ホワイトルーム・オープン・ザ・ドア ⑧
五時間の体育は柔道だった。公式戦ができるほど広い格技室は、まだ新しい井草の匂いがする。中学の格技場は夏は暑くて冬は寒くて地獄だったが、ここの学校は新しいから空調設備も整っていて快適だった。
ひと通り受け身の練習をしてからペアを組んで立ち技の稽古に入った。相手は元サッカー部の緑川。僕らは体型が似てる。二人とも筋肉が付きにくく、理想より5センチ足りない身長がコンプレックスなところとかも。
ごわごわした道着は生地が厚くて掴みにくい。僕は水泳、緑川はサッカーと、握力に関係ないスポーツをやってたせいか、どちらもうまく襟を引っ張れず、社交ダンスをしてるみたいにぐるぐる回っていた。おかしくて二人とも笑い出したが、ミッドフィルダーだった緑川は俊敏性があり、足技を掛けようとしても全部かわされた。
「小内刈りやらせろよ」
僕のクレームでようやく「しゃあねえなあ」と倒れてくれたが、僕が掛けられる番になると速攻で足を絡めてきては勝利を味わう。悔しいからやり返したくなる。わざとヘラヘラしながら視線を落としつつも、襟元を掴んだと同時にひねりながら引き寄せた。いとこの家で読んだ柔道漫画の主人公がライバルに勝った大技の内股で倒してやろうと思った。だが察知したらしい緑川はさっとかわした。力は僕の方があるが、運動神経のいい緑川は弾き返す。足の裏が擦れてじんじんしていた。周りは受けと技を順番にやってるのに、僕と緑川だけは互いの襟を持ったまま、本気で投げ飛ばすチャンスを探してにじり合っていた。汗が滴り、なにをこんなにムキになってるんだと自分でも分からないのに、なにかがメラメラしてて、絶対に手を離したくなかった。
「ほらそこ、試合じゃないぞ」
先生が注意した。それでも僕も緑川も力を緩めなかった。目を逸らしたらやられる。戦う因縁なんかないのに、どうしても負けたくなかった。
「こら、いい加減にしろ!」
二度目の檄が飛んできた時、流れ落ちる汗につい目を瞑ってしまい、それを見逃さなかった緑川にぐいと引っ張られて宙に浮いた。
やばい!一本取られぬよう強引に体をひねったが、回転が足りずに顔面から落ちた。直後にぬるりとした生暖かさが広がった。鼻血が出ていた。
先生にしこたま叱られてから畳の脇の板間で見学になった。昔は鼻血が出ると、上を向いてうなじとんとんが定番だったが、今は下を向いてじっとしてるが正しい処置らしい。鼻から喉に流れた血が気道に詰まらないようにするためで、言われりゃ尤もだった。ティッシュを当てたまま鼻をつまんで俯いていた。
「まだ止まんない?」
隣であぐらをかく緑川が聞いた。うーんと唸って答えた。鼻を摘んだまま喋ると徹子になる。緑川はティッシュボックスから三枚ぐらい引き抜いてほいと差し出した。「おーも」と交換するために離したティッシュは潰したトマトみたいに赤く染まっていた。
折れてはいないが、太い血管でも切ったのか、なかなか血が止まらず、何度拭いてもツーと滴ってくる。受け取った紙を当ててまた下を向いた。
「あとで牛乳おごるわ。鉄分補給しないとな」
緑川は謝らなかった。ケンカじゃなく、勝負で僕が負けただけだからだ。
しかも仕掛けたのはこっち。亀山から聞いた話でむしゃくしゃし、なんの関係もない緑川にぶつけた。それを跳ね返されてお粗末な結末を招いただけ。巻き込んで悪かったなと思っていた。
「ブッキーんとこは、ホワイトルームノックしたの?」
ぼそりと緑川が言った。「もうやってる?」
「まだなんも。そっちは?チームワークよさそうだよな」
「うちは基本やる気ない。他のチームもやるって言うから、とりあえず残留しただけ。みんな興味ないから話し合いもないよ。下手に首突っ込んで、もっと事態がこじれたら厄介だしな」
意外なほど冷めていた。この短時間でも勝負への執着をむき出しにした緑川の言葉とは思えなかった。
「石黒んとこかお前のとこかで接戦になると思ってたのに、総意なの?」
「どうしてもやりたいって意見はないね。ポジションとしてはベンチだな」
「けどツカさんともうお別れだぜ。お前先生と仲いいじゃん」
「だからガッカリさせたくないんだよ。ツカさんだって無理なミッションだって分かってるだろ。だから報奨金で釣って…」
ほら静かにしろ!みたび怒られた。急いで姿勢を直したが、僕は相変わらず鼻血が止まらないので、ひとまず保健室に行くことにした。ティッシュの箱を持ったダサいビジュアルで立ち上がった直後だった。強い光を浴びたように目の前が白一色になり、同時に吸い込まれるように深い穴に落ちた。
おいどうした!先生!先生!おい山吹!キッペイ大丈夫か?動かすな…!
