99:1 ③
ロシアンが十三歳。ミヌエットが九歳になった年、止まらぬ少子化を食い止める「特別対策委員」が設置され、母親のペルシャが二十人の委員のひとりに選出された。遺伝子研究への助成や、不妊治療、代理出産を支援する社会保障も充実させたが、劇的な変化はないままだった。
そんな時、町内の夫婦に双子の女の子が誕生して湧いた。政府からは二倍のお祝い金が贈られ、メディアも詰め掛け、遠方からも見物客が訪れた。スコティッシュとカールと名付けられた、同じ顔の赤ちゃんを抱く夫婦は笑顔に満ちていた。
人口危機の深刻さを実感できていないロシアンにも、女の子が希少な存在であることは理解できる。しかしながら母ペルシャの歓迎ぶりは過剰だった。連日双子の家へ通い詰め、週末にはディナーに招待する。その子らを取り上げる媒体には、ペルシャとミヌエットは当然のようにセットで登場した。
いつしかロシアンの住む地域は「治安と待遇のいい町」として有名になり、女の子のいる世帯が次々越してきた。アパレルショップや雑貨店が増えて通りはカラフルになり、学校に女生徒がいるのも珍しくなくなった。ミヌエットに同年代の友達が増えると、家では頻繁にパーティーが開かれ、両親は豪華な料理やプレゼントを振る舞った。
ロシアンは女の子が家に来る度に外に逃げた。同盟を結ぶ彼女らは結束が固く、女性賛歌の歌を肩を組んで合唱したりする。男をないがしろにしてはいじわるを楽しむ。居場所を奪われたロシアンはどんどん女が嫌いになっていったが、対策委員の母親は気持ちを察してくれない。
「ロシアンもそろそろポイント貯めなさい。あなたちっとも増やしていないでしょ。ちゃんと役目を果たしなさいよ」
リビングの片付けを手伝わされていたロシアンは口を尖らせた。姉や妹がいる男子はあらかじめ5000ポイントが与えられているが、他人を陥れる「密告ポイント」など欲しくないし、結婚にも興味がない。息子を利用して女性の勢力を拡大しようとする母のやり方が、何より気に入らなかった。
それでもコラットのことはずっと好きだった。人気は衰えず、出てくるだけで客を魅了するきらめきは変わらない。ロシアンは毎回客席でコラットを眩しく見つめた。ローマ神話風のドレープのある白いドレスや、ボーイッシュなウエスタン。演目によってコスチュームを替えても、彼女の美しさは変わらなかった。常連のロシアンはいつしか顔なじみになり、目が合うとウインクを寄越したり、帽子から出した赤い薔薇をくれたりするようになった。
夜も眠れぬほどときめきながらも、コラットの素性は謎に包まれていた。年齢も、本当に口が利けないのかも知らない。手の届かない存在だからこそ、彼女に会える公演日は欠かさず通い詰めた。
サーカスが町を去る日、ロシアンは必ず広場へ向かった。コラットは力仕事はせず、動物たちを檻に誘導していた。
口笛を吹いて通り掛かったふりをする。気が付いたコラットが振り向くと、ロシアンはわざと顔を逸らす。するとコラットは小道具の小太鼓を軽く叩く。なんだろうという顔をして足を止めると、水兵服姿のコラットがにっこり手を振る。ロシアンもぎごちなく振り返す。 赤面がばれない距離で。
「また半年後においで」と団員に追い払われるまで、惜しむように彼女の姿を目に焼き付けていた。
待ち焦がれた半年後、サーカスは来なかった。隣町での公演中、観覧していた女の子が空中ブランコに驚いて失神してしまい、サーカスに解散命令が出たのだ。子供に悪影響を及ぼし、動物も虐待していると、対策委員の即決だった。異論はなかった。対策委員の半数は女性。抗議できるはずなかった。
