ホワイトルーム・オープン・ザ・ドア ⑯
文ちゃんは裏で焦げたパンケーキを食べていた。蒸し暑い今日、調理場は灼熱だった。肩に乗せたタオルで汗を拭いながら、小坂や富里は忙しなくフライ返しを持った手を動かしていた。
「文ちゃん」
おいでおいですると、立ち上がってカーテンを覗いた文ちゃんは、ぎゃっ、みたいな声を漏らし、まだ指名もされてないのに出ていった。奥のテーブルに座っておしぼりを開けようとしていた彼女は「面白そうだから来ちゃった」と、文ちゃんに笑い掛けた。写真よりもっと小柄で童顔で、知らなければ文ちゃんに中学生の妹がいたのかと思っただろう。
「素敵な学校ね。本当にどこからでも海が見えて。私の学校は国立だったから周りは雑木林よ。こんな所に毎日通えるなんていいわね」
彼女の接し方は久しぶりに会う親戚同士みたいで、一秒も待てずに飛び出していった文ちゃんとはかなりの温度差があった。
「誰だい?あの方は。もしかして文吾君の彼女かい?」
小麦粉の袋を持った小坂が聞いた。
「ああ、いや。ピアノ教室一緒だった人。前に写真見たことある」
片思いの相手なんて知られたら大騒ぎになるからゴニョゴニョ濁した。
「そうか。文吾君はピアノが上手だもんねえ。なあんだとうとう彼女ができたのかと思ったよ」
昨日からずっと、一番大変なパンケーキの焼きを担当しているが、小坂は全く愚痴をこぼさない。部活の出し物や他のクラスを見に行きたがる生徒にも「いいよ。行っておいで」と、気持ちよく送り出してやる。こういう人が裏で頑張ってるから世の中は回ってる。ただひとつ難点があるとすれば声が大きいことだ。聞き付けた女子たちが「え?文ちゃんの彼女?」と、トーテムポールのように次々カーテンから顔を覗かせた。
「違うってば。あんまり見るなよ」
二人の時間を邪魔したくなかったので追い払った。文ちゃんは働きどうしだったし、ちょうどいい休憩だった。僕は彼女が注文したゼリーを運ぶついでに「もう少しで終わりだから外回ってくれば?」と促した。
「キッペイ君?」
彼女が僕に微笑み掛けた。「文吾君からよくお話伺ってます。石廊と申します。はじめまして」
僕も慌てて挨拶した。確かにはじめましてなのだが、僕はそんな感じがしない。けどとても優しそうで、あの夢のように怒るようには見えない。けれども、僕を見上げる彼女もなにかを思い出すような目をしていた。
正午が近付き、閉店を知らせる放送が流れると、徐々に客足も減った。執事カフェも店じまいの準備を始めたが、文ちゃんと彼女はまだ教室に残っていた。女連れで歩いたら校内がパニックになるからと、富里の口添えがあったからだ。二人はパリと音楽の話をしていた。
「シャンゼリゼ通りはたばこの吸い殻と犬のフンだらけなのよ。フランス人ってほんとにマナーが悪いの」
嘆く彼女に携帯で返事をする文ちゃんはずっとにこにこしていたが、傍目にも彼女に恋愛感情がないのが分かる。テーブルの距離以上に近付こうともせず、スキンシップも一切なかった。同じく片思い中の身だから、背もたれから体を離すことのない文ちゃんが切な過ぎて胸が痛かった。
「じゃあそろそろ帰るわね。よかったら明日青木先生の所に一緒にレッスンに行かない?連絡したら会ってくださるそうだから」
彼女は始終あっさりしていた。立ち上がると三十センチぐらい背丈の差があって、それが思いの開きと比例してるようだった。
最後のお客さんだった石廊さんを見送るためにみんなで通路に出た。
すると「あ」と亀山が奥を指差して呟いた。「白井君いる」
え?と思って見ると、本当に階段の近くに白井がいた。黒いキャップを間深に被り、ちゃんと制服を着ていた。こちらの視線に気付いてるのに首を折って背を向け、ポケットに手を突っ込んでいた。
「来たじゃん」
宮野が手を振った。目の端に捉えたらしい白井は、もじもじと忙しなく動き、ラッパーかギャングかみたいにちょっと肩をいからせて歩いて来た。
本心なのか虚勢なのか、ずっとすかした風だった。
「もうちょい早く来ればよかったのに。もう店閉めるぜ」
緑川が声を掛けると、少しオーバー気味に手を振った。
「あーいいんだ。ちょっと見に来ただけだから。すぐ帰るし」
