小説|青い目と月の湖 32
【最終節】
クロードの家のドアをノックしても、返事はなかった。
ハンスは構わずにドアを開けた。
小振りのバスケットをドア近くの床に置く。
今日の荷物は少なかった。
いつもの食糧は昨日、クロードが自分で運んだからだ。
ハンスはエレンから預ってきた木イチゴのジュースの瓶と、紙に包んだスコーンをテーブルに運んで、それから寝室をノックした。
返事はなかったがドアを開けた。
ベッドに近付くと、マリエルが一人眠っていた。
ハンスがそっとその髪に触れると、マリエルはすぐに目を覚ました。
ハンスを目に留め、驚いて体を起こす。
マリエルは薄いワンピースを着ていた。
毛布の上にあったカーディガンを手に取り、自分の肩にかけると、フフッと笑う。
「びっくりしたわ。ハンス」
「ごめん。脅かすつもりじゃなかったんだ。って言うか、僕が驚いちゃった。クロードの部屋でマリエルが眠ってるから」
「ああ、そうね。ごめんなさい。少し前にこっちに移ったの」
「そう」
マリエルはベッドから降りると、その縁に腰掛けた。
一度窓の外に目を向けてから、ハンスに顔を戻す。
「早かったのね。お昼に来るんじゃなかったの?クロードはそう言っていたけれど」
「うん。具合が良かったから」
「そう。風邪をひいていたんだったわね。良くなってよかった」
「ありがとう。クロードはどうしたの?」
「朝のうちに一働きしておこうって、外に出てるの。もうそろそろ帰ってくると思うわ」
「薬草とか取りに行ったんだ」
「そうね。美味しそうな木の実があったら取ってくるから楽しみにしておいでとも言ってたけど、どうかしら?この間は目を付けていたのが鳥に食べられてたって、がっかりして帰ってきたのよ」
マリエルはクスクスと笑う。
ハンスも付き合うように笑った。
「そう。でも、マリエルも物好きだな。あの城からこんな小さな山小屋に引っ越してくるなんて」
「あら。でも、快適よ」
「お風呂なんかどうしてるの?ここのお風呂って面倒でしょ」
「毎日クロードがお湯を沸かしてくれるの」
「ふうん。ねえ、マリエル」
「なに?」
「クロードが好き?」
マリエルは少し頬を染めた。
「ええ。大好きよ」
「そう。でも僕、マリエルに会えなくなるのは淋しいよ」
「私だって淋しいわ。でも、いつかきっと会えるわ」
「僕、マリエルが好きだよ」
「私もよ、ハンス。あなたは大切なお友達よ。クロードだってあなたのこと大好きなのよ。私たち、いつかきっと会えるわ」
「うん。そうだね」
「ねえ、向こうの部屋でちょっと待っててね。すぐに着替えるから」
「うん」
ハンスは寝室を出て、キッチンに歩いた。
窓の外を見て、風呂場のドアに目を移す。
それから再び窓の外をぼんやり見ていた。
見慣れない馬が草を食んでいた。
マリエルが寝室から出てきて、キッチンに入ってきた。
飲み物でも用意してくれるつもりのようだったが、マリエルが口を開く前にハンスは、少し慌てた風に言った。
「マリエル」
「え?」
「クロードが一度戻ってきたんだ」
「一度?」
「うん」
マリエルは窓際に駆け寄り外を見た。
外にクロードの姿はなかった。
「もう行っちゃったよ。マリエルに川まで来て欲しいって言って、すぐに引き換えしていったんだ」
「まあ、何かしら?」
「さあ、判んないけど。何か見つけたんじゃない?マリエルに見せたいもの」
「そうね。じゃあ、一緒に行きましょう」
「僕はいいよ」
「あら、どうして?せっかくだから久し振りに二人でお散歩しましょうよ」
「ううん。留守番しておくよ。川の近くはまだ寒いから」
「ああ、そうね。風邪が治ったばかりだものね。判ったわ。じゃあ私、行ってくるわ」
「うん。気をつけてね」
「ええ。行ってきます」
マリエルは裏口から出て行った。
ハンスは棚からグラスを二つ取り出すと、それをテーブルに運んだ。
木イチゴのジュースをそれに注いで、クロードと自分の、いつもの席にそれを並べた。
ジュースの量は、自分のグラスよりも、クロードのグラスの方が少ない。
