チャレがや企画/ちほうのまち、の、じけん
空はどんよりとした灰色に濁っていた。
海風が潮の香りと共に、どこか饐えたような臭いを運んでくる。かつては漁業と観光で賑わった地方都市のS 町は、今や「腐った町」という不名誉な呼び名が定着していた。
その腐敗の源流は、町の中心に鎮座する警察署にある。全国民から「役立たず」と呼ばれる施設は、そこに暮らす町民らの名も汚す悪の象徴だった。
半年前、一人の若い女性がこの署に何度もストーカー被害を訴えていた。別れ話を切り出した恋人の男から執拗に復縁を迫られていると保護を求めた。付きまとい。数秒ごとに送られてくるメッセージ。ポストに投函される脅しの手紙。震える手で証拠のメールや写真を差し出した彼女に対し、生活安全課の刑事は鼻で笑った。
「色恋沙汰に警察は介入できないんだ。引っ越しするか、新しい彼氏を作ったら?それに君も相手を刺激しない格好をしたらどうだい?」
一週間後、彼女は仕事の帰り道に、待ち伏せしていた男に刺殺された。通報から到着まで三十分以上。犯人も取り逃がした。ストーカー被害を隠すべく、通り魔事件にすり替えようとしたからだ。
事件後、遺族が泣きながら対応の怠慢と謝罪を求めても、署長の大河内は「できる限りの対応はした」と無機質なコメントのみを繰り返した。
また、立て続けに発生した強盗に怯えた商店街の店主たちが防犯カメラの設置を要請した際も、警察は予算を他に回すため、赤いランプが点滅するダミーカメラを設置してごまかした。
さらに三ヶ月前、市立の中学校の男性教師、佐藤が校舎の屋上から身を投げた。彼の遺品からは、同僚の教師たちから受けていた凄惨な嫌がらせの記録が見つかった。教材を破壊され、人格を否定する言葉を浴びせられ、亡くなる二日前には、放課後の教室で裸に四つん這いで、給食の残飯を食べる姿を撮影された動画が、共有サイトにアップされる屈辱を受けた。
だが警察は「事件性なし」として早々に捜査を打ち切った。首謀者とされる教師のひとりが、市議会議員の息子だったからだ。町民の心には、黒く重い澱が溜まっていた。
警察は我々を守らない。それどころか強きを助け、弱きを挫く装置に成り下がっている。そんな沈黙の怒りに包まれていたある火曜日、事件は起きた。
♢♢♢
午後三時。警察署長の大河内の妻である美津子と、四歳になる孫の翔太が、買い物帰りのスーパーの駐車場から忽然と姿を消した。白昼堂々の誘拐だった。報告を受けた大河内は、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「町中の防犯カメラを洗え! 目撃者を一人残らず連れてこい!」
警察署の全署員に非常招集がかかった。署内は怒号と足音が飛び交い、かつてない緊張感に包まれた。しかし、その熱気は署の門を一歩出た瞬間に、冷ややかな「無関心」という名の壁に突き当たることになった。
「見ていない?そんなはずはないでしょう。午後三時のスーパーの駐車場ですよ」
若手刑事の島田は、聞き込み先の店員に向かって声を荒らげた。店員は腕を組んだまま、感情の読み取れない目で島田を見つめ「忙しかったものですから」とゆっくりと首を振った。
「それに、最近は余計なものを見ないように歩くのがこの町の知恵なんです。何かあってお巡りさんに訴えても、意味がないみたいだから」
皮肉の混じった言葉に島田は二の句が継げなかった。スーパーの向かいにある、古くから続くタバコ屋の店主を訪ねても「知らないなあ」と小型テレビを見ながら薄笑いを浮かべて答えた。彼はかつて、強盗被害に遭った際に「証拠不十分」として捜査を打ち切られた男だった。
「何か見ていませんか。どんな小さなことでもいいんです」
「さあね。私の目は節穴だから。お巡りさんたちが言ったじゃないか、『被害妄想で捜査員を動かさないでくれ』って。だから私も、自分の見たものは全部妄想だと思うことにしたんだよ」
そう言う彼の頬は、強盗に殴られて折れたせいで頬骨が左右ずれている。焦点が合わなくなった目。島田は「見えていたはずだ」と彼に言えなかった。
