人間であることは面倒くさいこと。
人間ってのは 人の間に生きるから人間なんですよ。
そういってたのは誰だったか。
和辻哲郎が間柄的存在と表したのだと倫理では習ったが、具体的に原典を読んだわけでもないから何となくの理解ではある。
あらゆるものが便利になっていく中で、私たちは見落としているものが何個もあったり、こぼれ落ちていくものが増えていっているような気がする。
それは私たちの手のひらが拡張されているような気がするからに他ならない。
というより、身体的な器官が延長されているという感じか。マクルーハンがそんなことを言っていたとこれまた倫理でやった気がする。
メディアが遠くの地域の音や映像を見せてくる。
それは私たちの目や耳の延長である。
そうして引き伸ばされた感覚は時に私たちのキャパシティを超えてしまい、私たちの器官は麻痺してしまう。みたいな話だったか。
Gemini君はそう言っている。にわかだ。
まぁ、つまりは便利になって、私たちは手のひらが大きくなった。やれることや大事にできることのキャパシティが大きくなったと思っているけれども、本当にだいじなものを持っておけるのは手を握った時に生まれるスペース分だけなのであってそれってまぁ本当に小さい。どれだけ手のひらがおおきくなっても。
あれもこれもと、追い求めて、手を握りしめることすらできなくなってしまったら、本当に大切にしたいことすら、守れなくなってしまう。
だから、自分の手の届く範囲や、目の届く範囲、足の届く範囲で行為することが大切になってくる。
身体器官が拡張されているけれども、それは緊急時にも正常に作動するとは限らないのであるから。
今自分が持ってる器官の限界は知っておくべきだし、それを動かす炉心の限界も知っておくべきである。
拡張された器官を動かすのは、あいも変わらず心であって。
それは何ら変化がない。むしろ負荷がでかくなっている。
心という機関は脆いものだから。焚べるもの次第で動かなくもなる。使い方間違えればガス欠にもなるだろう。
僕らは伸ばした手のひらでいろんな人と手をつなごうとするけれど、それだって疲れないわけじゃない。
あらゆるものが一人でできるように見えるけれど、本当はいろんな人にささえられて生きている。
ならば私たちは、人と一緒に暮らす術を身に着けていかなくてはならないのである。
その手段の一つが歌とか音楽とかなんじゃないかなと思ったりしました。

聴く隣人のいるところという映画を見ました。
詳しくは見てほしいのですが、彼等は山の上の学校で寮で暮らして学んでいくのですが
そこに歌が溢れているんですよ。
キリスト教系の学校なので讃美歌は歌うのですが、それだけじゃなくて生徒たちで作った歌、劇のために作った歌とか。
彼等は、別に完璧な人達ではないんです。本当に子どもたちなんです。だから、合わないだったり、多分ちょっと嫌がらせとかもあったのかもしれない。ドロドロしてるようなこともあったのかもしれない。嫌いな人ともずっと関わっていかなくちゃいけない。
そんな人たちとも、歌を一緒に歌っている。
なんかそれって不思議なんですよね。
歌を通しては、分かり合えたり、心を通わせるみたいに歌声を通わせることはできる。
それって素晴らしいと思うんです。
まぁ、そんな綺麗事で済むものでもないのかもしれないけれど、色々あったこと、まとまらないこと。言葉だけでは、理性だけでは超えられない壁も、歌うことを通してなら分かり合えるかもしれない。
その可能性をこの映画というか、愛真学校は教えてくれるように思います。
別に歌を歌ったら皆わかり会えるとか簡単に言えないとは思います。歌ったからって無理なもんは無理だし、一緒に歌いたくないってものあったのかもしれません。
だけど、歌声では揃ってたんです。
不和はなかったんです。(素人目からは)
それが人間が人間として居続けられる技術なのかなって思ったんです。
どうして、不和がないようにできるかって言ったら、
彼らが、諦めなかったからだと思うんです。
反りが合わなくても、話し合うこと。
話ができなくても顔を突き合わせること。
顔を突き合わせられなくても歌声を合わせること。
そうやって人と繋がることを諦めなかったから、ハレルヤって皆で歌えたんだと思います。
今、インターネットが流行っていると、合わない人とは逃げればいい。ブロックすればいい。嫌いな人の意見はミュートすればいい。そんな風潮がある。
それは世界が一見、インターネットにおいては広くなったように見えるからだと思いますし、逃げるすべがあるからです。
ただ人間ってそうじゃないことも往々にしてあるし、そうやって逃げ続けた先にはもう二度と修復できない人と人の間の溝が生まれる気がします。
そして、それを繋げ直そうともしない。
ここで思い出しましょう。私たちは人間なんです。人と人の間に生きている存在なんです。
だとしたら、僕らは繋がらなくては生きていけないんです。
インターネットを通して繋げたはずの伸びた手は、いつか切れてしまうかもしれない。もう二度とつなぎ直すことができなくなるかもしれない。
じゃあ、もとに戻った手をどうやってつないでいったらいいのかってなりますよね。
その方法を僕らはこれからどんどん忘れていくかもしれない。現実の手で繋がることを辞めていくかもしれない。
それは人間を諦めることに他ならない。
彼らは、最後まで諦めなかった。
全部が全部うまくいったわけではないと思う。でも、最後まで繋がってはいた。途切れることなく。濃淡はあれど。
それがどれだけ尊いことか。
それがどれだけ難しいことか。
だからこそ、愛真学校というのはあるだけで凄いことであるし、続いていってほしいと私は思うのです。
人と一緒にいるってめんどくさいことのほうが圧倒的に多いけど、それでもと手を伸ばすことは美しいことであると僕は思います。
人間が人間である意味を問われるこの時代に、繋がることの意味を考えさせられる素晴らしい映画でした。
みなさんも是非、見てほしいなぁと思います。
私は忘れることは多分ないと思います。
忘れるまで覚えています。