それから玄関に引き返し、バスケットの中からジャムの瓶を取り出した。
ただ、今それに入っているのはジャムではなかった。
森で摘んだ毒ウツギの実を潰した汁だ。
ハンスはテーブルに戻り、クロードの席のグラスにその汁を注いだ。
舐めたことなどない。
ないが、苦くはないという話だ。
ハンスは瓶をバスケットに戻すと、自分の席に座った。
それから程なくして、クロードが玄関から入ってきた。
椅子に座ったまま振り向いたハンスに、肩をすくめて見せる。
「表に馬がいるから驚いたよ。昼に来るんじゃなかったのか?」
ハンスは笑った。
「うん。気分が良かったから」
「そうか」
「木イチゴのジュースを持ってきたよ」
「へえ。ありがとう。それは?」
「母さんが作ったスコーン。まあ、朝食の残りなんだけど。ドーナツは作る暇がなかったんだ、僕が早く行くって言ったから」
「そうか。でも嬉しいよ。エレンの作るものはどれも美味しいからね。マリエルは?もう起きたかな」
「うん。なんか花を摘んでくるって、さっき出てったんだ」
「花を?へえ、そう。あいにく花瓶はないけど、コップに飾るのもいいだろう。しかし、昼過ぎに来るって言うからのんびりしてたんだ」
クロードは何かの植物を沢山入れた籐籠を、キッチンに運びながらそう言った。
手を洗って戻ってくると、ハンスの前の席に座る。
「あ、マリエルのグラスが」
「少し遅くなるから、先に食べてていいって言ってたよ」
「そうか」
クロードはグラスを手に持ち、ハンスの顔を見た。
ハンスは首を傾げた。
思いがけず、自分の眉が少しだけ痙攣したことに気付く。
「昨日言ってなかったから、驚いたんじゃないか。マリエルがここにいること」
「ああ、うん」
「あの城を出てすぐに旅に出るより、少し落ち着いた時間を作った方がいいと思ったんだ」
「うん。そうだね。山小屋で予行演習っていうのもいいんじゃない?体を慣らしておかないと、城から馬車じゃ、落差があり過ぎるよ」
「何だ。この家が酷く粗末な感じの言い方だな」
「豪華じゃないでしょ?」
クロードは苦笑いをして、グラスから手を離すと、その手をハンスの頭に伸ばし、髪をクシャクシャとつかんだ。
ハンスは笑ってその手を逃れる。
クロードは言う。
「よかった。今日は元気そうだ」
「うん。元気だよ」
「村長と話をしたよ」
「……そう」
「出発は二週間後に決まった」
「そう。明日とかじゃなくて良かった。まだ、少し時間があるんだ」
「ああ」
「母さんが言ってた。クロードがいつか村からいなくなることは判ってたはずだって。クロードを困らせちゃいけないって」
クロードは淋しげに微笑むと、ハンスの頭から手を離した。
グラスに手を戻し、テーブルの真ん中に目をやった。
クロードは言った。
「美味しそうなスコーンだ」
「うん。美味しいよ。ジュースもね」
「ジャムでもつけた方がいいかな?」
「そうだね。僕、取ってくる」
ハンスは少し慌てたようにそう言って、椅子から飛び降りた。
キッチンに駆けていく。
クロードはその背を微笑ましい気分で目で追った。
判ってくれて良かった。
確かに、エレンの言う通り、いつか自分が出て行くことは誰もが予想していたことだ。
急ではあったが、少しずつそれぞれが理解していくだろう。
所詮は流れ者だ。
クロードはテーブルに視線を戻し、ジュースを飲もうとして手を止めた。
ハンスのグラスに何かを見つけた。
黒っぽい小さなものだった。
果肉の欠片かと思ったが、よく見てみると小さな羽虫だった。
どこかから飛び込んできて、ジュースで溺れてしまったのだろう。
クロードはハンスのグラスを取って羽虫を摘まみ出した。
指を弾いてテーブルの下にそれを落とし、少し濡れた指を服の端で拭う。
ハンスが見ていないか、キッチンに素早く目を向けた。
まだ戻ってこない。
羽虫が溺れ死んだグラスを、自分の前に置いた。
そして、自分の奇麗なグラスを、ハンスの席に置き換えた。
ー 終 ー
