99:1 ⑭
4 男女区分区域
「あーもう。なんなのよ。部長の確認ミスのせいなのに、どうして私が残業させられなきゃならないの。今日は早く帰って映画観ようと思ってたのに、予定がめちゃくちゃよ。もう疲れた。ごめんね。こんな時間に」
残業で終電に乗り遅れたミカは、自分の家より近い親友のルナの家に泊めてもらおうと、コンビニで傘を買うついでに、いちごムースをお土産に土砂降りの中を歩いてきた。
「わあ、びしょびしょ。すぐお風呂入りなよ」
ルナはミカをすぐにバスルームに案内した。二月の雨は体を冷やした。41度の湯船に浸かると、気持ちがよくて長い息が漏れる。その間にルナが着替えを用意しておいてくれた。ミカの方が背丈があり、ルナの方が華奢だが、それほど体型に差はない。どちらかの部屋に泊まる時の服の貸し借りはいつものこと。このレモンイエローのパジャマも今ではミカ専用になっていた。袖を通すと自分の家とは違う柔軟剤がふわりと香る。肌になじんだパジャマだが、ここはルナの部屋だなと懐かしい気持ちになる。
バスルームから出てくると、ルナは仕事用デスクに座ってタブレットで作業していた。ミカが着ていた萌葱色のスーツとパンツはハンガーに掛けられて壁に干されていた。肩は左右対称、皺も伸ばしてあり、濡れていなければデパートの売り物のように見える。ルナがやっておいてくれたのだ。几帳面な性格が服一枚で分かる。
「ありがとね。干してくれて」
ミカはルナの後ろから画面を覗いた。タッチペンを動かしながら器用に色や線を修正してゆく。描いているのは動物だった。キリンやクマやライオンが草原で楽しそうに遊んでいる。どうやら絵本の挿絵のようだった。イラストレーターのルナの描く絵は優しいタッチでいつも可愛らしい。
「うまいねえ」
ミカは感心しながら腕を組んだ。
「ありがと。動物は得意だから」
ルナは肩を竦め、またペンを走らせた。
「ごめんね。締切り近かった?」
「ううん。手直ししてただけ。ねえお腹空いたでしょ。ビーフシチュー温めておいたから食べる?」
ルナは画面をスリープして立ち上がり、キッチンへ歩いて行った。 いつ来ても整頓されたキッチン。流し台には洗い残しの食器どころか水滴も残っていない。 ルナは戸棚を開きながらひょいと顔を出し「たくさん食べるね?」とミカに尋ねた。 軽やかな声とさらりとした前髪が揺れた。
「うん、もらっていいなら」
ミカは笑い返した。ルナはにっこりと頷いた。「サラダもいるよね。ちょうどレタスとトマトも余ってたんだ。あ、冷蔵庫にビールとワインあるよ。勝手に飲んでいいから」
てきぱきと動きだした。彼女はいつでももてなしてくれる。料理が上手で、出してくれるメニューにハズレはない。正直なミカもそれあてにしていた。他にも友達はいるが、深夜でもおいしいものをごちそうしてくれるルナの家を選んでやってきたのだった。
もちろん彼女とは仲良しだ。高校、大学の同級生で、社会人になってからも月に三度は会っている。互いの好きなものや苦手なことを熟知しており、日常生活の些細なエピソードも全部話す親友だった。とはいえ二人の時間、喋っているのはミカの方が多い。
ルナはおとなしい性格で、自己主張がなく、聞き役に回っては「へえ」だの「そうなんだ」と相槌を打つのがほとんど。彼女のお喋りが止まらない場面に遭遇したことがない。まるで羽毛に包まれてるようにほんわかしていて、ミカにとって居心地のいい友人だった。
ビーフシチューはやはり絶品だった。店に出してもおかしくないほどまろやかで上品な味。具材の大きさや切り方もひと口でぱくりと食べるのにちょうどいいサイズだった。
「うわあおいしい。お肉もめっちゃ柔らかい。フルーティーなのにすごいコクもある」
「マンゴーをミキサーに掛けたの。色々試してこれが一番おいしかったから」
「へえ。意外な隠し味。いいこと聞いた。今度私も作ってみよう」
「玉葱を冷凍してから炒めるといいよ。しなしなになるのも早いし、溶けて全体がまろやかになるから」