薄れゆく視界に騒然とした雰囲気だけ感じていた。貧血で倒れるなんて女子かよ…。思いながら意識を失い、僕は短い夢を見た。
いつからメルヘン主義になったのか、僕は白い雲に乗って浮かんでいた。どこまでも続く緑鮮やかな丘陵地帯を飛んでいて、落ちやしないかと心配しながら見下ろしている。銅板のような湖。あちこち点在する羊の群れ。行ったことないのに、スコットランドかニュージーランドだろうと思っていた。
ふと横を見ると、隣にも雲が浮かんでいて、携帯で見せてもらった文ちゃんが好きな女の人がいた。栗色の肩までの髪にピンクのカーディガン。面識もないのに彼女は僕に怒った顔で何か叫んでいた。風速音に邪魔されて聞こえない。必死に耳を近付けようとするが、彼女の雲はどんどん加速してゆき、とうとう僕を追い越していった。
なんだったんだろうと思っているうち雲はガタガタと揺れだした。減速しながら下降する雲は徐々に形を失い始め、わたあめみたいに左右に千切れて透けた地上が見えてくる。
どうしようどうしよう。あたふたする間もなく、雲は完全に消滅し、直立したまま落ちていった。ひいいいいいいいと目を瞑った。
ぐしゃり。当然そうなると思っていたのに、ぼよーんと体が浮き、なぜかトランポリンの上にいた。文ちゃんが笑いながら脇に立っていた。
「さっきまで文ちゃんの好きな人がいたよ。どっか行っちゃったけど、一緒にいたんだよ」
話しかけても手を後ろにしてにこにこしてるだけだった。異様に波打つトランポリンの弾力に阻まれて進めない。自分の体重のせいで平行が保てなくなる吊り橋と一緒で、動けば動くほど揺さぶられた。
なんだこれ。どうすりゃいいの。なす術なく翻弄される。そのうちクラスのみんなが周りにいて笑っていた。羞恥の熱で体が燃えそうになる。ぐるんと後ろに一回転した時、トランポリンの面を掴んで上げたりしてる奴がいた。白井だった。荒波を起こしながら僕に言った。
「お前は✕✕だから**なんだよ。○○だろ?△△だもんな。そうだろ?」
なに言ってるか分からない。肝心な部分が書き消される。聞き返そうと四つん這いになって近寄った時、網目の隙間に足がずぼっと嵌まった。
霞がかった視界に覗き込むクラスメイトが見えた。あーよかったという声が一斉に降ってきた。見慣れた若草色の壁と化粧屋根裏式の天井の構造でここが格技室と分かる。どれほどの時間気を失ってたのか。体育教師の他に保健の先生と鎧塚先生もいた。不安そうな顔で「大丈夫か?わしのこと分かるか?」とゆっくり聞いた。首を深く上下すると「まだあんまり動かすな」と腕を擦った。意識がはっきりしているかの確認で、いくつか質問された。名前や生年月日など。呂律も記憶もはっきりしていたし、自力で起き上がることもできた。ただの貧血らしいと保健の先生が判断し、病院には行かなくて済んだ。授業が中断されて、みんな胴着のまま端で待機していた。個人感情でいきり立ったせいの失態。悪いことしたなと、不甲斐なさに落ち込んだ。
「大丈夫か、キッペイ」
宮野と文ちゃんがそろりと近付いてきた。どちらも怯えるような顔をしていた。
「大丈夫。ごめんな。なんかおおごとになっちゃって」
「いいよ。よかったよ目開けて。マジで怖かったよ」
「おれどんぐらい気失ってた?」
「五分ないぐらいかな。呼んでも目開けないから、みんなで代わる代わる心臓マッサージやったんだぜ。ほら、袖にちょっと血が着いてるだろ」
宮野、文ちゃん、緑川、蘇生に協力してくれた人の胴着の袖や裾に赤黒いシミが滲んでいた。夢の中のトランポリンの振動は、心臓マッサージのせいだったのか。あの時は歩けずに困っていたがおかげで救われた。心配過ぎて不安だったのだろう、文ちゃんは睫毛が濡れていた。