デザインした内装の出来を気にしていたが、それだけではなさそうだった。別れを惜しみに来た。留年の通達が取り戻せない時間と気付いたのか「懐かしいなあ。まだおれの机ってあるの?」と自虐的に振る舞った。
「来ればいいじゃん。来年の三月までこのクラスなんだから」
「もう意味ねーじゃん。いいんだ辞めっから。最後に見ておこうかなって挨拶来ただけだから。お前らがなんかうるさかったからさ」
よくできてんじゃん、と吊るしたバラを指で揺らした。
「いくじなしめ」
亀山だった。内股の足でドアの横からじっと白井を見ていた。
「なんだよ」
即座に反応し、そちらに向かおうとする白井を緑川と宮野が止めた。
「違うなら来ればいいじゃん。逃げてるだけなのにカッコいいつもりなの?」
止めろよと誰かが注意したが、僕は亀山に同意だった。留年は仕方なくても退学には賛成できない。そっちにこそ意思なんてないと思ったからだ。不穏な空気が流れた。晴れていた空にいつしか雲が増え、教室の窓は明るいのに廊下側はやたら暗い変な空模様で、お客さんもいなくなったせいか、一気に学校全体が暗くなったようだった。
「よかった。来てくれたの」
名木さんだった。亀山の後ろに立つ笑顔に喜びが滲んでいた。白井はそちらを見ないように目線を逸らしていた。さっきまでの強気な態度は影を潜め、最後だから、と強調するように言った。
二人の間になんらかのトラブルがあったのを亀山が目撃していたが、内容までは分からない。第三者が介入しちゃいけないことかもしれないし、とっくに解決済みかもしれない。むやみに蒸し返さないよう僕は教室を出て文ちゃんと石廊さんに声を掛けた。二人はまだそこにいたから。
「文ちゃん送って来なよ。こっちは大丈夫だから。すみません。なんかゴタゴタしちゃって。今日は来てくださってありがとうございました」
「ううん。こちらこそ楽しかった。どうもありがとう。文吾君のこと宜しくね」
すると名木さんがはっとした顔で「もしかして石廊紀子さんですか?今年のショパンコンクールで準優勝だった。周防君からお話聞いてます。すごいですね。おめでとうございます」とこちらに寄ってきて言った。
「ありがとう…。でも全然。優勝してないからまだまだよ。文吾君、ここでいいわ。あとで連絡するから。じゃあまた」
彼女はちっとも嬉しくなさそうに髪を耳に掛けた。優勝以外は意味がないというように。すると、階段から女子バスの三年生が集団で歩いてくるのが見えた。高岡を先頭に医療ドラマの総回診みたいにぞろぞろとこちらに迫ってきた。そして目をくれず文ちゃんの前に立ち、上目遣いで睨み付けた。
「あんたのお父さんって刑務所いたんだってね。人殺したんでしょ」
物騒な文言が目の前を掠めた。聞き取れていたからこそ、全部の動きが停止した。刑務所?僕の混乱をよそに高岡はさらに続けた。
「調べたんだからね。よく普通に学校に来れるね。そんなヤバい親がいるのに。あたしたちまで危険に巻き込む気?」
何を言ってるのか理解できない。なのに高岡たちは文ちゃんのお父さんが人殺しだと、よってたかって責め立てた。
「よしなさいよ。あなたたち」名木さんが高岡の肩を押した。
「なによ。暴力?手を出したでしょ」
「どっちが暴力よ。止しなさいよこんなこと」
「ふん。助け合っちゃって。白井よりお兄さんの心配でもすれば?殺人犯が作った仏像に手を合わせて効果あるの?」
高岡は腕を組んで顎を突き出した。形相が違っていた。こいつこんな嫌な顔してたっけ?洗脳がとうとう中身を破って表面に現れ出していた。
騒ぎに気づいて教室からわらわらと出てきた。たこ焼き屋を閉めた隣のクラスの生徒らも「なに、なに?」と集まってきた。
「なんだよ、どうしたよ」
宮野と緑川が僕に尋ねたが、こちらも分かってない。頭がクラッシュして説明がつかない。立ち尽くす文ちゃんは息が荒くなっていた。助けなきゃと思うのに足がこわばる。高岡たちは、やまたのおろちのように口々に文ちゃんの父親についてわめいて糾弾した。
「ーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
文ちゃんは耳を塞いでしゃがみ込み、言葉にならぬ咆哮を絶叫した。音波のように甲高い、ガラスが突き刺すような悲痛な悲鳴だった。