熱々のシチューだが、息吹く時間も惜しく、ミカは舌を軽くヤケドしながらスプーンを口に運んだ。料理を褒められるとルナは自然な笑みになる。彼女は顔やスタイルを褒められるより、センスや自分だけが発見した工夫を称賛されると喜ぶ。クリエイターの性質なのだろう。微笑みを絶やさないルナだが、角度の決まった口角より、つい緩んだ口許の方がずっと可愛かった。
ミカはもう缶ビールを二本空にしていた。仕事後のアルコールは最高で、そこにおいしいご飯があれば言うことなしだ。 二十八歳にもなれば酔って燥ぎたくなる夜もあるが、ルナはいつも付き合い程度に飲むだけで、介抱はしても、介抱されている姿は見たことがない。
いつもきちんとしている。ルナの紹介文を書くとしたら、一行目はそれで始まる。自身の気の弱さをよく理解しているから、周りを巻き込まないように生きている。整然と。正しく。はみ出ないように。だから他人と接さずに、自分のペースで出来るイラストレーターを仕事に選んだ。
ミカはそんなルナが好きだが、保守的過ぎて気の毒とも思う。けれど彼女の生き方にとやかく言うつもりはない。それもルナの自由で、彼女はひとりで生きて行く準備を常に整えているのだった。
この国では男女は完全に分離された区域で生活している。ミカとルナの生活圏内に男性はひとりもおらず、女性のみで社会を成り立たせていた。だが男性の存在は知っている。小学二年生までは男女同じ教室で学び、女子は十五歳まで両親と一緒に暮らすのだ。満十六歳になると親元を離れ、独身女性のみが居住する「女性区域」で生活するようになる。そこには一切男性はいない。学生時代は寮で共同生活を送り、卒業すれば独立するが、就職先にいるのも当然女性だけ。後輩も同僚も上司も男性の存在しない、完全なる女の園だった。
女性区域はひとつの大きな島になっているため、大都会もあれば、のどかな田舎の地方都市もある。IT企業やアパレル関係で働く女性もいれば、農業や漁業で生計を立てる女性もいる。彼女等が豊かにのびのび暮らせることが憲法の第一条。だからみんな周りの目など気にもせず、ゆったりと朗らかに生活していた。
雨は依然、激しく降っており、雷が低く唸り続けていた。稲妻の光を怖がるルナはカーテンをぴっちり閉め、停電に備えて懐中電灯も用意していた。
「そういえばもう返事送った?明日までだよね。中秋の島の申し込み」
食事を終えたミカは、ルナと一緒にデザートのいちごムースを食べていた。
「ああそうだった。忘れてた」
ルナははっとした顔で壁のカレンダーを見上げた。
「ちゃんと返事送らないと迎えがきちゃうよ。島に行きたいの?」
「全然考えてないよ。結婚なんて。仕事楽しいし、男の人と暮らせる自信ないもん」
「私も。でも今期は結構多いらしいよ。子供の数が減ってるから結婚しようと思う人が増えてるみたい」
「そうなんだ。みんな偉いなあ。向こうに渡ってちゃんと婚活するんだあ」
「私たちもあと八年だもんね。島に渡れる時期は。結婚するか、一生独身のままここで暮らすかの岐路だよね。私は結婚も出産もする気ないから全然焦ってないけどね」
「残ってる人もたくさんいるものね。大体私達、父親以外の男の人への免疫が全くないのに、いきなり島に渡って結婚相手を探すなんて無理よ。そんな怖い冒険をするぐらいなら、ここで安心して暮らしたい。じゃあ忘れないうちに返事送らなきゃ」
ルナはノートパソコンを開いた。メールの着信をクリックすると『中秋の島へのご案内』 というメッセージが届いていた。
『独身女性の皆様へ。
半期に一度の中秋の島へのご案内をさせていただきます。
本国では満二十歳から三十六歳までの結婚を希望される女性を対象に、
出会いの場である中秋の島への渡航者を募っております。
現在中秋の島に待機されている独身男性は十二万人おり、
花嫁候補を待ち望んでおります。
婚姻は義務ではありませんが、出生率の低下が問題となっており
ひとりでも多くの子供の誕生が望まれております。
良い御縁との出会いを逃さぬよう、是非前向きにご検討ください』
