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中上健次の作品を読む#1『十九歳の地図』


十九歳、文学の巨人と出会う

 
 中上健次には、ジャズがとてもよく似合う。それも、ジョン・コルトレーンのような、縦横無断に疾走するジャズ。それでいて、熱っぽさの中に時々垣間見える孤高の嘆き。ひと言でいって、黒っぽいジャズだ。
 
 僕なんかは、ソニー・ロリンズとかセロニアス・モンクの方がお気に入りなのだが、中上健次となると、やはりコルトレーンや、アルバート・アイラ―を想起せずにはいられない。彼自身が、熱狂していたからというのもあるし、フリージャズが持つ自由なる狂気、高貴なる卑猥さは、まさしく中上健次その人を現わしているように思えてならないからだ。

 十九歳。「われ、たった今、世界地図の中心に降り立った覇者なり」とばかりに、肩で風を切りながら地元の田舎町を闊歩していた僕は、昔からある駅前の、それこそ『デラべっぴん』なんかを盗み読みしていたら、すぐに店員にばれてしまうような、狭くて小さな書店のほんの僅かなスペースの文庫コーナーで、たまたま中上健次という人に出会ってしまった。

 手に取った小説は、これも本当にたまたまであるが、『十九歳の地図』。

 
 ありふれた表現だが、衝撃を受けた。

 能天気であることと自由であることをはき違えていた、葉の裏側のように青臭いだけの僕の頭のつむじあたりを、鈍器で殴りつけてくるような衝撃。とたんに目の前を、チカチカと火花が散った。

 僕に降りかかってきた鈍さと圧力は、そんなものだけで済まない。

 文学という重力が、降りてきて、一瞬にして僕を取り囲んでいた時間や空間を歪ませてしまい、底なしの無限なる世界へと叩き落したのであった。

 そんな重力に抗うことができず、ただただ真っすぐ落ちていくだけの僕の目の前に、中上健次という巨人が、いた。

 1946年、和歌山の新宮が生み出した、戦後の日本が生み出した、近代文学の巨人。この人の登場で、文学史が「中上健次以前・以後」で区切られるであろうとまで形容される文豪。

 比肩されるものは、大江健三郎くらいであろう。というような巨匠。
 
 そんな中上健次が、十九歳の僕にこう言い放つのであった。

「お前に文学がわかるのか? 俺の小説が読めるのか?」

 何かを試されているようであった。この小説を理解しなければ、僕はただちに世界に取り残されるに違いない。そう直感したのであった。そういう感性ならぬ、危機察知能力だけは、その時の僕には備わっていたようであった。

 衝撃。と同時に衝動。

 僕を、終始動揺させたその小説は、こんなくだりから始まる。

 部屋の中は窓も入口の扉もしめきられているのに奇妙に寒くて、このままにしているとぼくの体のなにからなにまで凍えてしまう気がした。ぼくはうつぶせになって机の上に置いてある物理のノートに書いた地図に✕印をつけた。いま✕印をつけた家には庭に貧血ぎみの赤いサルビアが植えられており、一度集金にいったとき、その家の女がでてくるのがおそかったので、ぼくは花を真上から踏みつけすりつぶした。道をまっすぐいった先に、バラック建てがそのまま老い朽ちたようなつぎはぎした板が白くみえる家で、老婆が頭にかさぶたをつくったやせた子供をつれてでこぼこの土間にでてきた時も、ぼくは胸がむかつき、古井戸のそばになれなれしく近よった褐色のふとった犬の腹を思いっきり蹴ってやった。しかしぼくはバラックの家には✕をつけなかった。それが唯一のぼくの施しだと思えばよい。貧乏や、貧乏人などみるのもいやだ。

『十九歳の地図』より

 主人公の「ぼく」は、何かに苛立っている。鬱屈している。その鬱屈した感情が、地図に✕印をつけていくという行為に現れている。いったい、何のための✕印か?

 今読み返しても、けっして読み易い文章ではない。中上健次の文章は、切れ目、読点が少ないことでも有名だ。サラサラと、水のように流れていく綺麗な、整った文章では決してない。

 ごつごつしているのである。読むものをつまずかせ、調子を狂わせる。それは、調性や和声、リズムなどに縛られないフリージャズさながらに、焦点を定めるのが難しい文章である。

 だが、それが次第に心地よくなってくる瞬間がくる。読みにくさ、それ自体が一つのリズムになって、疾走する瞬間が訪れるのだ。

このぼくに自分だけのにおいのしみこんだ草の葉や茎や藁屑の巣のようなものはない。ない、ない、なんにもない。金もないし、立派な精神もない。あるのはたったひとつぬめぬめした精液を放出するこの性器だけだ。ぼくは新聞配達の人間だけが集まってすんでいる寮の横の、柿の木のあるアパートにいるしょっちゅう亭主と喧嘩ばかりしている三十すぎのカンのきつそうな女の、すこし肥りぎみの顔を思いうかべた。子供は栄養失調のようにやせほそり、犬のように人にくっついて歩いてい、女の声は夕方になるときまってきこえた。「ふざけんじゃないよ」それが女の口ぐせだった。「甲斐性があるんだったらやりやがれえ、殺すんだったらころせえ、てめえみたいなぐうたらになめられてたまるか、いつやったんだよ、いつからやったんだよ。あたしはだまされるのがきらいなんだ。てめえ碌な稼ぎもないくせに、女房の口さえくわすことができないくせに、よくそんなことやれたもんだ、立派だよ、あんたはりっぱ、そのうちこの二丁目の角に銅像がたつよ」不意に涙声になり、犬の遠吠えのようなすすり泣きの声がたかくひびく。