町全体が大河内という男を、警察という組織を、静かに、しかし徹底的に拒絶していた。聞き込みに回る先々で「かつて自分たちが警察に言われた言葉」をそのまま突き返された。それは物理的な暴力よりも鋭く、捜査員の心を削っていった。捜査本部に集まる報告は、絶望的なほどにバラバラだった。
「犯人の車は黒のセダンだった」
「白い軽トラだった」
「黒い服を着た二人組だった」
「外国人らしき五人組だった」
報告を聞く大河内署長の拳が机の上で震えていた。
「目撃者は全員署に連れてこい! 嘘をついている奴は偽証罪で…いや、とにかく吐かせろ!」
「それがみな、記憶が曖昧だと言い張るばかりで。それに、現場周辺、および逃走経路と思われる地点に設置されたカメラ、計十二台を確認しましたが八台がダミーでした。残る四台も、予算削減で録画機能が故障したまま放置されており、何も映っていませんでした」
大河内の顔から血の気が引いた。そのダミーカメラの設置を最終決定し、ハンコを押したのは自分自身だった。市民の安全よりも「予算削減」という実績アピールを優先した結果が、今、自分の首を絞めている。
だが大河内も最初から腐っていたわけではなかった。三十五年前、彼もまた正義感に燃える若手刑事だった。しかし、この街を覆う複雑な利権の網目と、事なかれ主義の組織の中で彼の正義は歪んでいった。警察など、お上の秩序を維持するための「調整の道具」に過ぎないのだと。
ストーカー被害を訴えた女性を追い返した夜、彼は高級料亭で市議会議員たちと酒を酌み交わしていた。
「大河内君、小さな虫の駆除に追われていたら、大きな森は守れんよ」
その言葉を、彼は自分への免罪符にした。女性の死を知った際、胃の奥で苦いものが込み上げるのを感じたが、それを熱いコーヒーで流し込み、書類に「適切に対応」と書き込んだ。その積み重ねが、彼の魂を少しずつ、確実に蝕んでいったのだった。
♢♢♢
三日目が過ぎても、犯人からの接触は一切なかった。身代金の要求も、政治的な声明もない。ただ、愛する妻と孫が、溶けるように消えてしまった。
大河内は夜の町を自ら歩いた。かつてストーカー被害を訴え、殺害された女性の刺殺現場となった駐輪場の前を通りかかる。今も花や飲み物が供えられていた。一度も手さえ合わさなかった過去の自分を振り切るように通り過ぎようとした時、ふと、路地裏から視線を感じた。
数人の町民が遠巻きに見ていた。彼らの目は、悲しんでいるわけでも、怯えているわけでもなかった。それは、高い見物席からデスゲーム眺めている観客の目だった。憐れみと嘲笑のまなざし。参加者が苦しめば苦しむほど愉快でたまらない静かな興奮に満ちていた。
「…誰か、見ていないのか」
大河内が掠れた声で漏らしたが、彼らは無言で背を向け、暗がりに消えていった。
五日目の朝、一本の通報が入った。それは誘拐事件に関するものではなく、違法駐車に関する苦情だった。
「学校の裏門近くに、見慣れない車がずっと停まっていて邪魔だ」
現場に向かった警官が、その車のナンバーを見て凍りついた。それは、三ヶ月前に自殺した新人教師の佐藤を追い詰めた首謀者、市議会議員の息子の所有する高級外車だった。車内を覗いた警官は絶句した。そこには、冷たくなった大河内の妻・美津子の遺体が、まるで眠っているかのように横たわっていた。
現場に駆けつけた大河内は、後部座席に横たわる妻・美津子の亡骸を目にした瞬間、その場に膝をついた。
「美津子…、嘘だろ…」
震える手で触れた肌は、初冬の空気よりも冷たかった。彼女の右の腹には鋭いナイフが突き刺さっていた。大河内をはじめとした刑事たちは遺体を見て思わず息を飲んだ。彼女の命を奪った刃物は、ストーカー被害で亡くなった女性が刺されたのと全く同じ位置に突き立てられていたのだ。
「阿部を連れてこい! 今すぐだ!」
大河内の怒号が響く。だが、任意同行で現れた阿部は、顔色一つ変えずに言い放った。