がらんとしたままの広場は、土は乾いてひび割れ、雑草も生えだしていた。お祭りが消滅した町は漂白剤で無理やり白くしたセーターのようだった。対策委員の浄化作戦は粛々と実行され、危険物と見なされたものを完全シャットアウトする保守体制を順守した。
ロシアンは無言を貫いて母親に抗議をした。母親のペルシャともミヌエットとも一切口を利かなくなった。一度も喋らなかったコラットに同調してのレジスタンスだった。
「勝手になさい」
母はロシアンの抵抗を相手にしなかった。手の掛かる息子に見せつけるようにミヌエットを溺愛し、新調したドレスで毎晩パーティーに出かけた。この頃になると、 父親のトイガーもめっきり同行しなくなり、家でベースボールの試合を見ていた。父親と二人ならロシアンも家で会話する。
母親とミヌエットが外出している夜、数年振りにファストフード店に行き、 テイクアウトしたハンバーガーセットを向かい合って食べた。
「やっぱりテリヤキバーガーはうまいな」
父親のトイガーは笑いながら口の端のソースをナプキンで拭いた。ロシアンも懐かしい味を堪能した。男同士の背徳の楽しみ。ミルクシェイクが甘く感じるのは大人になったせいかもしれないが、それでもやっぱりおいしい。とろけるチーズがこぼれないよう工夫しながら頬張る。ポテトを摘んだ塩味の指までもごちそうだった。
「あーおいしかったね。久し振りだから余計おいしく感じたよ」
ロシアンは余韻を楽しむように歯に挟まった千切りキャベツを噛み砕いた。ほんとだな、と父親も空の紙コップを重ねた。そしてペルシャに見つからないよう、一緒に2ブロック先のゴミ箱まで捨てにいった。
ステッキ型の外灯の銀色光。静寂に包まれた月夜の住宅街に靴音が響き、ミステリー小説のワンシーンのようだった。トレンチコートにソフト帽が似合いそうな夜だが、父親もロシアンもよれたパーカーにジーンズのラフな服装で、その自由さが心地よかった。
「ーロシアンは、ポイント貯めないのかい?」
父親が不意に尋ねた。ロシアンは、返事ともつかない相槌を打って頷いた。
「うん…。そうまでは…したくなくて…」
「まあそうだよな。分かるよ。サーカスの子が忘れられないのか?」
ロシアンは俯いていた。机に飾ってあるブロマイドを父親も知っているのだ。微笑むティンカーベルを。ちらと横を見上げた。白髪が目立ち始めた父親はミヌエットが生まれてからやや太ったが、ペルシャに注意されてダイエットしたおかげで、顎のラインがくっきりと浮き出ていた。四十三歳という年齢も加わり、こんなにもやつれていたかと、白銀の明かりが気付かせた。 パパは怖くなかったの?聞きたいが、答えが怖くて口に出せなかった。
すると、しいんとした通りにへっへっへっ…と激しい呼吸が響き、暗闇から垂れた頬を揺らす茶色いブルドッグがぺたぺたと現れた。その後ろから、リードを握る見慣れぬ男が出てきた。ぼさぼさの長い髪に、白髪の混じった顎髭は鎖骨まで届いていた。犬は左へ左へと進む癖があるらしく、男はよろよろしながら修正するが、力が強いのかかなり引っ張られている。言い様のない不気味さを感じたロシアンは父親の後ろに身を隠したが、犬は無邪気に寄って来て足元にまとわりついてくる。
「夜道なので気をつけて下さいね」
父親のトイガーは注意することなく、優しい口調で男から離れようとしたが「こりゃこりゃ、お偉い奥様の旦那様」と、男はだらしない口許で笑いかけてきた。
「どうか独り身の前科者にも人間らしい施しをお願いしますよ。こいつにも長生きさせたいんでねえ。頼みますよ先生。ねえ、坊っちゃん」
