ホワイトルーム・オープン・ザ・ドア ⑬
「あ?なんだ?誰に言ってるんだ?」
「お前にだよ。なんだよ今の。それが教師のやることかよ。謝れよ」
赤城は椅子を鳴らして立ち上がった。袖を捲った腕に筋が浮かんでいる。
藤崎は出席簿とタブレットを脇に抱えた。
「もう授業はできないな。あとは好きにしてろ」
教壇を降りてさっさと出て行こうとする藤崎の前を赤城が塞いだ。
「逃げんのかよ。逃げてばっかだな。落ち度を認めたくねえから、うやむやにすんの得意だもんな」
「その口のきき方はなんだ。停学になりたいならしてやるぞ。授業妨害に暴言。四日間は謹慎になるだろうな。受験に響くんじゃないか?」
余裕を見せたい藤崎はわざわざ挑発する。発火の早い赤城が手を出さぬよう、村上や緑川、五人の男子が駆け寄った。教室内は一触即発の張り詰めた緊張感に包まれた。
文ちゃんへの言動は明らかに障害者への侮辱だ。教育者としてあり得ないが、反省して真摯に謝罪すれば心証は変わる。間違っていたら正す。それこそが教育のはずなのに、なめられたくない藤崎は頑なに拒否し、話の論点をすり替えていた。
「悪いのはそっちじゃん」と女生徒も加勢し始めた。熱の回りは早く、沸点に到達するのは時間の問題で、暴動になりかねなかった。非があるのはこいつなのに、手を出したら罰を受けるのはこちらだ。どうしたらいいんだろう。席に座ったまま迷っていると「止めろよ」と宮野が立ち上がった。
「文ちゃんが可哀想だ。こんなこと望んでない。ムキになるだけこっちが損する。謝罪なんかするわけない。心がないんだからな。こういう人間にならないための見本にすればいい。ちゃんとやってくれてるだろ。反面教師をさ」
しいんとした直後、後ろの席からぱちぱちと拍手が聞こえた。亀山だった。南天の口唇を突き出して、真っ直ぐ前を見ながら手を叩いていた。すると僕の左横の小坂もがたんと立ち上がり、シンバルを鳴らすみたいな拍手をした。清水や富里もそれに続いた。僕のチームの女子たちから次々手を叩いていた。やがて男子生徒も加わり、僕も座ったまま拍手したが、手を膝に置いたままの生徒が六人だけいた。
石黒。名木さん。百瀬。佐々木。文ちゃん。高岡。
黙ったままの藤崎の背中が膨らんでいた。そして文ちゃんに顔だけ向けて「配慮がなかった」と告げた。頭は一ミリも下がっておらず、本人の前まで来ようともしなかった。そして赤城たちをどかすように出席簿を振りながらドアの取っ手に指を掛け「お前、名前は?」と聞いた。宮野は即座に立ち上がった。
「宮野幸寛です。み、や、の、ゆ、き、ひ、ろ。覚えましたか?さっき指されて答えましたけどね。ついさっき」
僕は宮野こそが心配だった。そんなヤバい奴と敵対するなよ。けど立ち上がって制止できなかった。無茶するなよと、視線を投げるのが精一杯だった。
「覚えておくよ」
藤崎は顎をしゃくり、教室から出ていった。逃げるわけじゃない。こんなガキの相手をしてられないだけ。そう言いたげな溜め息混じりで。
こんな大人がいるんだ。こいつに教わらなきゃならないほど僕らは非力なのか。白井の机に目がいった。これは抗議なんだと思った。行けないんじゃなく、来ないというアンチテーゼ。 多分それを全員が理解した。
「ひどいね文ちゃん。気にしちゃダメだよ、あんな奴のこと」
励ます富里や清水に「平気だよ」と文ちゃんは笑い、処刑前のように椅子に凭れながら「あーやっちまったかも」と繰り返す宮野の肩をずっと撫でていた。ヒートアップした自分にまたもや落ち込んでいたが、今この教室で間違いなく宮野が一番カッコよかった。
まだ雨はざあざあ降っていた。外が暗いせいで、蛍光灯がやけに明るい。
