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99:1 ④


太股の裏に汗が滲み、心臓が体内で膨らんだ気がした。スツールに垂らす足先を何度も擦り合わせていた。

「そういえば先週から『シャム』がいるぜ」

マスターがぽつりと呟くと「えっ?」とキムリックは目を見開いて首を前に出した。「シャムが?そりゃすげえ。ひと目会わせてくれよ」

「だめだめ。監督係が厳しいから。貴重な存在になにかあったらことだからね。今は療養中だよ。もともと短命種だからな」

キムリックは高揚した目で「いい時に来たな」とロシアンに耳打ちした。
「運がよければ奇跡に会えるぜ」

「奇跡?」

「シャムだよ。神の子だ。知らないのか?」彼は周囲を見回して「アンドロギュノスだ」と口に手を添えた。「え?」とロシアンは声を漏らした。

「アンドロギュノスって、神話に出てくる両性具有のニンフのことでしょ?」

「けど実際にいるんだ。しかもすげえ美形らしいぜ。おれたちと同じものが付いてるのに胸が膨らんでて、肉体はほぼ女性なんだよ。元々腹の中で一卵性双生児だったのが、なんらかの変異で片方に体が取り込まれて、男と女の双生児だと両性具有になって生まれてくるんだ。だから男であって女で、女であって男なんだ。ぶら下がってるけど子宮もあって。この国で唯一金で買える女なんだ。見てみたいだろ?」

「いいよ。僕は女を買いたいわけじゃないから」

ロシアンは立ち上がり、壁と同化しているチョコレート色の扉を引いた。肩幅分しか開かず、体を斜めにして滑り込ませた。地下に続く細い階段には照明がひとつだけ灯っていた。木目の荒い板がギイギイ軋む。宿は備品が並ぶ通路のさらに奥。四段のスチール棚には汚れたグラスや空のワインボトルなどが置かれていた。 キムリックに教えてもらった道順を辿ると、突き当たりに目印のカウチを見つけた。

くすんだチェリーブラックのカウチを前にずらすと、コンクリートの壁にしか見えない足下にわずかな溝があった。スライドさせるとするすると開いた。どこもこうして、すぐには見つからない入り組んだ隠し通路を作って営業していた。

カウチを元の位置に戻してから扉を閉じ、ゆっくり足を踏み入れた。黄色い光の壁のランタン。嗅いだことのない匂いが漂っていた。発情期の猫が放つフェロモン臭のような、煮詰めたカサブランカのような、脳を刺激する強い香りに意識がとろんとしてくる。地下とは思えぬほど分岐した廊下にはいくつもの小部屋が並んでいる。鉱山夫がたくさんいる国の、悪しき法律が生んだ副産物であった。

こんな場所があるなんて。あちこちから聞こえる激しい呼吸やスプリングの軋み。否応にも想像を掻き立てられ、手足がむずむずした。二つ目の角を曲がると、目線よりやや上の中央に「6」と書かれており、ノックしてから震える指で鍵を差し込んだ。

奥に細長い部屋の中は極めて質素だった。ベッドとソファーと猫脚の丸いテーブルだけ。窓はなく、代わりに運河の大きな吊り橋の下を客船が通る風景画が飾られていた。 ベッドにはダークブロンドのおかっぱ頭の少年が腰掛けていた。女の子にしか見えぬ少年にロシアンはふと足が竦んだ。

少年はドレープのついた膝下まである白い服を着ていた。光の具合によって素肌が透けて見える。華奢な足と薄い腕。小首を傾げる仕草や、しなやかな髪と細い頬は女の子そのもので、ロシアンはしばらく動けずに見入った。 

「そんなとこにいないでおいでよ。せっかく来たんだから遊ぼう」

彼はにっこりとロシアンの手を取った。マシュマロのように柔らかい指だった。半分だけ水の入ったガラスの水差しとグラスに視線を投げ「飲む?」と尋ねた。ロシアンは黙って首を振った。

「昨日と違う自分になれるよ。きっと気に入るから」

手を繋いでシャワー室に移動した。言葉どおり、未開の地へと踏み入れたロシアンは、新しい呼吸法と、これまでしたことのない体の使い方を教えた。スポーツのようであり、民族の儀式のようであり、痛くない解剖でもあった。負かしたいのか負かされたいのか分からぬ奇妙な感覚。どちらも汗まみれで気持ち悪いのに、無限に続けていたいほど上り詰めた。

やがて自分を支える握力がなくなったロシアンは文字通り精も根も尽き、浜辺に打ち上げられた溺死体のようにベッドに横たわった。部屋の住人は頬杖をつきながら、労うようにロシアンの肩や背中をゆっくりなぞった。

