働き方改革という空気感
働き方改革に逆行することを公言する派としては、今の教員の働き方改革、主にマスコミで主張されることのどこら辺に問題があるかを提起することも非常に重要かと思います。というか何度か提起してきたことをまとめておきます。
名古屋の内田氏などは教育現場における働き方改革の専門家を自称しているが、まずこれがおかしな話である。
彼の使う数字のエビデンスと使い方に問題があるし、非常に恣意的運用をしている。さらにこうした問題には一律の了解事項というのがほぼない。学校単位でその運用に差異があるからである。それも細かな差異ではない。これに感覚的な違いが乗っかるわけである。彼もそれを抱えきれないことをわかっているから給特法にこだわっているのかも知れないが・・・今更給特法をいじってもこれまでのことは精算できないし、これから先のことも同様である。自己保身のために本質的価値には触ろうともしないということ。
まあ、それはさておき彼はこの働き方改革という空気感を学校が持つ義務感の空気への対抗基軸に持っていこうとしている。つまり「子どものため」とか「保護者に対しての説明が」とか「地域への配慮」とかいったことを投げ捨てるための使用法ということである。これ自体はさほど悪い戦略ではないとは思う。しかしここは慎重に発言していただきたいところ。というのも過労死した人間を悪くいうものではないだろうという前提においてもなお、その過労死という不確かな概念が教育もしくはこうした教育言説という話に抵抗できるほどのパブリックを兼ね備えているかということになるからである。もう少し簡単に言えば個人的事情を抱えている人間と公共的な教育システムの話を混同することは良くないであろうということである。
彼はこのあたりをごった混ぜにしている。見てくれを気にしていることが見た目でよくわかるので、教員を守るためのロジックより露出のための論理を優先していることは火を見るより明らかである。
なぜこうした人間をマスコミが重用するかもわかりきった話である。これでは誰もマスコミの主張自体を信用しない。YouTubeに勝てっこないことが分かりきってしまったので偏った報道で老害の視聴率を稼ごうというハラなのであろうがこれではより先行きが暗くなってしまう。
こうした空気感が持つ、空気感による外圧というのはどうしても本質とはすれ違うことになるのは自明である。問題は決まり事の話ではないからである。そこまでいうなら完全にフレックスタイムを採用すればいいだけの話である。しかしそれでもおそらく解決はしない。
一例を挙げれば、実は教育現場では労働時間の中に休憩時間は含まれていない。小学校では実質的に。昼食中も休憩時間ではないからである。では休憩時間を与えれば良いか?そう話は単純ではない。そうすれば実は労働時間の弾力的運用ができなくなってしまう恐れが強い。そうルールがかっちり決まってしまえば弾力的ができなくなってしまう。
今から60年ほど前の教育現場というのは弾力的が非常に強く働く場であった。良きにつけ悪しきにつけ。ある意味無茶苦茶であったといっても良いだろう。判断基準は犯罪かそうでないかでもなく、犯罪であったとしても教育的価値を見出せるならそれは許されていたでのある。体罰が容認され、しごきやかわいがりが日常的に行われ、あらゆるハラスメントが許容されていたわけである。それは子どもの側においても同様であり、非行や家出、校内暴力やいじめ、あらゆる形での行為が教育価値において容認されていた。
これは訂正された現在において、昔は良かったという話にはならないし、これに加担した人間を糾弾することにもならない。
これが教育の発展のための過程であり、「大きな物語」の一部だとすることは私の歴史観の中でさほど違和感のある話ではない。東京オリンピックの小山田氏の件も今回の新体操の件も同様である。他者を許さない人間は自分が赦されることがないことがわかっているのだろうか?今回の件もスポーツの勝ち負けに空気感を持ち込んだことによる弊害であることに日本人は気づくことが必要なのではないだろうか?
壮大に逸れたが、空気感による問題の解決というアプローチの仕方は健全ではないのではないか?それが教育というそれ自体が空気感のような存在であるなら尚のことである。
さりとてかっちり決めつけてしまうことにも問題を孕んでいるというややこしい存在であるという国民的合意が欲しいところである。教育リソースが乏しくなるということは社会的な損失のつながることは大学教員でも言えることだろうが、実は問題はそこではない。保育の質の議論においては私の経験則では確定的になったことであるが、おそらくこうした目に見えない空気感のような質の問題は利用者にとってさほど意味のある話ではない。というか意味のある話には感じられないといった方が正しい。
こうした空気感は全てが結果論の話であって、質の話は量的な充足の先にある机上の空論なのではないだろうかということである。
10数年前保育がコスト論にさらされ、低い質であれ充足さえさせれば良いということに対して、高い質を担保しておくべきだという意見の対立があったことがある。しかしこの議論は保育の質を高めることに貢献することはなかった。保育という商品は最低限の質さえ保証されていれば、利用者にとってはそれ以上の質は充足以上の意味を持たなかったのである。
おそらくこれを受け付けなかった日本の保育利用者は、そしてこの知見を金儲けに活かした養鶏場型の大型保育施設を選択した保育利用者は後年なんらかのペナルティを追う可能性があるのだが、気づいた時にはもう遅いし、その後の教育や人間関係の中で中和されたり転位したりすることがあるので実際のところは因果関係とまでは言えない話なのであろう。
何が言いたいかと言えば、制度設計の議論をする場合どの程度まで未来への気遣いを内包することが妥当かということを予見することはとても難しいことであるということである。
しかしそれでもなお、数年前から導入された今回の働き方改革というこの言葉の使い方が教育現場においても、マスコミにおいても良い影響を及ぼさないように使われ、より偏った消耗を生み出しているとしたらそれは訂正する方向を指し示しておくことが必要なのではないかということです。
別に他人にこの考えを押し付けるつもりはありません。
しかしこの何年かこの言葉を吐く人間に明確に仕事を押し付けられた事実からもやはりこの空気感は危険であると私は判断します。リチャードローティの件もありますし、先に言っておくことは必要なのかも知れません。
まずはこの空気感に対する現場からの異議申し立て。実は働き方改革についてはまだ何点か書いておきたいことがあるので、同じようなスタンスで何度かコスりたいと思います。今日はここまで。
