ホワイトルーム・オープン・ザ・ドア ③
青いキャップにクリーム色のダボTと黒のハーフパンツ。富士山をバックに文ちゃんと骨付きチキンを頬張っていた。確かに病気ではなさそうだった。
「むっちゃ元気やん。なんで学校来ないの?」
宮野は目をしかめながら軽く笑った。
『本人には思うことがあるみたい。でも僕に学校のことよく聞くから、気にはしてるんだと思う』
「不登校の人間ほど学校に縛られるよな。来ればなんとも思わなくなるのに、行かないことで余計に学校のことばっか考えるんだからおかしなもんだよな」
『健康と元気は違うものなんだと思う。体は動くのにって、気持ちとの乖離があるから、自分でもどうしていいか分からなくなってる感じ』
乖離、が読めなくて僕はこっそり調べた。読書家の文ちゃんはたまに難しい単語を使う。分かったふりしてその場は頷いた。開きがあるってことか。けどつまり文ちゃんは擁護派なのだ。最初の一歩で方向性の違いに直面した。返事が見つからず、僕は黙って弁当箱の蓋を閉めた。
「お食事中失礼。周防君、ちょっといい?」
すいと名木さんが現れた。織物みたいな長い黒髪がさらりと揺れる。文ちゃんを名字の周防で呼ぶのは名木さんだけだ。それがなんだか二人だけの合言葉に聞こえる。付き合ってはいないはずだが、並べば美男美女で、互いに向けるまなざしには決してずれない何かがあった。その何かに何が含まれているかは不明のままだが。
「白井君のこと教えてもらいたいんだけど、いいかな」
名木さんはクロスした腕に本を抱えていた。ちらと、つい目が行ってしまうと「あ、これ、今図書室から借りてきたの」と表紙をこちらに向けた。
『不登校の心の声・居場所を探す子供たち』
思わず名木さんを見上げた。涼しげな目に頷きがあった。紛れもないプロジェクトへの参加表明だった。
「名木さん、やるんだ」
宮野が呟くと、名木さんはamazonみたいに口唇を広げ「座っていい?」と富里の椅子を引いて僕の真横に腰かけた。いきなりの至近距離。なんだこの香りは。嗅いだことのない甘い香りに脳が驚いて、上半身が後退した。同じ反応が起きてる宮野も小鼻がピクピクしていた。物怖じしない文ちゃんだけは「いい匂いだね」と言うように、名木さんを指差してから自分の鼻に向かって手で仰いで、にっこりした。
「あ、匂いする?暑いから制汗スプレーしてきたの。香りが結構強かったかな。ごめんね」
女子のフォローに慣れてない僕と宮野は全然全然全然、と高速で手を振った。文ちゃんは大きく口を開けて笑った。話せないけれど笑う時は声が出る。クリアなよく通る声で、会話に参加してない生徒まで釣られてしまうぐらいに、楽しげな笑い方だった。名木さんもくすくす吹き出した。
「周防君がいると空気がまろやかになるわね。管理人を任されたのがすごく納得できる。ねえ教えてもらえる?普段白井君とどんなこと話してるの?」
小鳥のように小首を傾げた。つるりとした肌は毛穴も凹凸もない。歯並びも睫毛も全部綺麗。「何見てるのよ」と言われても「そりゃ見るだろ」と反論していい完璧な仕上がり。もちろん名木さんはそんなこと言わないし、僕の邪な目線にもまだ気づいていない。はずだ。
文ちゃんが携帯に文字を打つと僕の着信が鳴った。
『チームの参加表明してからじゃないと情報言えないんだけど、どうすればいい?』
困ったように口唇を尖らせていた。管理人に任命された文ちゃんにもルールが課されているらしい。根が真面目だから忠実に守ろうとしてる。僕だったら名木さんならサービスするけれど、文ちゃんの気持ちを汲んだ。
「やるって決まってからじゃないと情報開示できないんだって。先生にそう言われてるみたいで…」
名木さんの目線が僕から文ちゃんに移った。この世で一番美しい黒色の瞳がくるりと動く。文ちゃんは再び携帯に文字を打つと、その画面をこちらに向けた。
『話していい時が来たら嘘はつかないから』
名木さんは下がった口角で文ちゃんを見つめた。一秒だけ、二人はまた無言のやりとりをした。名木さんは「分かった。そうよね」とふっと表情を緩めた。
「一週間は自分で考えろって言われたのにルール違反だった。先走っちゃってごめんね」
諦めたというより、文ちゃんが先生との約束を優先したことに失望したような言い方だった。
「あーいた。文ちゃん」
赤城とチームメイトがどやどやと教室に入ってきて、僕らの間に割り込んできた。