「君どこから来たの?この村の子じゃないよね」

うん。ロシアンは目を閉じたまま答えた。「遠くからだよ」

「いつまでいるの?僕、友達が欲しいんだ。また来てくれる?」

こんなことして友達なんて変なのと思ったが、同じ格好で頷いた。入り交じる充足感と背徳。大人というより兵士になったようだった。母親の知らない秘密基地で、初めて自分だけの戦法を手に入れた気がした。

ロシアンは牧場でのアルバイト代をほぼ宿代に費やした。いつも同じ相手。彼はシャルトリュといい、ロシアンより二つ年下の犯罪孤児だった。ここにいる少年のほとんどが彼と同じ境遇で、父親が捕らえられた身寄りのない少年たちが男娼となって生計を立てていた。シャルトリュの父親も言いがかりとしか思えぬ罪でカニ漁に送られていた。

「諸悪の根源は対策委員さ。ペルシャ・スノーシューが委員長になってから、誰でも彼でも逮捕されるようになった。人口も減って、今では男ですら貴重な存在なのに、このままじゃ人類は絶滅してしまうよ。守り方を間違ってる。根本を見直さなきゃ」

シャルトリュと一緒にいたいのは彼の言葉に共感するからだ。博識な彼のベッドの下には海外の古書や発禁本の小説が積み重なっていた。アクセス不可の情報に詳しい彼が語る歴史は教科書と余りに違い過ぎて、夢物語のようだった。SSMの導入後も女性の地位は中々向上しなかったこと。中絶禁止法が女児減少を招く大きな要因になったこと。女性が賄賂の貢ぎ物として扱われていたこと。衝撃の事実に驚愕するばかりだった。

「それにね、面白いデータがあるんだよ。人口危機が深刻化して、核保有と戦争が禁止になったけど、どの国でも軍隊がなくなったら出生率が下がったんだ。男は追い詰められるほど子孫を残したくなるんだ。明日をも知れない悲嘆が種をばら蒔きたくなる原動なんだね。平和で攻撃力が治まると性欲も減退するんだ。テストステロンが活性せずに中性化してくるんだって。だから戦争があった時代は子供がたくさん生まれたらしいよ。兵隊さんが出征前に仕込んでいったんだね」 

「じゃあ暴力と妊娠は切り離せないんだ。残虐行為があるからこそ、生に目覚めるんだ」

「おかしなものだよね。平和な方が安心して子育てできるのに。しかも今なら女の子が生まれれば国家レベルで守ってもらえる。君は姉妹いる?」

「妹がいるよ。ものすごくひいきされて、僕なんか透明人間さ。この状況見ていたら子供なんか欲しくなくなるよ。男が生まれる確率が高いし、半分は海か鉱山に送られる。結婚なんかうんざりだよ」 

「じゃあ女の子には全然興味ないの?」

ロシアンは返答に詰まった。じんわりと染み出る初恋の痛み。ティンカーベルが胸で羽ばたいていた。「今はね…」とぼそぼそごまかした。

「けど今の現状を本当に変えたいのなら、僕らが結婚して女の子を増やすしかないんだよな。数が増えれば女性だけが特別扱いされることはなくなるんだから。そのためには密告しなきゃならないけどさ。本当に意地の悪い制度だよなあ」 

溜め息を溢す横顔になにも言えなかった。ロシアンは彼の背中に頬を押しつけながらそっと抱きしめた。 

「そういえば君、知ってる?28号室にいるシャム。アンドロギュノスの完全体なんだよ。ものすごく美形だけど白痴でね、口が利けないんだ。ここに来る前はサーカスにいたらしいよ。150キロの巨体を宙に浮かせるマジックが得意だったんだって」

すうっと、全身が粟立った。それに当てはまる人物を知っている。四年前に忽然と消えてしまった天使。目に焼き付いている手を振る笑顔。「ーどうしたら会えるの?」震えだす腕をゆっくり解いた。

「50000ドル払えば案内されるよ。僕の知る限り、これまでひとりしか客を取ってないけどね。一箇所に留まると集まってくるから、数か月ごとに宿を変えてるんだ。どうしても会いたいなら大金を用意することだね」

いつもより早く部屋を出たロシアンは、出口と反対方向に進んで 28号室を探した。入り組んだ地下道は摘発された際の脱出通路もあって複雑な構造になっている。だが27号室はあっても28号室が見つからない。同じ場所をぐるぐる辿っていた時だった。右奥の壁に飾られた、洗礼の様子を描いた絵画が動き、ギイ…と内側に開いた。ロシアンは慌てて身を屈めてしゃがんだ。 

