小説|朝日町の佳人 37
駅の改札口を通る時に手を離して、それからずっと手は繋げなかったけれど、とりあえず二人で帰りはした。
それまで気が付かなかったが、どうやら二人とも俯き加減で歩いていたらしい。
内田さんの庭の前に差しかかると声をかけられた。
沢口氏が、ちょうどそこに来ていたのだ。
垣根越しに言う沢口氏の更に後ろ、縁側には内田さんが座っている。
僕たちは内田さんに会釈をし、向こうも返してくれた。
「御揃いで、羨ましいですね」
沢口氏はにこやかに、朗らかに、そう言った。
あの夜の暗さは微塵もうかがえなかった。
そのせいで僕は多少混乱してしまったが、彼が落ち込んだ様子だったとしても、きっとそれは変わらなかっただろう。
百合が敬礼をしながら言う。
「お勤めご苦労様です」
沢口氏はフフッと笑って頷く。
「百合さんも、お仕事お疲れ様でした」
「今日は何を植えたんですか?」
「今日はモモイロタンポポの種を蒔きました」
「桃色タンポポ?」
「ええ。タンポポがピンクになったような花です」
「タンポポにもピンク色があるんですか?」
「いえ、同じキク科ですが、別属のようですね。クレピスというんです。上手く育ってくれたら、夏も始まる頃に見られますよ」
「わあ、楽しみ。ピンクのタンポポなんて見たことないもの」
「楽しみにしていて下さい」
「はい。あの、一郎さん」
「なんでしょう?」
「今日、凄く大変なことが起きてしまったんです」
「おや、なんですか?」
「もしかしたら私、結婚するかもしれないんです」
僕は驚いて百合を見た。
百合は少々芝居がかった、哀しげな表情を沢口氏に向けていた。
沢口氏も、少し驚いたようだった。
「それは大変だ」
「私、一郎さんのこと、とっても好きだったんです。でも、その人も私のこと、物凄く好きらしいんです。一郎さんより、顔も性格も経済力も今一なんですけど、好きで好きで気が狂いそうだからどうしても結婚してほしいって泣いて頼まれて、もうこれは結婚してあげないと仕方がないっていう状況になってきてるんです」
「それは本当に大変ですね」
「ええ。一郎さん、私、よその男と結婚してしまってもいいですか?」
「百合さんが決めたことなら、仕方がありません」
「きっと一郎さん、淋しいだろうなって思うけど、本当にごめんなさい」
「もちろん、とっても淋しいですよ。百合さんは私の、心のオアシスのような人ですからね。でも、私は百合さんが幸せになることをいつも願っています。あなたが幸せであれば、私もとても幸せです。安心して、その人のお嫁さんになってください」
「ありがとうございます、一郎さん。じゃあ私、そろそろ恥ずかしくなってきたから、帰ります。さよなら。ちょっと早いけど、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
百合は手を振って、内田さんに頭を下げて、一人で自宅に向かって小走りに駆けて行ってしまった。
沢口氏が笑う。
「いやあ、大胆なプロポーズをしたものですね」
「あんなの嘘ですよ。誰が泣いて頼んだりしますか」
「おや、そうなんですか?」
「そりゃ、まあ、プロポーズは嘘ではないけれども」
「おめでとうございます。幸せになって下さいね」
「沢口さんは」
「はい?」
「僕なんかよりずっと、百合の扱いに慣れてますね。よくもあの調子に合わせてやれるなって、感心しました」
「そうですか。でも、嘘や冗談で繋いでいる訳じゃありませんよ。私と百合さんの会話はなかなか巧妙に、真実を織り交ぜてあるんです」
「それは、自慢ですか?」
「これはいけない。つい意地悪を言ってしまったようだ。私は幸せな男を見ると、つい意地悪になってしまうんです。すみません。深く考えないでくださいね。百合さんが結婚するとなると、私が淋しいというのは本当ですし、彼女に幸せになってほしいと思っていることも本心なんです。ただ、そういう事ですから」
「はあ」
「さて、私もそろそろ帰るところだったんです。御一緒しましょう。いいでしょう?」
「ええ」