犬は目をぎょろぎょろさせて息を弾ませていた。しまい忘れた長い舌を出し、主人に同意するような視線でロシアンたちを見つめていた。
男はよたよたと歩いていった。ロシアンは足が重くなり、ひどくやるせなくなった。父親との会話も途切れ、その糸先をもう見つけられなかった。
ふと振り向くと、老人も立ち止まってこちらを見ていた。白い満月を背負った彼は、逆光のせいか皺が消えていた。背筋が伸びていて、さっきより若返った気がした。ロシアンは怖くなって慌てて目を逸らした。
対策委員は対象から外れる者には厳しい。逮捕歴のある者はまともな仕事にも就けず、社会保障も受けられない。華やかな通りから一本入った路地裏には年々ホームレスが増えていた。世界の光と影が見えるようになっていた。
この国は鉱山とカニ漁が二大産業で、どちらも激務であった。警備隊に逮捕された者は刑務所に入るわけでなく、落石事故が相次ぐ鉱山で働くか、北海の荒波の船に乗ることが刑罰だった。年間二百人以上亡くなる危険な仕事は、国家予算の七割の利益を生む。彼等の命と引き換えに女性の保身は徹底されているのだった。
あの人も鉱山か船にいたのかな。考えながら足下に目を落とした。有名ブランドのスニーカー。数万円する限定品。母親がもらってきたこの靴が踏んでいるものはなんだろう。今この時だって、小さな虫がラバーの溝に挟まっているかもしれない。六月なのに、シャツと背中の間を抜ける空気はひんやりしていた。
「ーどうにもならないさ」 ふと父親が呟いた。
「この世界は男が作ったんだからな。歴史を紐解くとそうらしい。これは反
撃なのさ。女性は昔、社会的弱者だった。不公平さに嫌気が差して、男ばかりを生むようになり、こんな比率になっちまった。この国のやり方は極端かもしれないが、そうでもしなければ女性は安全に暮らせないから仕方ない。おれたちは透明の騎士だ。邪魔にならないように闘う衛兵さ。お前がポイントを貯めたくない気持ちも分かる。色んなことが見えてくると戸惑うよな。けどこれからもっと締め付けが厳しくなってくるだろう。子孫を残すのも大事な任務だ。結婚は、決して恥ずべき生き方ではないぞ」
♢♢♢
答えが出ぬまま三年が過ぎ、ロシアンは高校一年生になった。しかしポイントは初期値の5000から増えていない。幼馴染のミケも同様にゼロのままで、周囲から落ちこぼれのレッテルを貼られていたが、絆は強固になっていた。
二人とも図書委員で、貸出カードを埋める読書量を競い合った。国語や歴史が得意なロシアンと、数学や生物に長けたミケ。互いに教え合う二人の成績は、学年の一位と二位を独占していた。密告ポイントを稼ぐことには興味がなくとも、知識の収集には余念がなかった。
転機は突然訪れた。ミケが独学で進めていた「メダカの産み分け研究」の論文が科学雑誌に掲載され、国立ゲノム研究所の目に留まったのだ。夏休み明け、ミケは研究所付属の高校へと転校することになった。「男女比率を百年前の状態に戻し、密告ポイント制度をなくしたい」という二人の夢をミケに託し、ロシアンは彼を送り出した。
しかし、現実は過酷だった。家に戻れば、社会の歪みを象徴する母親のペルシャが君臨している。彼女は対策委員の委員長に上り詰め、徹底した管理社会を築いていた。取り締まりの強化によって産業は活性化し、町には巨大な商業施設が建ち並び、特急列車が停まるほどに発展を遂げた。彼女は時代の寵児としてメディアを席巻し、その傍らには常にミヌエットを従えていた。
十二歳になったミヌエットは、母の思想を忠実に受け継いでいた。大人びた口調で「女性優位社会」の必要性を説き、兄のロシアンを蔑んだ。ポイントを貯めようとしないのは愛国心と女性への敬意を欠く不届きなものだと、憎しみを込めた瞳で睨みつけるのだった。
