【家族のこと】父のこと① ミシン屋さん
昭和8年生まれの父は、太平洋戦争敗戦のとき、尋常小学校5年生でした。艦砲射撃で市役所近くの店舗兼住居は全焼していました。一緒に暮らしていた家族は無事で、2度目の召集で戦地に向かっていた次兄は帰りませんでした。翌年、尋常小学校を卒業した父は、地元の旧制中学に進学しました。尋常小学校のあと、高等小学校2年を終えた人たちと共に受ける受験は、大変に厳しかったと聞いています。一緒に入学した幼馴染たちとの絆は強く、生涯続くものでありました。
入学して間もまく、身体を壊した父は、休学したそうです。すぐに回復したものの、一家が必死で生活を立て直していた時期だったので、東京に仕入れに行くことになりました。
身体が小さかったので子ども料金で汽車に乗り、ミシン2台分のパーツを担いで帰り、組み立てて売る。父は機械いじりが得意だったのです。ミシンは飛ぶように売れたそうです。毎週東京へいき、1年で100台。
このままミシン屋になろうかな、なっても良いなと思っていた矢先、町中で同級生に出くわし、まだ出席簿に名前があって、お前呼ばれてるぞと言われ、驚いて復学。とっくに退学処分になっていると思い込んでいたそうです。いい加減なことに、留年もしなかったとか。
学校では、見知らぬ生徒に「帰りにうちに寄ってミシンの調整をして」と言伝があったりして。これで学費と小遣いを稼いだそうです。すでに顧客を百人持っていたわけです。
その頃父の家は、焼け跡からの復活で喘いでいましたが、小柄で身体の弱かった父には、教育が必要だとの考えだったようです。特に、祖母が女学校進学が叶わず、(女子師範学校まで進み教師になりたかったそうです)経済状況が許す限り、子どもたちを進学させました。大正、昭和初期に生まれた伯母2人は東京の専門学校や女子大学を卒業しています。父のすぐ上の兄は仙台の大学を出ています。
それでも、父が旧制中学に上がったころは、どん底で、修学旅行の費用はパチンコで稼いだとか。それでも、部活も勉強も謳歌したらしいです。テニス部、物理部、写真部の部長だったとか。テニスに関しては、謎です。(父の予算獲得の才能を見込まれたのだろうと推察)数学、物理が得意だったとか。写真は、製鐵所の独身寮(大学出の職員が集まっている寮)に入り浸って、手ほどきを受けたとか。何かと要領の良い男なのでした。
当時、旧制中学は5年生制でしたが、戦後の教育制度改革で、旧制中学と女学校が統合になりました。そのため、1年のブランクがあり、昭和十年生まれの母は、新制高校の最初の入学生になりました。
そんな移りゆく時代の狭間。旧制中学に入学した学生たちは、軍国主義の終焉で価値観が崩壊して、心が荒んだと言う人もいました。なくなる学校なんか燃やしてしまえといい、机や椅子をストーブに焚べていた先輩もいたそうです。予科練帰りの先輩たちの荒れようは凄まじかったと伯母が呟くのを聞いたことがあります。
新制高校になり、1年ブランクがあり、新入生を迎えた父たちの学年は、初めて下級生を持ち、フィーバーしていて、しかも、共学! とんでもなく、バンカラでエネルギッシュだったと、母は懐かしそうに笑っていました。母たちの世代になると高校生はスマートさを帯びるようになったようでもありました。
両親が学んだ高校に、私は受験票は出しましたが受験はしませんでした。大学進学を視野に入れた友人たち、後輩たち、弟も通いました。伝わってくる校風は破れた学生帽を被るバンカラの気風が残っていました。「伝統」と言われていることに、あ、それは俺が始めたと、父が言うこともありました。その内容は……恐ろしくてちょっと書けません……すみません。
