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ホワイトルーム・オープン・ザ・ドア ⑦


 自習室に戻るのが面倒になった。帰った所で勉強が捗る気がしない。いらない感情をもらった。宮野に相談しようか考えながら歩いていると、二年生の三人組の女子が階段を降りてきた。妙にキャッキャッし「あのカップル、マジ神」と燥いでいた。

「文ちゃん先輩と名木先輩ってヤバくない?顔面偏差値高過ぎるよね」  透明人間みたいに僕の前を素通りしていった。踊り場を折り返して消えていく女の子たちから遅れてきた声。人のいない校舎にエコーする果汁を含んだ声が近付き、名木さんと文ちゃんが一緒に階段を降りてきた。ひとつ上の図書室に繋がる通路がある。昨夜の間違いメールの正しい送り先が判明した。

 僕がいると思わなかった文ちゃんは「どうしたの?」の顔して手を振った。無表情が身に付いているとこういう時助かる。内心はとんでもなく動揺しているが、口許が引きつってる感覚はない。

「あれ…ずっと図書室にいたの?」

 視線が定まらなかった。百瀬の憶測がはっきりしないから文ちゃんのことも真っ直ぐ見られない。もぞもぞとポケットで手を動かし、落ち着きのスイッチを探した。

『話をしてたんだ』
 
 文ちゃんは名木さんと自分を交互に指差した。そして「またね」と口を動かして名木さんに手を振り、僕の肩に腕を回した。正直ちょっとぞわりとした。二人の何かを僕で中和しないでくれと思ったから。

「周防君ありがとう。お父様に宜しく言っておいて。山吹君夕べはごめんね」

 どちらの返事も待たずに名木さんは階段を降りていった。ぐんにゃりする空気。沈黙に耐えられない僕は、あれえ?とおどけるしかなかった。

「なに?文ちゃん、もしかして付き合ってんの?」

 経験がないからガキになるしかない。できるだけ気安さを装った。すぐに返信が来た。

『付き合ってないよ。父親同士が知り合いで、時々家に来るだけ』 「いやいや、親同士も仲いいなら、もう公認じゃん。それを付き合ってるって言うんじゃないの?」 『ほんとに違うよ。誤解されると名木さんに悪い。僕好きな人いるから』  携帯をこちらに見せた。知らない女の人が映っていた。ここの学校の人ではなかった。

『同じピアノ教室にいた人。今パリに留学してる』

 肩までの栗色の髪。冬に撮影したらしく、白いコートを着ていた。可愛らしい人だったが、名木さんの方がずっと綺麗だった。

「彼女ーなの?」

『十年ぐらい片思い。年下は嫌なんだって。幼く見えるけど二十歳なんだよ』

 文ちゃんは携帯をしまった。角砂糖に蟻が群がるみたいにモテるのに、文ちゃんが彼女を作らない理由が判明した。ずっと秘密にしてたことを呆気なく打ち明けたのは、この数秒間で僕の名木さんへの気持ちを察したからだ。なんでもないと証明するための写真。勘がいいから先回りする。それで僕はまたちょっと自己嫌悪になるのだ。色んな質問が優しさの砂漠に吸収されていった。

 一緒に帰る約束をして、自習室に荷物を取りに行くと「どこまで行ってたんだよ」と宮野が僕のリュックを持って廊下に立っていた。ごめんごめんと謝って受け取り、紐を肩に通した時、呼び出しの放送が鳴った。

「藤崎先生、藤崎先生、お電話が入っております。至急職員室までお戻り下さい。繰り返します…」

 関連があるんじゃないかと思うようなタイミング。今日藤崎先生がどんな服を着ているのかさえ知らないのに、突然頭の半分を占めてくる。

「さっき百瀬とちょっと話したんだけど、白井の家に行くの?」

 らしいね、と宮野は面倒臭そうに頷いた。あまり乗り気ではなさそうだった。心ここにあらずな感じで携帯を見ていた。

「白井が藤崎先生と揉めてたって知ってた?」

「よく愚痴ってたよ。ぜってーあいつのこと殺してやるって。おれを逃したこと後悔させてやるってさ」

 宮野もかよ。知らないのは僕だけだったらしい。

「じゃあ不登校の原因ってそれかな?」

「どうだろ。辞めたの一年ぐらい前だからな」

「おれよく知らないんだけど、藤崎ってヤバイの?」

「評判はよくないな。一部の女子からは、まー君とか呼ばれてるけど」

「まー君?そんなキャラだったっけ?」

「全然。でも女子バスからは好かれてる。うちのクラスの高岡も「まー君可愛い」とか言ってるし。女子の可愛いの基準はよく分からん」

 緑川チームの高岡はショートカットでいつもニカニカしてる元気系。よくも悪くも真っ直ぐな性格で、推しの男性アイドルを少しでもけなすと本気で怒る。とはいえ可愛いを演じてるアイドルが可愛いなら分かるが、どうして藤崎がそれと同等になるのか。