『十九歳の地図』より

 ブルースだ。彼の、フリージャズのように流れる文章の基底には、ブルースがある。

 中上健次は、しばし、絵やイメージといった視覚に訴える作家ではなく、声と音の、聴覚に訴える作家であると言われる。中上健次に影響を受けてデビューした宇佐美りん氏も、文藝のインタビューでそんなことを指摘していた。

「声」。中上健次は、そのことを、この作品でもはっきりと意識している。

 新聞配達のアルバイトをして暮らす予備校生の「ぼく」が、ノートに書いた地図に✕印をつけているのは、気に食わない家を発見し、✕印が三つ付いた家には嫌がらせのような電話をかけ、「声」だけで他者の精神を支配するためである。

 最初は他愛のない嫌がらせであるのだが、その「声」で、東京駅に特急列車の「玄海号」の爆破を仄めかす電話をかけるようになる。

 そうやって、主人公は、✕印をつけていた自分の町の地図を、東京という都市へ、社会へと拡張させ、妄想を膨らませていくのである。

 だが、「声」だけではどうにもならない、世界は何も変わらない、ということが次第にわかってしまう「ぼく」の苛立ちは、いや増しに増してくる。

「もしもし、なんでしょうか?」男は言った。もしもし、と低くこもった鼻声でぼくは言った。ぼくは子供っぽい自分の声がいやで、喉をおしつぶすように力をこめ、「もしもうし、東京駅ですかあ」と陽気すぎる声を出した。「はい、はあい東京駅ですが、なんでしょうか?」電話の声は若く弾んだ声だった。「きのうもこのまえも、おれ、ずうっと電話してるんだ、お前たち嘘だと思ってるんだろう、いたずらだと思ってるんだろう? だけどちがうんだ、ほんとうだよ、ほんとうにおれはやるつもりだぜ、おれの弟のやつが電話して、おれのこと、頭のネジが一本抜けおちたやつって言ったんだって?」「もしもし担当者にかわりました。なんでしょうか」年老いた男の声がした。
※強調引用者

『十九歳の地図』より

 
 大人に見透かされている。いたずらが、いたずらにしかすぎないと、見透かされ、「ぼく」は苛立つのだ。
 
 彼が苛立つのは、社会に対しではない。そんな社会=世界に何の変化ももたらすことができない、<なにものでもない>自分の若さと無能さに、苛立っているのである。

 それが、<十九歳>という年齢である。若い、十九歳の「子供っぽい声」だけでは、他者を支配できない。ましてや、世界を変えることなど、できない。しかし、そんな「ぼく」の青臭さ、軽さに対して、社会というやつは、切実さとリアリティを持って、「声」を発してくる。

「ぼく」は友人に教えてもらった、「かさぶただらけのマリアさま」という人物に電話をし、罵倒していたのだが、電話の声の主はいつも、「死ねないのよお」「なんども死んだあけど生きてるのよお」と呻き返してくるのであった。

 東京駅への爆破予告の電話のあと、「かさぶただらけのマリアさま」に、また電話しようかと考えるだのだが、「ぼく」はなぜか戸惑い、やめてしまう。

不意に、ぼくの体の中心部にあった固く結晶したなにかがとけてしまったように、眼の奥からさらさらしたあたたかい涙が流れだした。ぼくはとめどなく流れだすぬくもった涙に恍惚となりながら、立っていた。なんどもなんども死んだあけど生きてるのよお、声ががらんとしたぼくの体の中でひびきあっているのを感じた。

『十九歳の地図』より

 十九歳の「がらんとしたぼくの体の中」に響いてきたものはなんであったか?

 他者の声である。そう、電話越しの「ぼく」の声は、虚勢を張った、フィクションでしかないのだが、他者の声、社会の声は、十九歳のぼくを脅かし、涙させるくらいに、「現実」というものをつきつけてくる。

 
 それと同じようにして、十九歳だったあの時の僕に対して、中上健次という文学の他者が、<言葉=声>が、黒にも近い、灰色の重力のようにして迫ってきたのであった。

 それまでの僕は、自分中心の物差しでしか世界を見れていなかった。僕の中で、わが物顔のように描かれていた「世界地図」は、中上健次というその人によって、いとも簡単に塗り替えられてしまったのである。

 僕にとっての『十九歳の地図』とは、まさにそのような体験である。

#ネタバレ

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