大人が「1」で言ったつもりでも。
大人と子どもとの感覚は全然ちがう。
最近は、それを痛感するばかりだ。
子育てでも、学校教育でも、同じことを感じる。
彼らは、こちらが1くらいのレベルで言った何気ないひとことでも、100くらいの強さで言われたように感じたりする。
逆に、こちらが10くらいで言ったことが、0になったりすることも‥。
思えば、わたしもそうだった。
母が何気なくこぼしたひとことを鵜呑みにして、傷ついたり、選択を取り替えたり。
高校の部活をきめるときもそうだ。
母が中学までがんばっていた部活をやめるよう促してきたとき、それでもわたしが「続けたい」といえば、母は許してくれただろう。
でもわたしは、やめた。
母の言うとおりにした。
だって、母が好きだったから。
ひとりの子どもとして、親のことを大事に思っていたから。
母を楽にしてあげたかったから。
しかし結果として、その選択は、一生の心残りになるくらい、根強くわたしの中に巣食ってしまった。
今になって母に「あの時部活やめたくなかったんだよね」と吐露すると、母は「なんでやめたん?」という始末である。
そう、そんなもんなのだ。
母がたまたま言った「疲れた」も、母がたまたま機嫌が悪かった「ばか!」も、母が真剣に注意したアレもソレも、わたしの中にだけ、色濃く残り続けている。
母の中にはないのに‥。
子どもの中に、親の言葉は残るのだ。
いちいち言葉を選んじゃいられないのも、親になった今なら重々分かる。
わかっている。
ただ、こちらが伝えたい温度がそのまま相手に伝わっているわけじゃないという可能性を、忘れないようにしなくてはいけない。
子どもにとって、親や大人の言葉は、想像以上に大きいのだ。
忘れてはならない。
そして、そのことをじゅうぶんに身に染みているはずのわたし自身も、親として、息子たちに言葉をぶつける毎日である。
良くも悪くも、息子__特に長男は、こちらが1で言ったことを10000くらいに受け止めるタイプのようで、すでに性格を左右するくらいに言葉で追い詰めてしまっているのでは‥と後悔している。
しかし、言わねばならなかった。
全部じゃなかったかもしれないけど、言わなきゃいけなかったことは、確かにあるのだ。
そしてこれからも。
だから、なるべく正確にていねいに伝えたい。
こちらの温度が、まっすぐ息子に届くように。
熱すぎて、火傷を残してしまわないように。