「女子はなんでも可愛いって言うからな。自分も言われたい願望なのかね。
可愛いと言ってる私も可愛いでしょみたいな。そんなことしなくても男はちゃんと見るとこ見てるけどね」

「マジで?例えばどこ?」

「それは言えねえ。でもちゃんとある。おれなりの判別法が」

「宮野はちょっと変わってるからな。けど教師の資質が問われるよ。そう考えるとツカさんみたいな人が先生辞めちゃうのほんと勿体ない。おれが今まで出会った中で一番いい先生だよ。熱血じゃないけどちゃんと指導してくれるし、突き放すようなこと言っても必ずフォローしてくれるから、相談してみようって気になるもんな」

「ほんと。ツカさんいなくなったらこの学校の価値もぐんと下がるよ。ホワイトルームの件にしたって、かなり強引だし、苦肉の策なんだろうけど、思いやりを感じるもんな。生徒を学校に来させるのは担任の仕事なんだろうけど、それを上辺だけでやってるのと、そうでないのはこっちにも分かる。来ない理由は多々あっても「見捨ててないよ」って伝え続けることで復帰もしやすくなるだろうしさ。口ではどんなにうまく取り繕ったって、本性は行動に出るからな」

 腹にずしんと来る。なかなか行動しない僕を宮野にはどう映ってるのか考えるのが怖かった。鋭い奴といるとたまにいたたまれなくなる。

 階段を降りてゆくと、昇降口の隅に文ちゃんと鎧塚先生がいた。深刻な話なのか、いつもにこにこしてる文ちゃんから笑顔が消えていた。僕らは会話が終わるのを待った。やがて先生は文ちゃんにA4サイズの茶封筒を渡し「まだ時間はあるけえ、じっくり考えろや。お前に問題はないんやから」と、腕を軽く叩いて歩いて行った。ガニ股にサンダル。七福神の恵比寿様みたいなシルエットがのしのしと廊下に消えて行き、姿が見えなくなってから降りていった。

「なに?どうしたの?」

 声を掛けると、文ちゃんはその封筒をそそくさと脇に挟み、すぐにリュックにしまった。

「ごめん。なんかまずかった?」

 『就職希望してたことがあったんだけど、書類で落とされちゃった』と携帯で送ってきた。僕と宮野は同時に声が出た。

「文ちゃん就職なの?進学しないの?」

『親に負担掛けたくないからそうしようかと思ったんだけど、手話のできる人がいないからって断られた』

 こめかみ辺りを寺の鐘突きでガーンと殴られたようだった。目玉がくるくると高速で回転し、熱くなった喉がぎゅううんと締め付けられた。

「どこの会社だよ、それ。おれが電話するよ。文句言ってやるから教えてよ」

 宮野が文ちゃんに手を伸ばした。僕より早く沸点に到達した宮野は怒りで指が震えていた。文ちゃんは首と手を振った。

「こんなの許していいわけねーよ。文ちゃんはちゃんと働ける人なんだから。なんのための履歴書だよ。特技だの資格だの志望動機だの散々書かせるくせに、備考欄の一行で不採用なんておかしいだろ。よかったよ文ちゃん。そんなクズ企業に就職しないで正解だよ。今時そんな時代錯誤なとこ、どうせすぐに潰れるよ。どうしようもない無知だ。文ちゃんみたいな優秀な人には勿体ない。良識ある会社は他にいくらだってある。文ちゃんじゃなきゃっていう職場が絶対あるから、そんなせまーいせまーい見識しかない杓子定規の会社なんか行かないでいい。行く必要ねえよ」