沢口氏は内田さんに挨拶をして、門から出てきた。
二人で並んで歩く。
「しかし、結婚が決まったというのに、どうも浮かない顔をしてらっしゃいますね、田中さん」
「だって、いい加減なんですよ、百合は。僕まだ、ちゃんと返事もらってないのに、あんなこと沢口さんに言って」
「そうだったんですか?なるほど、それで恥ずかしがっておられたんだ、百合さんは」
「帰ってから確かめないと。あいつのことだから、やっぱり一郎さんが良いとか、言い出しかねないですよ」
「大丈夫。それはありませんよ。第三者の意見を言わせてもらうなら、二人は以前から、とてもいい感じでした。百合さんは、はっきりあなたに告白されて、自分の気持ちに気付いたのじゃないかな。私はそんな気がします」
「そうでしょうか」
「もしかしたら初めから、私の入り込む隙はなかったのかもしれない」
「あなたが入り込もうとしなかっただけです。僕は多分、それに感謝しなきゃいけない。でも、でもですよ?本当に実感ないんですよ。大体、先刻の気付きました?あいつ、沢口さんに向かって喋るばっかりで、一度だって僕の顔見なかったですよ。あれ、何なんですかね?百合が結婚するよその男って、もしかしたら僕じゃないのかも知れないじゃないですか?」
「まあ、まあ、落ち着いて」
沢口氏はクスクスと笑ってそう言った。
「でも良かった。少し元気が出てきたようだ」
「そうですよ。元気出さないと、これから確かめに行けないですからね」
「頑張って、確かめてきてくださいね」
沢口邸の門には鍵はかかっていなかった。
その前まで来ると、彼はすっと門を開き、敷地内に入った。
そして黒い鉄柵越しに、僕を見た。
「それじゃあ、田中さん」
「あの」
僕は鉄棒を握った。
「なんですか?」
「あの……つまり」
「判ったでしょう?私は今、元気でいるでしょう?普通に笑うこともできれば、冗談を言うことも出来るんだ。私はこういう人間です。あなたは多分、私を買い被っておられるんだと思います。私はこういう男なんです。私は今生きている。それこそが証明です」
「だからあなたは、百合には相応しくないと言うんですか」
「私には誰であろうと、愛される資格はない。その資格を捨てたのは私自身です」
「そうやって、この先も、ずっと」
「そう、この先もずっと生きて行くんですよ」
「でも、僕は思うんですが、もっと、もっと違う生き方もあるんじゃないでしょうか?僕は、僕はやっぱり、あなたが嫌いじゃないんです」
「ねえ、田中さん。私の選んだ道はこの一つだけです。それは正しい道ではないでしょう。でも、私はこの道を歩いて、ここで朽ちて行くことに決めたんです」
「でも、それは正しくないどころか、余計に苦しいんじゃありませんか?僕は、どうしたらいいのか判らない。判らないんですよ」
「言っておきますが、あなたには何の責任もありませんよ。それは判っておいて下さいね。それから、あなたは苦しいといわれるが、苦しければ苦しいほど、私は救われるのかもしれません。もちろん、そう思う資格さえ持ち合わせてはいませんが」
「僕には何か、出来ることはないんでしょうか。友人として、僕は何か出来ないんですか」
「そんなこと、考える必要はありません。それがあなたを苦しめているのなら、私のことなど、友人ではなく顔を知っているだけの人間と思って下さい。それに、もしあなたの良心が私を許さないというなら、どうぞ、ここにいらっしゃい。既に言っている筈ですが、私は構いません。あなたがそう判断されるのなら、私は構いません。あなたなら文句はありません。あなたがいつ庭に入ろうと、自由です。それじゃあ、田中さん、おやすみなさい。結婚、おめでとう」
沢口氏は最後にそう言って微笑むと、僕に背を向けて、家の中へ入っていった。
僕は格子の向こうに、ただ黙って沢口一郎を見送り、柵から手を離した。
家に向かって歩きながら、僕は百合のことを考えた。
僕の実家の方に、来てくれていればいいがと思った。
僕には今のところ、沢口邸の庭を掘り返す気はない。
百合は、家に来ているだろうか。
僕には、百合がいる。
終