扉から五十代頃の小太りの男が出てきた。白シャツにネクタイ。ふさふさの白髪頭。手首に付けてる高級時計で金持ちだと分かる。驚いて見ていると、中からもうひとり別の男が顔を出した。その横顔には見覚えがあった。記憶がすぐに結び付いた。

「また半年後においで」

サーカスで告げた男だった。ロシアンは息を飲んだ。飛び出して行こうかと思った矢先、 白髪の頭を見送った男がこちらに気付いた。目を細めて、ははっ、と肩を揺らし、笑いながらやって来た。

「お前もこんなとこに出入りする歳になったのか。テントの前をウロウロしてたガキが」

男はにやにやしながらロシアンを見下ろした。黒いズボンの裾から覗く足首は枝のように細い。聞きたいことがあるのに言葉が出なかった。

「来いよ。昔のよしみだ」

 付いていった室内はシャルトリュの部屋より格段に広かった。給湯スペースの棚にはジンやワイン、スコッチの瓶が並んでいる。男はシンク脇のバットからグラスを二つ取ると、冷凍庫のロックアイスを滑り込ませ、三分の一ほどスコッチを注いだ。それをテーブルに運んで目配せした。ロシアンは、アコーディオンカーテンで仕切られた隣の部屋が気になって仕方がなかった。 

「飲めよ。お前、まさかコラットを探してここに来たのか?」 

男は奥のソファに腰掛け、グラスの氷をカラカラと鳴らした。癖なのか、口元の左側が引きつれる。ロシアンは向かいの端に座った。スコッチなど飲んだことはないが、子供扱いされたくなくて無理やり口をつけた。溶けたロウソクに煮出しすぎた紅茶を混ぜたような味がした。痺れる舌が感想に難儀していた。男はその様子をグラス越しに眺めて軽く笑った。 

「どこで聞いたんだ。コラットのこと」 

背もたれに腕を掛けて足を組んだ。ロシアンは、牧場のアルバイトに来て偶然知ったのだと正直に話した。室内は静まり返っていたが、胸の中には耳障りな砂嵐が吹き荒れていた。 

「どうして…コラットはいつから、こんな商売をしているんですか」

 ロシアンは俯いたまま声を絞り出した。 

「仕方ないのさ。珍しいものは金になるからな」

 「だからって…ひどすぎるよ。あなたは仲間だったのに、何とも思わないんですか」 

「さっきのはドクターだ。コラットを診てもらっていたんだよ。知ってるだろ、あいつの体のこと。奇妙な生き物に生まれついた哀れな天使だ」

 男は自分たちが七人兄妹の二番目と末っ子だと明かした。家族経営のサーカスが潰れ、地元で始めた動物園もハリケーンで失った。生き残った二人で、特急の客室係や芝刈りをして食いつないできたのだという。 

「おかげで色んなことを学んだぜ。けどポイントのない男に政府は厳しくてな。賃金は最低レベルなのに、税金はみんなと同じ。しかもコラットはあの通りだ。 成長するにつれて体が弱ってなあ。二十歳までに性別手術を受けないと五年保たないと言われたよ。けど手術できる医者はいないし、違法行為だから誰も手を出したがらない。おれはコラットに女になってほしくてな。それで時々ドクターにホルモン注射を打ってもらっていたわけさ」 

兄は飲み干したスコッチのグラスをテーブルに置き、カーテンで仕切られた隣の部屋に大股で入っていった。「おい、おい」と呼び掛ける声が聞こえた。ロシアンがそちらに顔を向けると、兄に抱き抱えられたコラットが出てきた。ブロンドの巻き髪。長い睫毛。サクランボの口唇。垂れた腕はなめらかなバニラ色をしていた。立ち上がって駆け寄った。彼女は眠っていた。服は着ていなかった。

ロシアンは初めてその不思議な肉体を目の当たりにした。二つの胸は膨らんでいるのに、男の象徴がちゃんとある。あの頃より顔つきは大人びていたが、天使のきらめきは失われていなかった。ロシアンは羽織っていた青いシャツを脱いで痩せた体に掛けた。無垢な寝顔に涙が零れた。 

「あなたはひどい。こんなに弱ってるのに。コラットに体を売らせるなんて…」

初めて触れた髪は絹のように細く、黄金に輝いていた。 

「生きるためだったのさ。けどここでは客を取ってない。おれたちはある男から逃げてるんだ。コラットに執心だった資産家の男だ。しつこい奴でコラットが怖がってた。どこにいても居場所を突き止めてやってくる。コラットの最初で最後の客で、そいつにしばらく囲われたんだ。あの男は異常だ。心がない。コラットが弱っても自分の欲望を満たそうとする。それで逃げてきたんだ。マスターにも口止めしていたのに、どうしてお前、ここにいると知ったんだ?」