 目に涙が滲んでいた。こんなに怒るのは、文ちゃんのいい所をたくさん知ってるからだ。「聴唖者」じゃなく「周防文吾」の中身を見ろよ。喋れないけどなんでもできるじゃないか。なんにも分かってないくせに。なんにも。国こそ弱者救済を後回しにする。これが社会かと悔しくて仕方なかった。

「いつでも連絡してよ。何時間でも付き合うから。遠慮しないでいいから」

 駅のホームで別れるすがら宮野は文ちゃんに言った。うんうんと頷きつつも、文ちゃんはしないと分かっていた。以前聞いたことがある。あまりに寛容なので「怒ったりしないの?」と尋ねると、文ちゃんからこんな返事が来て面食らったのだ。『怒りは胃酸で溶かす』と。

 
 ホワイトルーム・オープン・ザ・ドアの先陣を切ったのは百瀬だった。白井が会ってもいいと承諾したので、昼休みに僕ら三人と百瀬のチームメンバーで学食で会議した。情報通で、同じ中学だった連中が最初に行ってくれるのは正直ありがたかった。百瀬は自信たっぷりにプランを話した。

「けどまあ、今日は様子見に徹するよ。ボクシングでいうところのマスだね。当たらないようにかますぐらい。宮野っちは行くの?」

「放課後までに決めておく。長居しないよな?おれ今日寄るとこあるから」

 いつも弁当の宮野が珍しく学食でラーメンとコロッケを食べていた。麺がなくなった丼のスープをレンゲですくい、散らばるコーンと格闘していた。

「時間制限あるから大丈夫だよ。三十分以内だっけ?白井がそう指定してきたから。な、文ちゃん」

 パイナップルの角切りを食べていた文ちゃんは、緑色のプラスチックフォークをくわえながら『一日のスケジュールが決まってて、三十分ぐらいなら空くらしい』と送ってきた。 なんだその時間?と僕らが笑うと、文ちゃんも首を傾げて笑った。昨日のことを引きずってる様子はなかった。いつもと変わらず淡々としていて、切り替えたんだなと分かるから、僕もその話題を持ち出さなかった。

「ところでさ、白井は知ってんの?自分を外に出させようとするプロジェクトが発動してるって。本人許可の元でやってんの?」

 スープを飲み終えた宮野が顔を上げた。文ちゃんに注目が集まると『僕は言ってない』と首を振った。なんでみんなそこに気付くのかと、僕はそっちの方が気になったりする。このままやっていいんかなあ?と宮野は続けた。

「今は知らないとしても、急にガヤガヤ来るようになったらおかしいと気付くよな。ツカさんはゲームじゃないっていうけど、本人がゲームらしきものに巻き込まれてるって勘づいたら、さらに閉じこもるんじゃねえか。それで傷つけねえかなあ?だったら最初から審査的に待ち構えてもらってる方がおれとしては楽だわ。ツカさん、そう言ってくれないかな」

「マジで?おれは知らないままの方がいいんだけど。百瀬も知ってていいって言ってたもんな。それはなに?プロレスしようぜ的なこと?」

「おれは戦略で勝利を収めたいんだよ。古傷えぐるかもしれないけど原因探るなら避けられないし。宮野っちはそれでもイジれるの?」

「そうなると、本人が行きたいのかどうかで受け取り方が変わってくるよな。いいきっかけをもらったと思えば、自分の好きな奴が迎えに来た時に行けばいいんだから。お互いwin win になるんじゃねえの」

「そこまで割りきれる?人間不信にならない?」

「それは個人差あると思うけど、クラス全員が卒業させようとみんなで力合わせてんだ。それに対してプロジェクトなら動かないとかガキ過ぎるだろ。そこまでひねくれてるようじゃもう救いようねえよ」

 一番すんなりまとまると思ってたチームなのに案外がたついてる。なんとなく気まずくなった時、文ちゃんの携帯が鳴り『ごめん。石黒君チームから呼び出し』と箸をしまって弁当箱を片付けた。

「結局石黒もやるんだな。ケツ蹴られたのかね」

 ぎいぎいと椅子を後ろに揺らす百瀬に佐々木だけが笑った。文ちゃんは青と白のギンガムチェックのランチバックを持って立ち上がると『またね』と学食から出ていった。

「おれやっぱ今日パスするわ。明日どうだったか教えて。キッペイは会議いいの?あっちにかめりんいるよ」

 学食の入り口に亀山が立っていた。今日もでっかいヘッドホンを装着し、感情の読めぬ表情でじっとこちらを見ていた。短いスカートから伸びる白樺の足は、誰かを待ち構えるような立ち方だった。百瀬はぷっと吹き出した。そして僕に「がんばれ」と小さく囁いた。
 