「車? 数日前から盗まれていたんですよ。警察には届け出ようと思っていましたが、忙しくてね。それより、おれの車を勝手に捜査して、傷でもついていたらどう責任を取ってくれるんですか?」
阿部教諭の取り調べは、大河内にとって地獄のような時間となった。阿部は取調室のパイプ椅子に踏んぞり返りながら言った。
「署長、あんたが一番よく知ってるはずだ。この小さな町では力を持つ者がどう扱われるべきか。佐藤の件を揉み消したのは、あんたの判断だ。今さらおれを責めるのは、天に向かって唾を吐くようなものだよ」
大河内は阿部の胸ぐらを掴み上げたが、その鏡のような阿部の瞳に映っているのは、醜く歪んだ自分自身の顔だった。
さらに、鑑識の結果が追い打ちをかけた。美津子が最後に食事をしたのはおそらく昨夜。胃の内容物から、彼女が家で漬けていたきゅうりであったことが判明した。五日前に誘拐された彼女がどうして自宅の糠床のきゅうりを食べられるのか。捜査は混乱を極め、大河内の自作自演の殺害とではないかと疑いの目が向けられた。さらに、最悪の報告が続く。
「署長、翔太君の姿が、どこにもありません」
車内には、四歳の孫、翔太が持っていた小さなヒーロー人形だけが転がっていた。犯人は妻を殺害し、あえて「警察が守った権力者」の車に遺体を遺棄した。これは明確なメッセージだった。この町の腐敗を利用した、警察への処刑宣告だ。大河内は狂ったように街へ飛び出した。
「翔太を見なかったか! 四歳の子供だ! 誰でもいい、何か知っているだろう!」
道行く人々の肩を掴み、詰め寄る。だが、返ってくるのは一様に冷ややかな拒絶だった。
「知りませんよ。防犯カメラを確認してみたらどうですか?」
「友達の家に遊びに行ったのでは?事件性があるとは思えませんね」
町民たちの言葉には隠しきれない愉悦が混じっていた。彼らにとって、この誘拐事件は悲劇ではなく、積年の恨みが晴らす「報い」の儀式。その時、大河内の携帯電話に一通のメールが届いた。
差出人は不明。添付されていたのは、暗い部屋でひとり眠る翔太の動画だった。そして、短い一文が添えられていた。
『真実を、公表せよ』
翔太の横には、ストーカー事件で亡くなった女性の写真と、自殺した佐藤が飛び降りた時に着ていたシャツが置かれていた。
♢♢♢
真実。
そのメッセージは、大河内の喉元に突きつけられた鋭利な剃刀だった。公表すれば、自分のキャリアは終わる。それどころか警察署、ひいては県警全体の信頼を失墜させる未曾有の不祥事となるだろう。しかし、公表しなければ、翔太の命はない。
大河内は署長室に籠り、震える手で煙草を吸い続けた。灰皿には吸い殻の山が築かれ、部屋には重苦しい沈黙が流れる。
ふと、デスクの引き出しの奥に隠していた一通の報告書が目に留まった。それは、自殺した新人教師・佐藤の遺族から提出され、大河内が「紛失」扱いにした、詳細な嫌がらせの証拠一覧だった。
妻を失い、孫の命が風前の灯火となって初めて、大河内は自分が踏みにじってきた人々の痛みを、己の血が流れる痛みとして理解した。
だが大河内が希望した記者会見は、知事からの通達によって封じられた。翔太の命がかかっていると、どんなに懇願しても叶えてもらえなかった。自分もまた一市民に過ぎないのだと、大河内はこの時に思い知った。
メディアでも大々的に報じられたことで警察署は苦情の電話が鳴り止まず、「人命を軽視する税金泥棒」と、ネットでも大炎上した。名誉回復のために、警察署は一転して人海戦術で翔太の捜索にあたった。かろうじて協力してくれる目撃者の情報を繋ぎ合わせると、ある場所が浮かび上がった。
町外れの海岸沿いにある、廃校になった小学校の分校。そこは、自殺した佐藤が、かつて子供たちとひまわりを植えようと夢を語っていた場所だった。
廃校となった分校の校庭の周りは、背丈ほどもある雑草に覆われていた。かつて佐藤が子供たちと植えようとしたひまわりは、手入れを失い、枯れ果てた茎が墓標のように立ち並んでいる。