授業が中断になり、席を離れてお喋りする生徒がほとんどだったが、着席したまま自習をする生徒もいた。二年からの持ち上がりのクラスで、大体こんな奴と分かっていたつもりなのに、人物像は僕の分類とまるで違っていた。さっきの一件は、まるでレントゲンみたいに中身を見せた。
思いがけず露になった赤城の正義感。学級委員なのに押し黙ったままの石黒。迎合しないはずの亀山にファーストペンギン。藤崎とのいざこざを半笑いで携帯で撮っていた百瀬。目立つのを好まなかった宮野の一撃。そして文ちゃんの親友と自負してたのに庇えなかった自分…。
けれど突然のよう違った役をやりだしたんじゃなく、見せていなかっただけ。学校にいる時だけ被る仮面がある。それが取れ掛けていた。プロジェクトが始まってから少しずつ。
宮野たちが呼び出しを食らうんじゃないかと心配したが、放課後に戻ってきた鎧塚先生を通しての注意もなかった。ピリついたが手は出してないし、そもそも原因を作ったのは藤崎だ。経緯を説明すれば自分の立場も危うくなるから不問に伏せたのだろうけど、卑怯な奴はどこまでも卑怯なんだと思った。
五時限目の終わりに「今日なら会っていい」と文ちゃんの携帯に白井から返事が来た。亀山に伝えると「私も行っていい?」と富里が言った。交渉人はひとりでも多い方がいい。これは楽しいものなんだと白井に印象付けたいから、特殊能力を持った二人は心強かった。
いつもの坂道を女子二人を加えた五人で歩く。こんな青春シチュエーションは初めてでときめいた。なぜ外だと女の子がやたら眩しく見えるのか。雨なのにさわやか。あの騒動のせいで気分が高揚していたから、軽薄なノリトークもなんだかやれてしまえた。
「かめりん、なんで白井の家に行くことにしたの?」
宮野が振り向いて聞いた。
「面白そうだから。白井君さ、前に文吾くんとライブ来てくれたことあんの。そのお返ししに」
「えー、白井、かめちゃんのライブ来たの?いつ?」
宮野の隣の富里も傘越しに振り向いた。
「チェキも一緒に撮ったよ。サインしてあげたもん」
すると文ちゃんは財布からチェキを出して見せた。
『いつもありがとね。かめりん』
メッセージの横に本当にサインも書いてあった。毎日会えるクラスメイトと千円払ってチェキを撮る。面白ければ損ではない遊び心は文ちゃんらしかった。名刺大のチェキで亀山と文ちゃんは並んでにっこりポーズしていた。亀山は珍しく可愛らしく笑っていた。白地に紫のラインの入った丸みを帯びたミニスカート、頭に紫のリボンを着けていた。学校に来る時はいつも黄色いものを身に付けてるのに、メンバーカラーが紫なのが意外だった。単に黄色が好きだったらしく、そっちが見慣れてるから、紫が違和感だった。
宮野には白井の家に行く理由を話していたが、内装を依頼するのには少し懐疑的だった。
「やらないって言ったら、もう次に行く理由作れないぞ。勝算あんの?」
「やるって言うまで、ねばる」
根拠はないが底知れなさがあるのが亀山だった。水脈のない所でダイヤモンドを掘り当てるような、謎を秘めた可能性に期待したかった。
「もはや自縛霊だな」と宮野が笑うと「怖いよ」と亀山は真顔で言った。
白井の家は桜木町駅からバスで五つ目の停留所を降りてすぐだった。住宅メーカーのモデルルームみたいな三階建ての白い家。門扉はなく、1・5メートルほどの高さの銀柱に「SHIRAI 」と刻まれた長方形の表札が付いていた。ビルトインのガレージには白いBMW と紺色のアウディ。外壁と玄関前に360度撮影可能の監視カメラが設置してあり、今は傘を握り閉めてる僕たちを録画していた。
「むっちゃ豪邸じゃん。まさにホワイトな家だし。えー白井ってこんなに金持ちだったんだ」
