小説|朝日町の佳人 34
「どうして、私に聞くんです?」
「五年前のこの日、あの二人は駆け落ちの約束をしていました。でも、カナエさんは川島祐一に電話をかけて言ったんです、『今日は行けない』って。それきり、カナエさんの消息は途絶えています。誰も彼女を見ていないし、誰も彼女の声を聞いていない。川島さんが受けた電話の声が、彼女の最後の言葉なんです。でも、二人が約束をしていたのは朝です。彼女が電話をかけたのも朝です。夜じゃない。月なんかまだ見えていない。もしかして、川島祐一の話は本当なんですか?あなたは、この日、カナエさんを引き止めたんですか?」
氏は、答える代わりに酒を飲んだ。
「五年前の今日、カナエさんはこの家に来たんですね?」
肯定するでもなく否定するでもなく、氏はゆったりと首を動かした。
波に揺れるような動きで、夢を見ているような目をしていた。
僕はそれまでに想像していた恐ろしい考えを口にした。
「彼女は自殺したんですか。この家で、自殺して、だからあなたは、そんな風に怯えているんですか。彼女は何処です?亡くなったカナエさんを……何処に匿っているんです?」
氏は眠そうに、しばらくのあいだ目を閉じていた。
そして目を開け、僕を見て、冷たくて、優しい笑みを口元に浮かべる。
「あなたは、優しい人ですね。この家に香奈枝の死体を隠しているなら、私は確かに警察を呼ばないでしょう。間違って、発見でもされたら、事だ」
「それじゃあ」
「いいえ。あなたの想像は、いい線いっていますよ。ただ、優しいと言っているんです。ええ、私は、香奈枝を引き止めました。私ではなく川島を取る、理由の説明を求めました。せめて最後に、会って話をしたいと訴えました。そして将来二人で住む予定だったこの家に、彼女を呼びました。私は、ここで彼女を説得したかった。川島を諦めてほしかった。でも、彼女の意思は固かった。川島は、今一つ彼女を判っていなかったようだ。彼女は本気で川島に恋をしていたんです。私の説得なんか、少しも効かなかったんですよ。でも、私も香奈枝を好いていた。裏切られていたと判っても、諦めがつかなかった。香奈枝から泣いて詫びられても、それは私にも、効き目はなかった。結論は出ず、ただ時間だけが過ぎて行きました。日が沈むのが、異常に早い気がしました。そのうち、結局は、私が諦める他ないのかと、観念しました。けれど、香奈枝に対する未練は、私を醜い人間に変えたんです。私は香奈枝の同情を引いて、最後にもう一度、君を抱きたいと懇願したんです。拒否されると思っていた。でも、堪えきれなかった。今目の前にいる香奈枝を抱きしめたかった。触りたかった。そうしたら、何故か、香奈枝は応じてくれた。余程私が惨めで、哀れに見えたんでしょう。頷いて、私に身を任せた」
沢口一郎は、天井に目を向けた。
「この真上が寝室になっています。真ん中に大きなベッドがある。ここにある家具は全部、香奈枝と暮らすために新しく揃えたものです。当然、そのベッドも。だのに、最後の逢瀬の為に初めて使うことになるとは、皮肉だと思いませんか。言っておきますが、私は無理やり彼女を抱いたのじゃない。彼女はちゃんと受け入れてくれた。嫌がってなんかいなかった。これは本当です。私は今までにないほど、強い思いで彼女を抱いた。卑猥な事を言うようで申し訳ないが、それまで興味も持たなかったようなこともした。でも、彼女は嫌がらなかった。初めは、同情しているのだと思いました。そう思うと惨めでしたが、彼女の優しさに感謝さえしたんです。何より、あれほどの快楽を覚えたことは、それまでになかった。それは、彼女も同じだったと思います。そうかそうでないかくらい、判るでしょう?私も彼女も本当に感じ合っていた。二人とも素晴らしい快感の中にいた。でも、私は、だんだん、彼女を憎らしく思い始めた」
氏は酒を飲んだが、一口でそれは空になった。
空き瓶をテーブルの上に置いて、虚ろにテーブルの表面を見つめる。
「彼女は、川島祐一を愛しているのに、どうして私なんかと寝ているんだと、腹が立ってきたんです。こんなに満足そうに、他の男に抱かれるなんて、なんて女だろうと思った。私を裏切り、今度は川島まで裏切った。私は彼女の婚約者だったが、既にその資格は失っていた。その時の私は、香奈枝の情夫でしかなかった。卑しい情夫に、私はいつの間にか成り下がっていた。私は香奈枝を憎んだ。憎くて、憎くて、憎くて」
氏の頬に涙が落ちた。
火色にきらめく涙だった。
彼はそれを指で拭き、涙のついた指先を見て、それを摘まむように擦ると、クスッと笑った。
そして手を拳にすると、神経質な様子で口元に当てた。
「二階の窓から月が見えていたんです。彼女が自殺をしたのかどうかは、あの月がよく知っている」
「沢口さん」
「この家に泥棒が入ろうが警察が入ろうが構わない。強盗でも構わない。すみずみまで洗い浚い何処でも見て回ればいい。あるものは何でも盗めばいい。調べればいい。私が邪魔なら殺せばいい。ただ庭だけは、庭にだけは入って欲しくない」
「沢口さん、あなたは」
「ねえ、田中さん。帰ってください。私も随分落ち着きましたから、もう、あなたにいてもらわなくても大丈夫なようです」
拳に握った手は小刻みに震えていた。
口元にかすかな笑みが浮かんでいても、落ち着いてなどいない、怖れに震える笑みだ。
「しかし」
「田中さん。もしあなたが全てを知りたいのなら、庭を掘って御覧なさい。あなたなら文句は言いません。この正面の、生垣に近いところです。あの後スズランを植えました。スズランを、沢山。香奈枝は小さな花が好きだったから。彼女、華道部にいましてね。どちらかと言えば、大きくて派手なものより、山野草のような、小さくて可憐な花を好みました。ここにあるのは全部、香奈枝が好きだと言ったものばかりです」
僕はもう、何も言えなかった。
