。

加害性のない人間なんていないし、いるとしたら山の中でたった一人で暮らしているとかだろう。

余談だけど、最近、都会生活に疲れたっていって山の中に子連れで引っ越した家族のドキュメント見たな。私が子どもだったら耐えられないわ。ふざけんなジジイって。もちろんいい面もあるだろうけど、情報へのアクセスとかいろんな人との出会いとか絶対に制限されるからね。加害であり虐待とも言えると思う。

「十三歳までに人を殺しておくべき、自分はもう十四だから」
つまり加害とは社会性である。加害の究極は殺人である。社会性13歳までに加害性の加減を学ぶ。ぶっ飛んだ話だが加害性を社会性に置き換えると少し腹落ちする。

物語の最後、成長した主人公が「満たされて、世界の一員でいる自分にも慣れてしまった」という表現がある。大人になった、ということなのだろう。

最後まで折り合いのつかなかったトガヒミコ

ヒロアカはジャンプだし、そこまで重く描いてないが、トガは最後まで自身の加害性に折り合いがつかなかった。トガの最後は確かに感動的だったし、救いではあったが、決して彼女自身の加害性が解決されたわけではなかった。生きづらい世の中が生きやすい世の中になったわけではなかった。

※普通の少年マンガは彼女が笑顔で前を向いて、矯正されて生きていくのだろうが、その選択を取らなかったヒロアカは流石だなと。

DTOPIAもヒロアカのトガも自身が生まれ持った加害性を描いていたように思う。私の勝手な解釈だけど。
芥川賞とジャンプがこんなことで結びつくなんて思わなんだ。

いや、というより、私自身が個人の問題として親が子どもに対する加害に対して悩んでいたから、結びつけているのかも。
もちろん暴力とかはふるってないしいわゆる虐待はしてないけど。

この話に結論はない。子どもに野球やらせり、中学受験させたりしてる。新入社員を怒ることもある。それが悪なのかどうかは分からない。

自身の加害性に覚悟を持つ。それが大人になることだとは思ってるけど、それも正解じゃない気がする。

SNSで他社への加害がむき出しになっている。批判はもっともだが、「加害するな」ってのも違う気がする。害かどうかなんて本人たちも分からないんだし。皆さんはどう考えるだろうか。

と、まあ、色々考えるきっかけになった作品だった。とりあえず小説好きな人はDTOPIA読んでいいんじゃないかな。面白いよ。「加害性の物語」以外の視点でももちろん読めるし。
ヒロアカは必須。

最後に安堂ホセがなんかのインタビューで不快にさせるエンタメは快楽でもある的なこと言ってた。これもある意味で加害だなって思った。

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