富里は、はあーと息を吐いた。文ちゃんがメールを送ると、数秒後に三階にある左の窓のカーテンがちらりと開いた。煙った雨で見えにくいが、白井とはっきり確認できた。文ちゃんが手を振ると白井はカーテンを揺らした。僕も軽く傘を振った。目が会った気がしたが、特にリアクションはなく、すいとカーテンが下がった。
『行こうよ』
文ちゃんに付いて歩きだしたが、富里はじっと家を見上げたままだった。小石を打ち付けるような固い音の雨が傘に落ちて、背中からしとどに流れていた。
「来ないの?」
声を掛けると我に返ったように歩きだした。五段の階段を上がり、玄関ポーチで傘を畳んで滴を落としていると、採光の小窓が縦に三つ並ぶ扉がゆっくり開き「おー、ほんとに李子が来たぜ」と白井が顔を出した。予想とビンゴの反応だった。すげえと思うと「ほらね」と亀山はにやりとした。
トムとジェリーのTシャツにオレンジのハーフパンツ。半年ぶりの白井は最後の印象とほぼ変わってなかった。固そうな髪。ひょうたん形の輪郭に、やや出っ歯な口元。160センチ前後の小柄な体型。早口で、文ちゃんにはちょっと大口を叩く。文吾、と呼び捨てし「昨日のジャンク聞いた?」と、前置きなく会話に入る。顔色もよく、病人には見えなかった。
「元気?」
どう話したらいいか分からず、無難なことしか言えなかった。白井の間にわだかまりがあるわけでもないのに、対面するとなんか気まずい。けれど出迎えてくれたってことは僕らに敵意はないようだ。「まあ別に普通」とちょっと照れた顔をしていた。僕らを待っていたけど、待ってましたと悟られたくない。無理に明るさを隠すようなそっけなさだった。これなら話しやすいかも。第一関門を突破して、内心ホッとしていた。
「部屋汚ねえから地下室でいい?」
白井が左後ろを親指で指した。地下室もあるのかよとおののくしかない。百瀬が言っていた通り、白井の家は豪邸だった。宮殿みたいな吹き抜けの玄関ロビーに、金色の縁取りが付いたカーブ状の階段。シャンパンカラーのシャンデリア。わななくように前足を上げた馬の彫刻。高級ホテルのフロントのようで、僕も富里も、もげそうに首を反らして家の中を見回した。
「まあまあ、どうぞ。お上がりになって」
白井の母親がミニチュアダックスフンドを抱っこして右奥の間口から出てきた。白井を女装させたように輪郭がそっくりで「レナちゃんていうのよ」と犬の鼻先をこちらに向けた。僕らはまちまちに挨拶しながら犬に愛想笑いした。亀山が「かわいい」と首の辺りを撫でると「来月で六歳になるのよ。国産のビーフしか食べないからほんとに大変なの」と話し始めた。
こういう時犬を連れてくるかねと思った。ただ友達が遊びに来たわけじゃない。これから大事な話が始まるかもしれないと仮定すれば、犬を閉じ込めておくべきな気がする。
この母親にとって息子の不登校はたいした問題ではないのか、もう慣れきってしまっているのか、それとも犬によって逆に緊張を和らげているのか。いずれにしても引き受けざるを得ない仕事を与えられた犬は母親の腕にすっぽり収まり、どうぞ好きなだけ撫でてくださいと場違いに目を爛々とさせていた。
「もう引っ込んでていいよ」
留まろうとする母親を白井は追い払った。親との会話を聞かれたくないのは不登校でも同じらしい。「上がれよ」とズボンのポッケに手を入れて白井はそっちに歩きだした。レナちゃんをいつまでもそうさせてるわけにもいかないので、靴を脱ぐ準備をした時だった。
「ここでいいよ。話しに来ただけだから」
さっと富里が遮った。パキっとスイッチが入った口調だった。そして文化祭で執事カフェをやるから内装やってくれない?と端的に伝えた。
「え、え、おれがなんで?」