「大丈夫だよ文ちゃん。こっちおいで。大丈夫だからおいで」
富里は文ちゃんを抱きしめた。膝の間に顔を埋める文ちゃんは瀕死の猫みたいな息を吐きながら首を振り続けていた。白井や清水も声を掛けたが、文ちゃんは動けずにいた。緑川が「おい!」と高岡たちに怒鳴った。
「こんなことしてなにが目的だよ。藤崎の差し金だろ。弱い人間ばっかり標的にしやがって。口の利けないと知ってて大勢で攻撃して最低だろ。反撃できないと分かってる相手によ。やり方が汚ねえんだよ。いっつもな」
なによ、関係ないでしょ。言い返す高岡たちと激しい口論になった。押し問答でぐちゃぐちゃになり、廊下は騒然とした。僕はただ立ち尽くしていた。何をしたらいいのか分からなかった。
「どいて」と石廊さんは数十センチ大きい男子たちの間を掻き分けてゆき、まだ緑川と怒鳴り合ってる高岡の頬をばしんと叩いた。はっと場が止まった。「叩いたわね」高岡はカッと目を見開いた。
「叩いたわよ。なんか文句ある?」
「みんな見たわよね。暴行でしょ。警察に電話してよ」
「しなさいよ。その代わりこっちも名誉毀損で訴えてやるから。弁護士揃えて、あんたの人生丸ごと潰すぐらいの賠償請求してやるから覚悟なさいよ。ほら、電話しなさいよ。早くなさいよ」
女子十一人を前に一歩も引かず、逆に圧倒していた。「弁護士」や「賠償請求」のワードは高校生にとって未知の恐怖だ。僕でも知ってるハイブランドのバッグが説得力に加担する。本当にそのぐらいできてしまいそうなバックボーン。あれは正夢だったと思った。僕がなにもできないから、彼女は怒って睨み付けていたのだ。
「かーえーれ。かーえーれ」
赤城チームの女子たちが手を叩いて言い出した。それはたちまち広がり、隣のクラスの生徒までも巻き込んで大合唱になった。地割れのように響き、包囲網に高岡たちに表情が強張っていった。そして「行こう」とぞろぞろと歩き出した。
「もう戻って来ないでいいぞ。お前がいなくても誰も寂しくねえから。この先どうすればいいか藤崎に相談してこいよ。お前らの教祖にな」
犬を追い払うみたいに手を振った。バイバーイと女子たちが叫んだ。こちらをじっと見ていた高岡は、一文字に口を結んだまま廊下を走って行った。
目の縁が潤んでいた。一部の生徒は勝利したように湧いたが、僕はどちらにも寄り添えない自分に途方に暮れていた。
「ーほらな。どんなに綺麗事言ったって、これが学校ってものの実態だよ。弱った獲物をとことんまで追い詰める。こんな所来たくないに決まってるだろ。結局みんな自分のことしか考えてねえんだから」
白井は床に膝を付けて文ちゃんの背中を擦った。
「文吾、帰ろうぜ。こんなとこいる必要ねえよ」
冷たい水が僕らを黙らせた。学校は常に弱者を虐げる狩り場だ。高岡や女子バスの部員たちも藤崎に操られていた。純粋な小娘だから、自分の復讐に利用されただけなのだ。
文ちゃんは石廊さんと一緒に帰宅した。白井も同行した。先生を呼びに行った小坂と和久田が戻るまで僕らは教室に残っていた。走ってきた先生に僕が最初から話した。先生は眉を潜めて聞いていた。
「何分ぐらい前に文吾は帰ったんや」
「七、八分前ぐらいです。かなり興奮してて、過呼吸みたいになってて…」
「一緒にいたのは誰や。文吾の知り合いか」
「石廊さんっていう女の人です。ピアノ教室が一緒だったっていう」
「ああ。石廊楽器のお嬢さんか。それならいい。ご両親とも知り合いじゃ。
文吾だけか?帰ったのは」
「白井も一緒です。さっき来たんです。終わりぐらいに」
「なんやあいつ。来たら声掛けえ言うてたのに。店見たんか?」
「はい。見てから帰りました」
腕を組むと木槌のように膨らむ上腕。ブラジリアン柔術で二度の優勝経験のある腕に絞められたら10秒であの世行きだろう。清濁併せ呑む逞しさ。救えもするし絶つこともできる腕だ。
ドアをぴっちり閉めた教室の隅にホットプレートと余った紙皿が重ねられていた。飾り付けはそのままなのに、華やかだった活気はすっかり消え失せていた。誰もがためらっていたが「先生」と富里が口を開いた。
「さっき、高岡さんが言ってたんですけど、どうしても答えられないならいいんですけど、文ちゃんのお父さんのことって本当なんですか?先生は知ってるんですか?」