「おれたち全員一致でやることにしたからさ、来週白井の家に連れていってよ。先に来させたチームの勝ちだろ。悪いけど賞金はおれらがゲットするからよ。みんなでUSJ行くんだもんな。ひとり五万あれば交通費込みで十分しょ」
もう終えたかのように、赤城達は先の予定で盛り上がっていた。いやいやマジかこいつら。浅はか過ぎるだろ。早々に勝利宣言する赤城たちに僕と宮野は無言のまま眉を潜めた。
「無理よ。そんなんじゃ。絶対開けられないわ」
燥ぐ赤城たちをスパッと黙らせて名木さんは薄く笑った。
「行ってなにするつもり?説得?それとも友人条約でも結ぶの?そもそも会ってもらえるわけ?これまで関わりのなかった人が下心丸出しで訪問してきて歓迎してもらえるとでも?反対の立場だったら部屋に入れる?そんなに寛大になれるの?」
「文ちゃんがいりゃ入れるでしょ。おれたちだけじゃなく、全員白井と会ってないじゃん。そのための管理人だろ?会いやすくしてくれるための」
「周防君はドアマンじゃないのよ。招待するためじゃなく、強引に扉を開こうとする人を阻止するために同行するのよ。マンションだってそうじゃない。不審な人間を中に入れないように管理人が常駐してるんでしょ」
「けどおれなら入れる。ほんですぐ終わる。断言するよ」
自信ありげに赤城は腕を組んだ。
「だって白井が学校に来なくなったのおれのせいだもん。二年の時にイジッてたから、それが嫌になって不登校になったんだろ。つまりおれが謝ればいいわけだ。もうやんねえからっって言えばぜーんぶ終わりになる。ツカさんもそれが目的だろ。白井から話聞いてるんだろうからな」
けらけら笑ってるのは赤城のチームメイトだけ。僕らは固まった。だがこんなに早い犯人発見。ミステリー小説なら6ページ目ぐらいだ。そんな簡単に解決するのか分からないが、赤城が謝罪してことが済むのならこちらも助かるのは事実だった。
そのうち戻ってきたクラスメイトも、教室の真ん中にできた集団に一度目を止めて、察したようにこちらに寄ってきた。プロジェクトはやりたくないが、他人の動向は気になる。赤城に任せてシカトを決め込みたいけれど、なぜか名木さんはうまく行かないと言い切るので、疑念が漂いだしていた。
「赤城君たち行くなら、うちらやんなくっていいのお?」
僕のチームの亀山李子が言った。いつしか厚くなった層の一番後ろで、半開きの口で立っていた。
「目的が達成できればね。でも謝ったら終わりじゃないでしょう?白井君が自分の意思で学校に来ることがゴールよね。許してもらえなければ来ないままなんだから。だとしたらプロジェクトは続行されるわけよね」
九割の生徒が棄権したがってるのにひとりだけやる気が漲っていた。真面目だと知ってるけれど、こんなに積極的に取り組もうとするのは僕にも意外だった。迫力に気圧されたのか、さっきまで勝ち誇っていた赤城も口を噤んでしまっていた。
「名木さんやりたいの?石黒君あっちで絶対やらないって言ってたよ。辞退する感じだけど、どうすんの?」
空気が抜けた舌足らずの間延びしたトーン。いつもは聞いてて少し苛々する亀山の喋りも、誰もぶっ込めない質疑には向いていた。嘘か本当か分からない無邪気っぽさでガンガン行ってくれるからだ。こういう計画をおじゃんにしてくれるのは、ためらわずバズーカ撃てる亀山みたいなタイプだったりする。好き嫌いがはっきりしてるから自分の法則に合わないものはスパッと切り捨てる。超個人主義で自ら他者と関わることをほぼしない。クラスでの立ち位置も性格も対象的な二人のローハイなやりとりは、僕も含めた見物人らをずっとハラハラさせていた。
「でも私はまだ多数決に参加してないから。正式に話すのはこれからだし。それは石黒君の意向であってチームの総意じゃないわ」
「でもやりたくない人を無理矢理やらせるのよくないんじゃない?先生もそう言ってたじゃない」
「じゃあやりたい人を無理矢理止めるのはいいの?それもよくないわよ
ね。みんなそんなに簡単に答え出してるの?今日聞いたばかりで、まだ何もしてないのに。それって自分には無関係だから?それとも考えるのが面倒だから?」
「だって来たくないから学校に来ないんでしょ?個人の自由なのにうちらが出そうとしたら可哀想じゃん」
「このまま何十年も閉じ籠って、三十、四十になるまで社会に参加できなくなる方が可哀想じゃないの?私たちが白井君を救えるかもしれなくてもやらない方が優しさ?個人の自由を尊重したいのは亀山さんの方だからじゃないの?」
正論と正論のテニスは名木さんのスマッシュでゲームが決まった。戦意を削がれた亀山はぶすっとした顔をして立ち去った。