大河内は、島田刑事ら数人の部下と共に、軋む廊下を静かに進んだ。奥へ進んで行くと、窓が開け放たれた教室に小さな人影が見えた。
「翔太!」
大河内が教室の扉を蹴破るように開けると、そこには椅子に座らされたまま眠っている翔太がいた。 しかし、室内には誰の姿もなかった。ただ、黒板に白いチョークで、歪な文字が書き残されているだけだった。
『お前を見ている』
島田たちが慌てて校舎内を捜索したが、犯人の痕跡は驚くほど綺麗に消し去られていた。指紋も、足跡も残っていない。 大河内は翔太のもとへ駆け寄り、その小さな体を壊れ物のように抱きしめた。 瞬間、首が折れた。
それは、人間の子供の人形だった。翔太の服を着たマネキン。首が落ちた彼は目隠しをされていた。『見ている』とは真逆のメッセージを大河内は読み取った。
『お前のしていることを子供には見せられないだろう』
愕然とする大河内の携帯が鳴った。娘からだった。どう伝えればいいのか言葉を探していると「お父さん、翔太が帰ってきたわ」と娘は息を切らして言った。
「え?」
聞き返すと、ちょうど大河内たちが学校での捜索を始めたのと同時刻頃、玄関のインターホンが鳴り、出ると翔太がひとりで立っていた。
どんな様子か訊ねると、元気だと娘は言った。怪我もしておらず、空腹も訴えておらず、怯えてもいない。身なりも綺麗だったという。孫の無事に安堵する大河内は「すぐそちらに行く」と涙を拭った。しかし「来なくていいわ」と娘は冷たく言い放った。
「お母さんを殺したのも、翔太を危険な目に遭わせたのも、全部お父さんのせいじゃない。父親が警察官ってことが、ずっと私の誇りだった。自慢のお父さんだった。でも、もう関わり合いたくない。お父さんも、この町の警察も、誰も守ってくれないと分かったから。二度と翔太には会わないで」
♢♢♢
事件は未解決のまま幕を閉じた。実行犯が誰だったのか、有力な容疑者さえ浮かばなかった。町民たちは皆、何かを知っているような素振りを見せながらも、肝心な部分では「何も見ていない」と口を揃えた。かつて警察が彼らに向けた「無関心」を突き返した。大河内は定年前に警察署を辞職し、町から姿を消した。
数ヶ月後、道路の至る所に防犯カメラが設置された。それはダミーではない。しかし、それを見上げる町民たちの目は、以前よりも厳しく鋭かった。
「警察が守らないなら、自分たちで見張るしかない」
そんな空気を根付かせたこの事件に、島田は後味の悪さを覚えずにいられなかった。犯人はストーカー事件の遺族だったのか。自殺した佐藤の教え子だったのか。あるいは、警察に絶望した町民たちの共謀だったのか。 真実は潮風に叩かれるトタンのように錆びていった。
佐藤がひまわり畑を夢見た学校にやって来た島田は、校庭の真ん中に花を手向けた。夕暮れの校舎は、前衛映画のような不気味なほどのオレンジ色に染まっていた。島田はしゃがんで合掌をし、目を閉じて冥福を祈った。
その時、ひゅうと冷たい風が吹き抜けた。ふと背後に人の気配がし、目を開いた。しゃがんだ島田を覆うように、後ろからふたつの人影が伸びていた。
はっとして振り向いたが、誰もそこにはいなかった。やけに大きな夕日が、世界を焼き尽くすような炎の色をして浮かんでいるだけだった。
この犯行を成立させたのは、誰もが「見て見ぬふり」をした、その沈黙だ。町を恨む全ての者が共犯者であり、執行人だった。
この町は変わることができるのだろうか。蔓延しきった失望を振り払うことができるのだろうか。見上げたその先には、作動している防犯カメラが島田を映し出していた。「監視」という名の怨念によって、新しい秩序が生まれようとしていた。
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こちらの企画に参加させていただきました。
コッシーさんのFS のスピンオフが面白かったので、
真似して警察ものを書いてました。
頭で話は完成しても書くのが難しいー。
コッシーさん。みくまゆたんさん。
ギリギリの提出ですが宜しくお願いいたします😊🐧