「なんや、なに言うたんじゃ」
「文ちゃんのお父さんがーその…、刑務所にいたとか、その…」
先生の顔色がつと変わった。いらんことを、の囁きが、下がる口元から聞こえていた。
「わしゃなんも言わん。お前らも自分のおらん時に家族の話されたら不愉快じゃろ。分かっとるならすな」
「違います」すかさず石黒が声を張り上げた。
「どうせなら先生から教えてもらいたいんです。このまま家に帰ったら、全員パソコンで検索します。ネットの切り抜きより、全体を把握してる人から教えてもらった方が受け入れられます。僕は先月文ちゃんのお父さんにお会いしました。とても優しい方でした。だからこそ根も葉もない侮辱なら許せないんです。それだけじゃない。この噂が蔓延した時、僕らはどうしたらいいですか。文ちゃんは言い返せません。さっきみたいな、あんな可哀想な姿をもうみたくないんです」
その時放送が入った。電話が入ってると先生を呼び出していた。短い息を吐いた先生は「分かった」と腕時計を見た。
「話せるかどうかは分からん。まず文吾の様子を確認してくる。残りたい奴だけ残れ。ほんかしちゃんと背負えるか胸に問いかけてからにしろ」
口ぶりからして事実なんだろう。先生が出ていった教室は全員いるとは思えないぐらいの静寂が広がっていた。知りたいが聞いていいのか。どちらを選べば文ちゃんを守れるのか。委ねられた判断にみんなも迷っていた。
「どうすんの?キッペイは」
前髪を上げた宮野はりりしい眉毛が際立っていた。
「おれは残ろうかな。文ちゃんの味方になりたいから。宮野は?」
「おれも残る。実はだけど、文ちゃんのお父さんからちょっと聞いてたんだよね。昔そういう所にいたって。それが気になってたからさ…」
え?と僕は驚いた。「いつそんなん聞いたの?」
「最近だよ。石黒と三人で文ちゃんの家に行った時に阿修羅像見せてもらっただろ。それに魅せられたっていうか、おれもこういうの作ってみたいなって思ったんだよね。キッペイには黙ってたんだけど、あれから何度か工房行って、家具の作業場とかも見学させてもらってたんだ。ただの材木が加工されて組み合わさって、自分の手でなんか作れるっていいなって。高校卒業したら周防木工所に就職しようかなって本気で考えて、文ちゃんのお父さんに相談したんだよ。断られはしなかったけど、大学に行ってからでも遅くないよって言われたんだ。それで、住み込みのお弟子さんがいるから、みんなそうされたんですかって聞いたら、うーん、てちょっと沈黙してから教えてくれたんだよね。文ちゃんの家にいるお弟子さんの半分は少年院とかに入ってた人なんだって。出所したけど身寄りがないとか、家族に見放されて行くとこのない若者を雇って、自立できるように家具作りを仕込んでやってるんだってさ。その時に自分も昔過ちを犯したから償いをするつもりでそういう子の面倒を見てるんだよって。詳しくは聞けなかったけど、仏像彫ったりしてるのも、そういうのに繋がってるのかなあって思ってさ。だから知ってたっていってもそのぐらいで、なにがあったのかまでは全然…」
そっか…。聞きながら後悔していた。理系に強いからそっち方面に進学すると思ってたのに、全然違う夢に向かっていた。宮野が胸の中だけで育てていた小さな苗を摘んでしまった気がした。
するとカタンと音がし、亀山がリュックを背負いだした。
「かめちゃん帰るの?」
富里が尋ねた。「うん」と亀山はスカートのひだを直した。
「文吾くんは文吾くんだから。あたしにとっては」
そしてヘッドホンを装着してすたすたと教室を出ていった。
「私も失礼するよ。かめちゃんに激しく同意だ。文吾君は友達さ。それだけで十分。残った人達は先生から聞いた話を私には教えないでほしい。去るというのはそういう意思表示だ。こちらの気持ちを尊重してもらいたい。それを守ってもらえないなら誰も聞かないでほしい。なんのために知りたいかを熟考してからにして頂きたい」
小坂もいなくなると「じゃあ私も帰る」「おれもいいわ」と女子も男子も
どんどん出ていった。残ったのは十人にも満たず、聞きたがる僕は、ひどく下品な人間になったような気がした。