二十歳に達した時から毎月送られてくる案内メール。要は結婚の斡旋であった。SSM以後、極端に減少した女性の安全と性別の不平等をなくすため、男女の生活区域が完全に区別されたが、結婚適齢期になると中秋の島というエリアに渡航して相手を探す婚活を国が推進するのである。女性は満二十歳から三十六歳まで。男性は二十二歳から三十八歳までの十六年間だけ、その資格が与えられる。
渡航は毎年四月と十月の二回。期間中なら何度でも渡航できる。毎回三千人前後の女性が参加し、無事結婚がまとまれば、もう女性区域には戻ってこない。そこで暮らし、子供を育て、十五歳になれば区域に送り出す。誕生からの結婚まで、そのサイクルで回っていた。
二人共、今日まで一度も渡航していない。周りでは珍しい方だった。すぐさま結婚に至らずとも、ある程度の年齢になれば異性と接したくなるのが当然で、それは不純な感情ではないが、ルナもミカも全くその気がなかった。
「でもどうして男の人は三十八歳までで、女の人は三十六歳までなのかな」
ルナはテーブルに頬杖を付いた。ミカはお尻を滑らせて隣にやってきた。
「男は子供を十五歳まで育てられる年齢。女は母子ともに健康な状態で出産できる年齢で決めてるらしいよ。三十過ぎると卵巣が老化して受精しにくくなったりするんだって。三十六ぐらいまでが高齢出産にならない年齢のギリなのよ。やっぱり二人で子育てするっていうのが夫婦の基本だからさ」
「そっかあ。私のお母さんも二十七歳で私を生んだって言ってたなあ。SSMのせいで男の人は短命になったから、遅い結婚だと子育てできなくなるのかあ。それじゃ寂しいよねえ」
ルナの視線がふっと宙に逃げた。両親の話題になると彼女の空気が止まる。未だに癒えていない心の傷にミカは少し安心する。ルナと自分は仲間だと。さりげなく肩をくっつけて「けど子供って案外たくましいもんだよね。 親のいない所で学ぶことの方が多いしさ」と笑い掛けた。こちら気遣いを察するルナは「そうだよね」とにっこりした。
「私も小学生の時に男の子にからかわれて泣いたこととか親に話せなかったもん。男の子はうるさくて粗野だってイメージが拭えないから、やっぱり結婚は無理かなあ。大人の男の人ならなおさら萎縮しちゃいそう」
「渡ってから二か月は研修期間があるんでしょ。コミュニケーションの取り方とかさ。でも申し込んだ時点で島のカタログページにログイン出来るから、気に入った人がいれば自由にやりとりしていいんだって。そこでもう仲良くなっちゃって、再会してすぐ結婚しちゃう人も多いらしいよ」
「知らない人とどうやって会話するの?みんなすごいね」
「そりゃ男に飢えてるもん。女ばかりが心地いい人もいれば、早く男とヤリたがる女もいるってことよ。生き物としてはそっちのが正常なのかもね。疼くとか言うじゃない」
「私には無縁だわ。家でひっそり絵を描いてるのが幸せよ」
「ほんと。私もこのままが気楽でいい。中秋の島なんかにゆ、か、な、い、わ」
ミカが《希望しない》のチェック欄にクリックした時だった。空が割れたかと思うほどの雷鳴がズドーンと轟いた。きゃあっ!とミカとルナは悲鳴を上げて身を縮めた。ばっと部屋が暗くなった。やだ停電!と同時に叫んだ。
どこどこ懐中電灯。スマホ、スマホとばたばたしたが、二分も経たずして光は戻った。 明るくなった部屋で互いを見合ってから「びっくりしたあ」 と笑った。エアコンや冷蔵庫に電気が戻り、モーターが唸る音がしていた。
雷のせいで電波が乱れたのか、パソコンの画面がグレーに染まっていた。ジリジリ、ジリジリ・・・と妙な音がずっとしていた。
「あれ、壊れた?」
パソコンの電源やエンターキーを押したが反応がない。えーどうしたんだろと持ち上げてみるが、どちらも機械に疎いので原因が分からない。おかしいねとテーブルに戻してカチャカチャやっていた時だった。突如画面がふっと明るくなり、カメラの作動を示す赤いランプが点灯した。
「あれ?」