どうして会ったこともない文ちゃんの片思いの人が夢に現れて、なぜあんなに僕を怒っていたのか。またそのことをうまく説明できない。そして白井からのダメ出し。聞き取れなかったが、見に覚えがある疚しさへの指摘であるのは分かっていた。ただの夢だけど、自分の意識が働かないところからメッセージはより深層へ問いかけてくる。
汚れた顔と首元を洗ってから教室に戻る途中「ブッキー、血止まったあ?」と赤城チームの女の子らに聞かれた。噂は早く、机の上に200ml の牛乳パックが十三個置かれていた。ひやかしか善意かはともかく、今の僕に鉄分は必要だった。
「ありがとうございます。ご心配お掛けしました」
遠巻きに見ていたクラスメイトら全方向に向かってお辞儀した。あちこちで笑いがさざめいた。笑って下さいよと思った。そっちの方が楽。けど大量の牛乳は飲みきれるかなと困っていた。
「大丈夫か?」
歩いてきた石黒が「ほうれん草入ってるから」とパックの野菜ジュースを差し出した。色が着いてるだけでもホッとした。
「ありがと。悪いことしたな。迷惑掛けて」
「いいよ。助かった。おれ柔道嫌いだから。身体接触苦手だから正直中止になってよかったよ。あ、お前が怪我してよかったって意味じゃないからな」
石黒の性格は知ってる。苦手なものが多いが、人の不幸を喜ぶタイプではない。僕はありがたくジュースを受け取った。
「ところでなんだけど、あれの話していい?」
トーンでピンとくる。「あれね、ホワイトね」
「今うちのチーム完全二極化なんだよ。名木さん以外みんな後込みしてんだよね。多数決では完全否決なんだけど、文ちゃんに報告していいのかと思ってさ。どう思う?」
まだスタート地点でまごついているようだった。名木さんの名前に静かに反応する。赤城や藤崎のいじめが原因なら白井は被害者だが、本当に名木さんにストーカーしてたなら加害者だ。どちらも学校に来づらいだろうが、立て直し方はまるきり違う。謝罪する側とされる側では。でも事情を知ってる名木さんがやりたいなら僕は止められない。うっかり口を滑らせて亀山に聞いた話を言わないよう、血の巡りが悪い頭でもそこだけは守っていた。
「そりゃ…だめだろ。一番やる気のある人なのに」
「やっぱだめかな。おれリーダーなんだけど
「百瀬が今日白井の家に行くって言ってたぜ。報告聞いてからもう一回考え直せば?」
「まじで?まあ同じ中学だったから共通の話題もあるもんな。じゃあ百瀬がなんとかしてくれるといいな。おれたちよりは白井も会いやすいだろうから」
「でも全然連絡取ってなかったってよ。白井も文ちゃんに頼まれて、まあまあ…みたいな」
「じゃあ白井は知らないんだ。それによってアプローチがだいぶ変わってくるかなって思ってたんだけど」
僕がさっぱり及ばない疑問をみなは抱いていた。目的達成のプロジェクトなのか、白井に選ばれるためのコンテストなのか。けど何があっても出て行かないと白井が決めていたらどちらでも一緒だ。
「知らないっぽいよ。そうなったらほんとにゲームだから」
「だよな。だったらおれ絶対やらないから。良きに計らえ的に献上品を品定めされるなんて真っ平だ。こっちは時間割いてるのに、向こうの好みで勝ち負け付けられるなんて腹が立つよ」
その時名木さんが小坂と教室に入ってきた。二人は僕に目を留めるとそのまま席までやって来た。
「大丈夫?血止まった?」
今日もあの香りがする。至近距離だとまた鼻血が出るんじゃないかと心配になった。奥の方に血が固まってる鼻でもちゃんと香ってくる。