 なんかムカッとした。コイツ結構やな奴だったんだな。今までどちらかといえば話しやすい方と思っていたのに、なんかうんざりしてくる。これ以上百瀬に失望しないうちに離れることにした。
 
 宮野と一緒に歩き出すと、亀山は待っていたように、さっと手を上げた。やはり僕に用があるようだ。亀山のことは今も苦手だし、話が弾む相手ではないけど、百瀬と同類になりたくなかった。「どうしたの?」と歩み寄っていった。

 「先行ってるわ」と宮野は学食を出ていった。僕と亀山も場所を変えることにした。人目を気にしてではなく、出入口は単に邪魔になるからだ。

 パターンのない僕は最初に集まった美術室の前に移動した。廊下を歩いていると「かめりーん、かめりーん」と三年の男子が冷やかす。けど亀山はガン無視。アイドルのくせにめちゃくちゃ愛想悪い。にっこりもしないし、手も振り返さない。文ちゃんの方がよほど人気者に徹してる。こんなにサービス精神ゼロなのに、なんでアイドルやってるんだろと不思議なほどに。

 亀山はヘッドホンを首に掛けると「密告しに来た」と舌足らずに言った。声量がないのでひよひよひよひよにしか聞こえない。なに?と耳を近付けた。

「思い出したんだけどお、ストーカーしてたかも。白井君。名木さんに」

 聞き取れたがバグって処理できない。ストーカー?ストーカーってなんだっけ?と数秒間、本当に分からなくなった。

「名木さんが白井君に、もうメールしないでって言ってた。白井君しゅーんとしてたもん。知らなかった?」

 知りませんよそんなこと。だが即座に僕だけか?と不安になった。プロジェクトが始まってから、校内の情報の疎さが露呈している。赤城のことも藤崎の件も教えられるまで知らなかった。このことも周知の事実なのか。それさえ知らなくてドキドキした。

「それって…いつぐらいのこと?」

 思い出せるのか、自分にも聞いていた。

「去年の体育祭の前の日。名木さん赤団の応援団やってたから学ラン着てて、白井君も体操服だったから。あたし練習の時に具合悪くなって保健室で寝てたんだけど、外に水筒忘れちゃって、取りに行こうとした時に、あそこの階段の下で二人で話してたの」

 亀山は二年生の教室がある南校舎を指差した。確かに保健室までの通り道だ。同じ赤団だったから名木さんの応援団姿はしっかり記憶に刷り込んである。この気持ちを定着させた美しい勇姿を忘れるわけないが、さすがにそんな話を見聞きしていたら、真相を確かめようとしたはずだった。

 新たな火種。事実ならとんでもない。名木さんのプロジェクト参加は来なくなった原因が自分にあるから?じゃあやっぱり名木さんが行けば終わるのか?藤崎も赤城も関係ないの?錯綜する情報に僕は黙り込んでしまった。

「文吾君は知らなかったのかなあ。名木さんとも白井君とも仲いいのに」

 どうなんだろうとぎごちなく笑うしかなかった。僕の反応も伺われてる気がした。真ん中の一番後ろの席にいる亀山はみんなの背中以外のものも見えてるのかもしれない。例えばクラスの相関図。無意識に名木さんに向いている不埒な首の角度もキャッチしていたのかもしれなかった。

「情報ありがとう。けどそれは名木さんの問題でもあるから、一旦保留にしよう。もう少し精査しないと、プライバシーの侵害になってもアレだから…」

 亀山はペンギンみたいに口唇を突き出した。せっかく誰も知らない秘密を提供したのに、優柔不断なリーダーのせいで採用に至らない。なんなんだよと思って当然だった。けれどもなぜか亀山は教室までずっと僕の隣にいて、携帯に保存してある4匹の愛猫の写真を見せてきては、その子たちの可愛いエピソードをずっと喋っていた。今聞いた話のことで頭がいっぱいだった僕は、どれが茶々で、どれがウメコで、どれがサブローで、どれがトトなのか、さっぱり区別が付かない。息の漏れる舌足らずのせいもあって、回転不足の扇風機の羽の音にしか聞こえなかった。