ミカとルナが画面を覗き込むとぱっと切り替わり、別の映像が映し出された。それは誰かの部屋だった。木目調の壁。額に入った映画のポスターがいくつか飾ってあった。アップした髪とそでなしの黒いドレス。四連の真珠のネックレスでかすかに微笑む美しい女性。自転車の荷台から振り向く少年。ポスターの下にはベッドがあり、腰掛けている人物の左半分が見えていた。
ベージュのパーカーにグレーのズボン。足を開いた座り方と膝の形で男性と分かる。広い額の短髪。長方形の黒縁の眼鏡を掛けており、雑誌らしきものを開きながら口を動かしていた。直後に別の人物が前を横切った。
ベッドに座る男性へと近付き、コーヒーカップを渡していた。半袖の白いTシャツから伸びる腕や肩のラインでその人も男性と分かる。やや長い、うなじに掛かるぐらいのウェーブした髪で、明るいブロンズ色をしていた。 彼はこちらに背中を向けたまま、ベッドに腰掛ける男性と何か話していた。
しばらく見ていたが、これってさ…とミカが呟いた。
「ライブ映像?どこかと繋がってるの?」
ためしに音量を上げてみると「結局どっちにすんの?また旧車?」と声がした。
「うーん。やっぱそっちのがデザイン好きなんだよな。見ろよ、この1970年代のダットサン。ゴツいボンネットに丸いライト。カッコいいよな」
眼鏡の男性が立っている男性に本を見せた。ああ、そうだね。このバンパーなんか今じゃ絶対ないもんなあ…という会話が聞こえた。
初めて見る同年代の成人男性。肩の張り、背中の広さ、低い声。同じ人間なのに全く違う生き物のようだった。ミカもルナも息を潜めて見入っていた。
その時だった。顔を上げた眼鏡の男性が「あれ」とこちらに気付き「なにか映ってるぞ」と指を差した。え?と振り向いた男性と目が合った。明るい髪色をしたその男性は、はっとするほど美しい顔立ちをしていた。
彼は画面を覗き込み「え?これ本物?」と手を振った。ミカとルナは驚いて体を後退させた。その様子を見ていた向こう側の男性は「わっ繋がってるよ。ねえ、ねえ、ちょっと」と、ベッドにいた男性を呼んだ。
慌てた。怯えるルナの目が強張っていたので、カメラを消そうとミカは腕を伸ばした。直後にまたこちらを向いた男性は、笑顔で手を振ってきた。
「こんばんは。そちらはどこですか?」
驚きと好奇心がブレンドされた声のトーン。まるで航空ショーを見つめる子供のように目が輝いていた。親しげで屈託がなく、困惑はさせられても嫌悪感は感じなかった。
どうする?ミカは目だけでルナに問うた。ルナは口元を閉じたまま固まっていた。いきなり見知らぬ男性に話しかけられたら無理もない。心を許した相手としか会話ができない内向的な性格。怖がらせたくないので、ミカは無視してカメラを消そうとした。すると「あれ」とベッドからやってきた男性は目を細めて見つめてきた。
「もしかしてですけど、黄色い服の方、お姉さんいません?」
スイッチに置いた手が止まり、ミカは眼鏡の男性を見直した。姉という戸棚の引き出しが開き、ふうっと彼のシルエットが浮かんできた。
「ーえ?もしかして上弦さんですか。お姉ちゃんの旦那さんの弟さん…?」
「ああそうです。兄貴の子供が生まれて病院で会ったのが最後だから…六年振りかな。まさかこんなとこで。どうも。お久し振りです」
彼は頭を下げた。ミカも慌てて正座し「こちらこそお久しぶりです。ご無沙汰しております」とお辞儀した。
まさにこんなとこでだ。髪もボサボサ。しかもパジャマ。血の繋がりのない親戚だからこそすっぴんがめちゃくちゃ恥ずかしかった。 彼はもうひとりの男性に「兄貴の嫁さんの妹」と話していた。えーそうなんだ、と彼はわくわくしたように「すっごい偶然じゃん」と笑った。
「はじめまして。上弦の友達の新月です。ルームシェア仲間です。男島の十六夜地区にあるマンションの1806号室にいます。そちらはもしかして女性地区ですか?」
彼が問い掛けた直後、画面が真っ暗になった。ルナがパソコンの電源を消していた。彼女は前を向いたまま口唇を震わせて涙ぐんでいた。
「いやよ、こんなの。いや!」
ルナはキッチンに駆けていった。ミカも頭が混乱していたが、珍しく取り乱したルナを放っておけず様子を見に行くと、彼女は流し台の前で膝を抱えて泣いていた。