堪えながら無視していたが、我慢は限界まで来ていた。そんな彼を見かねた父親のトイガーは、夏休みの間、自宅から遠い牧場でのアルバイトを勧めた。大企業の役員を務める父もまた、対策委員として権勢を振るう妻に疲弊し、一年の半分を旅先で過ごすことで家庭から逃避していた。この国では妻の同意がなければ離婚は認められず、夫の不貞は即座に逮捕へ繋がる。父にとっての逃亡と同様、牧場での滞在はロシアンにとって救いだった。
四方を山に囲まれた田舎町は、鳥のさえずりだけが響く静かな場所だった。母親やミヌエットがいないだけで空気が清々しい。迎えてくれたのは、気のいい老夫婦と、十歳年上の息子キムリックだった。
ロシアンの毎日は、朝四時の搾乳から始まった。牛舎の掃除や干し草の補充、機械の洗浄。匂いや重労働に慣れるまでは苦労したが、毎日が充実していた。奥さんがこしらえるチーズは市場に並べればすぐに売り切れてしまうほど人気だった。まろやかでコクがあり、ワインにもバゲットにもサーモンにも合うと評判で、ロシアンも一口食べて虜になった。温度調節や塩の配合に至るまで、彼女独自のレシピがあり、製法は門外不出となっていた。
夕食後は手を取り合って踊る夫婦に、バイク好きでハンサムなキムリックとの交流は、ロシアンの心を解きほぐしていった。キムリックは地域の青年団を率いる人望の厚い男で、ロシアンを改造バイクのタンデムに乗せ、海や競馬場へと連れていってくれた。
ある夜、森の奥にあるキムリックが仲間と集うコテージへ招かれた。
「お前ももう、一人前の男だ」
ロシアンはそこで酒と煙草を教わった。大人の男として迎えられるのが嬉しかった。気取りなく、みんな女性上位制度の愚痴を零す。 このコテージはそういう場所だった。日頃の不満をぶちまける本音の家。誰も密告しないと信じ合っているからだ。ロシアンもここでなら意見を吐きだせた。母親の前では決して口にできない、蓄積された鬱憤を解放した。
彼等は村外れにある裏宿に時々通っていた。性風俗は法律で厳しく禁じられているため表向きはバーだが、合い言葉をマスターに伝えると地下に続くドアに案内される。 階段を降りてゆくと、十五、六人ほどの少年が小部屋で待っている。当然非合法だが、どこの町でも隠れて商売していた。女性の少ない世界では必要な性産業で、 議員や警備隊もお忍びで通っていた。
ロシアンの町でも三年前まで一軒だけあったが、摘発によって店ごと撤去された。勧めていた少年は全員逮捕。客のリストも世間に晒され、数百人が一度に拘束される大事件となった。彼等は真夏の炎天下に裸足で通りを歩かされ、沿道に立つ町民から石や腐ったオレンジを投げられ罵声を浴びせられた。窓から見ていたロシアンは恐怖を植え付けられたが「快楽を知ってこそ大人だぜ」 というキムリックの言葉には強い引力があった。
摘発は怖いが好奇心には勝てなかった。ロシアンはキムリックに連れられ、初めて裏宿のある店に行った。カウンターでビールを注文したキムリックは、チェックのシャツのマスターに軽く目配せをし「今日はラガマフィンは売ってるかい?」と低い声で言った。「ああ100ドルからな」彼は表情を変えずにグラスを拭いた。
「 じゃあひとつもらおうか。ラズベリー多めで」
マスターがカウンターに手の平を乗せると、キムリックはその上に自分の手を重ねた。 100ドル札と小さな鍵が交換された。カウンターの下でロシアンに鍵を渡したキムリックは「右のドア」と小さく呟いた。6号室と札の付いた鍵を握るロシアンは途端に気忙しい気持ちになった。