ああダメだったか…と円陣にため息が溢れた。同時に、あの亀山を一発で黙らせてしまう名木さんがすごいと思った。
テレビにほぼ出ることのない、七人組の地下アイドルグループに所属してる亀山は「かめりん」の名称で芸能活動している。ネットにはMVやライブ動画もアップされてるが、亀山のことが苦手な僕は検索すらしない。よく生きてるなと思うほど痩せてて、顔も拳ぐらいしかなく、文ちゃんとは別の肌の白さは骨を連想させる病的な色をしてる。けれども口唇だけはやたら赤く、それがまた小さいので、南天の実が二つくっついてるみたいだった。
一応芸能人でもたいして人気もないので学校では普通に過ごしてる。誰も特別扱いしないし、本人もそれを望んでない。けどたまに存在感を発揮する。特にこういう状況の時。クラスの決め事に「いや」だけは言ってくる少々厄介な爆弾として。だから亀山が同じチームにいるのが憂鬱だった。まともな話し合いができず、意味不明な返答しか返ってこないと目に見えてるからだ。
しかし名木さんは冷静に対応して説き伏せた。そして僕らも黙らせた。複雑そうに歪んだ表情が居並び、輪の端っこにいた石黒も例外なくそうなっていた。困惑と苦々しさが入り交じったへの字の口許に本心が丸見えになっている。同じチームの名木さんの燃える闘魂に「なんで?」が隠せない。相手が男ならお得意の理論で撃破して相手を黙らせるのに、名木さんに立ち向かうには、やはり抵抗があるようだった。
けどこの短時間に僕は密かに考えていた。だったら名木さんに任せればいいんじゃないか。このまま僕らは黙っていればいい。先生の希望を叶えたい気持ちもあるし、白井を放ったらかしにしてた負い目もある。でもやりたくない。だからやりたい人に任せれば遺恨も残らずエスケープできると…。
すると真ん中に座っていた文ちゃんが突然すくっと立ち上がり、囲いの間を割ってつかつかと前に歩いていった。白いチョークを掴んで、いつ見ても不思議な左手の筆記で黒板に何か書き出した。みな姿勢を直して黒板の方に体を向けた。文ちゃんは書き終えた文章の横に立つと、黒板を人差し指の関節で叩いた。
『白井君は捨てられた犬や猫じゃないよ
誰が面倒見るのかと、たらい回しにするより
できることがひとつでもあるかと考えてほしい
僕は口が利けないけど、みんな分かってくれようとする
それと同じ気持ちを白井君にも向けてほしい』
そうして自分の胸を軽くタップし、両手を合わせて僕らに深く頭を下げた。確実に一ヶ所がえぐられた。文ちゃんにこんなことを言わせた申し訳なさでいっぱいになる。可哀想とかじゃなく、文ちゃんが好きだから理解したい。なのに「親切にしてくれてありがとう」と思われたのは、さらに孤独なはずの白井には誰も手を差し伸べなかったからだ。
僕らは無意識のうちに優しさの対象を選んでる。優しくしたと分かってくれる相手には際限なく捧げられるのだ。感謝されるし、いい人と思ってもらえる。ハンデのある文ちゃんだから、差別や思いやりの偏りに敏感になるのだろう。株をあげるために文ちゃんを利用してはいないけど、そんな風に捉えてしまったとしたら、そう思わせた僕らが100%悪かった。
「そうじゃないよ、文ちゃん。違うんだよ」
一秒早く石黒が言った。糊が利いてるシャツはほとんど皺がない。
勉強以外で体を使わないせいだった。
「おれらは分からないんだよ。白井の情報がなさすぎて、どこから何をすればいいのか見当が付かない。亀山さんの言うことも一理あると思う。来たくない理由がはっきりしないのに出すことを先決するのは絶対によくない。白井を傷つけるだけだから。言えないトラウマがあるかもしれないし、だとしたら迂闊に理由を探っていいのかって思う。専門家でも身内でもないおれたちがむやみに首を突っ込むのは危険なんじゃないか?白井がおれらに会うのも苦痛で、そっとしてほしいが一番の癒しなら、そうしてやる方が、本人のためなんじゃないか?」
頷いた文ちゃんはまた黒板に書き始めた。
『それは正しいと思う
でも正しいは常に最善なのかな
遊泳禁止の川で溺れてる人がいても
泳いではいけないから助けないは正しいこと?
どんなことにも矛盾はつきまとう
ルールの上では
そのために対話をする必要があるんだと思う
デリケートな問題ではあるけど
決めるのはあくまで白井君だとしたら
やってみる価値のあるチャレンジだと僕は思う』
文ちゃんは手に付いたチョークの粉を叩いてはたくと、中指を人差し指に絡ませ「グッドラック」のサインをして、にっと笑って見せた。