「もう平気。暑かったから、止まんなくなっちゃって」
ビックリしたよね、と話す二人は僕の机の上の牛乳パックを見て、すごいねと笑った。この笑顔を曇らせる勇気がない。先に精査する問題があるからと「ストーカー疑惑」を最後のページに差し入れた。
「こんなに飲みきれないからいる?」
いい、とどちらも断った。
「それ君のチームメイトからのプレゼントだよ。みんなで下の購買で買ったんだ。ひとり二本ずつ。あと一本は緑川君から」
小坂はふくふくの丸い頬でにっかりした。絶対男子の悪ふざけと思っていた僕はぽかんとした。振り向くと、後ろの席でヘッドホンをしたまま音楽雑誌を開いていた亀山と目が合った。分りやすく「うわ」とサイレントした亀山は直後に雑誌で顔を隠した。さらにその背後、ロッカーの前でたむろしていた清水と他二人も突然横を向き、黒板の前にいた富里も、そそくさと教室をでていった。
どゆこと?大量の牛乳パックを眺めてると「愛されてるね、リーダー」と名木さんはクスクスした。
「あれ、牛乳あんじゃん」
後ろのドアから入ってきた文ちゃんと宮野も二本ずつ牛乳パックを持っていて、机に並べた。計十七本のミルク。異様な光景に、通りかかった赤城が「店か!」とツッコむと、ぷーっ!と後方から吹き出す声が響いた。
びっくりしてみんな注目した。亀山だった。これまで一度も教室で笑ったことのない亀山の笑い声に室内がしいんとした。驚きで全員茫然とした。けど即座に視線に気付いた亀山は、忍者みたいな早業で教室から出ていった。取り繕って食い縛る南天の実が可愛く、僕はつい目で追いかけてしまった。
あの亀山が笑った衝撃は一大事件となり、地味な男子生徒が失神したお粗末な騒動はすぐに消え去った。それでも十七本の牛乳は確かに僕のために届けられたもので、亀山が笑ってくれなかったら、泣いてたかもしれないほどに嬉しかった。
百瀬からの結果を聞いてから話し合おうとチームに声を掛けに行ったが、亀山はさっさと帰ってしまい、裏方業のある清水も既にいなくなっていた。無視されてる富里を後に、取りあえず話しやすい三人にその旨を伝え「あと、牛乳、ありがと」と付け足した。
恥ずかしさのせいでカーナビみたいな喋り方になった。アクセントのない棒読み。「ロボットみたい」と笑われたが、僕も可笑しかったので、前髪を直すふりして赤らむ顔を隠した。
「でもびっくりしたよね。緑川とケンカしてたの?ガチだったって男子言ってたもん。先生に注意されたのに止めなかったって。ねえ?」
和久田という女子が眉を潜めた。そんな話になってたことに驚いた。
「違う。違う。技の掛け合いで少しこじれただけだよ。ケンカなんか全然。おれ絶対負けるもん」
「けど村上と赤城があれはマジだったって言ってたよ。緑川が仕掛けて、山吹君を怒らせたって」
何それ。
緑川は仕掛けてないし、僕は怒ってない。なのに実体のない同士がやりあったことになっていて、否定しても「ごまかしちゃって」と思っているのが分かるのだ。勝手に肉付けされ、より面白いストーリーに変換されている。ただのへたれなのに、血気盛んな男のイメージが付けられていた。
けれども緑川と襟を取り合っていたあの時間、僕らしくないことをしたはずなのに紛れもなく本気だった。絶対に負けたくなかった。自分らしくないことをするのが本気になるってことなのか。植え付けたイメージの僕は僕じゃないと言えるのに、緑川を倒したかった気持ちは嘘じゃない。プロジェクトのリーダーになって、最初の採決を取った時の気持ちにも似ていた。
さっき鼻血を出したのは誰だろう。確かにまだ残ってる鉄の味を飲み込みながら、これは山吹哲平だよな?と考えていた。