「全員参加だからだよ。それとも執事やる?うちらでスタイリストしてあげるよ」
言い方はキツかったが、富里なりに刺を抜こうとしていた。家に入りたくないようで、とにかく短時間の説明で済まそうとしていた。予算は三千円。女の子のお客さんが喜ぶように可愛く。けど執事カフェっぽくカッコよくしてほしいと店のコンセプトを伝えた。
「小坂老中が白井君はセンスいいからって白羽の矢が立ったの。引き受けてくれるなら今週中に文ちゃんに知らせて。私らも手伝うから。それだけ。じゃあね。どうもお邪魔しました」
僕らが話す隙もなく「帰ろう」と踵を返して扉を開いた。ひんやりした空気が入ってきた。傘を掴んだ富里は雨が叩く階段を振り向かずに降りていった。僕と亀山は顔を見合わせた。文ちゃんが富里を心配してドアから外を覗き『待ってるよ』と、言うように指を指した。もういいよと亀山は頷いた。
「…じゃあ、そういうことなんで、返事待ってるからさ」
湿度の高い雨と土が混じって焦げ臭い匂い立ち込めていた。言うことは言った。富里が気がかりだった。
「来週の土曜さ、高円寺でライブあるんだ。メンバーのみんみんの生誕祭だから、チェキ代半額だよ」
亀山は「じゃあねえ」と出ていった。白井はぽかんとして僕らを見ていた。何が起きたんだと混乱してる。僕も分かってなかった。
「文吾、文吾も帰るのか?お前はいろよ。ほら、前に話したジェンツーペンギンのドキュメンタリー、録画しておいたから見て行けよ。四十五分ぐらいだから。な?」
白井は足を前に出して文ちゃんを引き留めた。もうやることがない僕に『ここにいる』と文ちゃんは指を下に向けた。靴を脱いで家に上がると『明日ね』と口を動かした。白井は安心したように「あとさ、ミリオン・ファンファーレのランキング、31位まで上昇したんだぜ。一昨日の178位からめっちゃアップしたよ。前までどうしても突破できないオーシャンブルー部隊ってのがいてさ、そいつらがすげえウザいんだよ。けどさあ…」とマシンガンみたいに喋りだした。そして思い出したように「あっ、またな」と僕に言って、文ちゃんと階段を上がっていった。
僕と犬を抱いた母親が玄関に残された。マラソンを終えたランナーみたいなレナちゃんの荒い息が、いつしか僕の動悸とリンクしていた。
このまま帰っていいのか?
内装の依頼は山吹チームのアイデアで、僕らが説得しなきゃいけないのに、これじゃ文ちゃんに任せることになってしまう。それではみんなで考えた意味がない。二人が階段を上がりきった刹那に「なあ!」と見切れそうな背中に呼び掛けた。
「執事カフェやるのうちのクラスだけだから。男子みんな開き直ってキメキメで店に立つからさ、これが最後の文化祭だからやろうな、みんなで、な」
白井が口を半開きにして見下ろしていた。心臓がバクバクしていた。自分らしくないことをした時のアレだ。こんな強引なやり方じゃ拒絶されるかもしれない。何こいつ?と思われているかもしれない。けど思っていることを口にする以外、伝える方法がないから仕方がない。
「ああ」
虚を衝かれたように返事し「じゃ」と奥に消えていった。もっと他に言うことがあった気がする。けど、みんな待ってるよとか、そんな白々しいことは言えなかった。そんなことを言われたらもっと足が遠のく。学校はみんなのために行くわけじゃない。みんながいる所に自分が行くかどうかだから。
お邪魔しました、と告げてから玄関を出た。ポーチに立つと、表札の柱の横に傘を差した亀山が立っていた。景色がぼやけてても亀山の白い肌は溶けない氷みたいに光っていた。なんだかそれに勇気付けられる。迷うなよ、と言われてるようだった。五メートルほど離れた場所に富里もいた。俯いて立つ傘が鳥の羽ばたきみたいにばさばさ鳴っていた。
