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ホワイトルーム・オープン・ザ・ドア ⑳


 どことなしに燥いでいる教室に、サイズ違いとしか思えぬ、腹のボタンがはち切れそうな燕尾服の鎧塚先生が入ってきた。クラス中が大爆笑した。

「インチキ魔術師」「世界三大テノール」「ハンプティ・ダンプティ」
 あだ名の応酬で、五分以上笑いが止まらなかった。

「なんや。ええやろ。みんなの記憶に残るように決めてきてやったぞ」

 先生は得意そうに襟を伸ばして顎髭をちょいちょい触った。

「卒業式で笑っちまうよ。それでおれらの名前呼ぶんだろ?」
 石黒が言うと「見えないとこに立ってて」と富里も泣き笑いした。

「卒業式やからって泣かんでもええんやぞ。笑とけ笑とけ」

 そうして腕時計を見て「式まであと二十分か。さて、じゃあ始まる前にひとつ済ませておくか」と二度手を叩き「白井」と呼び掛けた。白井は自分を指差すと、もぞもぞと姿勢を正した。

「一緒に卒業できんかったのはほんまに残念やったが、今日この日に全員が揃っとるのは誠に喜ばしいことや。ええ眺めじゃ。空席がない。わしは嬉しいぞ。心からな。そいでな、どういう心境の変化があって学校に来ようと思ったのか、良ければ聞かせてくれんか」

 プロジェクトの勝利チームの発表であった。誰が、何が、心を動かしたのか。別にもういいんだけどと思いつつも、やっぱり知りたくはあった。そうっすねえ…と白井は後頭部を掻くと「正直、こいつらなんかやってんなってのは、気付いてたんすよ」と笑った。

「文吾ぐらいだったから。おれのとこにくるようなもの好きは。けど急にわらわら顔見せるようになって、おかしいな、なんなんだこれって疑ってたんすけど、文吾は絶対教えないし、なのに文化祭の内装やってくれとか言ってくるから、ああおれのこと学校に来させようとしてるんだなって。それでダブりも決まったから、最後だし見ておくかって思ったのが、きっかけといえばきっかけですかね」

「けどそのあとも毎日来てるじゃん。それはなんでなの?」

 後ろから百瀬が尋ねると「うーん」と白井はまた髪をいじった。

「一番大きかったのは、ツカさんが今年で辞めちゃうってことかな。こんな奴のこと見捨てないで、ずっと寄り添ってくれた。ほんとに感謝しかない。毎日電話して、週に一度は家に来て、よくやるよと思ってたけど、こんな先生どこにもいないもんな。とにかく学校にくれば日数に入れてやるからって、夜の九時まで職員室でおれのこと待ってるんだぜ。散歩がてらにたまに行くと、進路指導室でマンツーマンで授業して、校庭一緒に走ったりして、なんとか卒業できるよう呼び掛け続けてくれた。分かってたけど行けなくて、ちゃんと応えてりゃあよかったなって今は思ってる。みんなもありがとな。おれも今日卒業式に来られて嬉しいし、やっぱり、先生の最後の生徒でいたかったんすよ」

 勝利者に誰も異論はなかった。僕も先生が好きだから当たり前の気持ちで通えていた。悩んでもいい。迷ってもいい。自分に自信がなくてもいい。未熟で流されやすくても「それでええ」と受け止めてくれた。けどそれで成長を止めるなよとも言っていた。それがこのプロジェクトだ。三年四組は個性が強い人間の集まりだから、能力は個々に伸ばせても、社会に出た時に求められるのはチームワークだ。いつもそれが足りなかった僕らに、他者と関わり、最善を見つけてゆくプロセスを体験させた。大人になる予行練習を。
 
 以前文ちゃんが就職を断られた時に「何も知らないくせに」と怒り狂ったが、僕も「不登校」について何も知らないまま「本人のせい」にしていた。
でも不登校は現状であって悪ではない。だから未来も変えられる。事情もあったりなかったりで、ちゃんと登校してる方が色々抱えていたりもする。それを知っただけでも僕はちょっと成長できたはずだった。
 扉を閉め切っているのは白井ばかりじゃない。お前らも外に出てみろ。それがホワイトルーム・オープン・ザ・ドアのメッセージだ。先生が渡したかったこと。ちゃんと受け取れてよかった。

 入場した体育館では吹奏楽部が『卒業写真』を演奏していた。揚げ物をしてるみたいな拍手と、記者会見並みのカメラ。不思議に自分の親はすぐ見つけられる。母親だけでなく、珍しく父親も来ていた。紺のスーツで一番前の通路側を陣取っていた。誰にも邪魔させずに撮影できる場所。僕が横を通ると「おめでとう」と言うのが聞こえた。

 先生の計らいと本人の希望で、白井も僕らの組にいた。出席番号順なので、佐々木、白井、周防で文ちゃんの横に座っていた。一組から卒業証書が授与され、二組、三組、と進み、燕尾服の先生がマイクの前に立つと、ふふ…っと、どこからともなく笑いが漏れた。僕もそっちを見ないようにした。

「三年四組。赤城圭一」

 はい、と立ち上がり、赤城はステージへ歩いていった。石黒賢章。岡田勇樹…と一人ずつ名前を呼ばれ、佐々木がステージ脇へと移動した後だった。

「周防文吾」

 先生が呼ぶと「はいっ」とでっかい声がした。体育館中に響き渡った声。
白井だった。文ちゃんは少し笑いながら白井の肩を叩いて壇上へ向かった。万感の思いが詰まった返事。会場からは拍手が起きた。

 へへという顔で白井は座っていた。このために隣にいたわけね。証書を受け取る文ちゃんを満足そうに見ていた。なんにしろ、留年生が卒業式に出席して堂々と返事したのは白井が最初で最後だろう。けどこれを許しちゃうこの学校は素敵だ。「山吹哲平」と呼ばれたとき、白井に負けない声で「はいっ」と立ち上がった。ここにいたことが誇らしい。その気持ちを世界中に披露したかった。

 式の終わった教室は撮影大会だった。宮野の父親に呼ばれて男子だけで撮ってもらったりと、これが最後だからの思い出作りをかき集めた。
 フォーマルな装いの保護者も教室の後ろに揃い、文ちゃんの両親は白井に礼を述べていた。お父さんもお母さんも今日も優しそうだった。僕らも挨拶してそこを離れた時「終わりなんだな、もう」と石黒が言った。

「卒業が寂しいなんて初めて思ったよ。けどものすごく充実してる。見習いたい人ってたくさんいるんだな。白井の返事泣けたもん。ああいうのためらわずにできる人間になりたいなと思ったよ」

「ほんと。でも上級者レベルだよ。あれは」

「光の中 ひとり歩くより、闇の中 友と歩く、か。ヘレンケラーの名言でさ、最近この言葉が刺さるんだよな。火事のあと、ほんとみんなに助けられたから。おかげで今は落ち着いて、おれも大学に行ったらバイトして早く自立するつもりだよ」

 その時に「ねえ石黒君アドレス交換しよう。大学近いから会おうよ」と高岡が携帯を出して言った。

「え?おれ?ああうんいいよ。えっと…待ってね」

 オタオタする石黒が可愛い。もしかしてカップル誕生?ニヒニヒと見てると「ねえブッキー写真撮ろう」と富里が呼んだ。

「緑川君、シャッターお願いしていい?山吹チームで一枚ほしいから。ねえ小坂ちゃん、しみっちゃん、かめりーん、リーダーと記念撮影しようよ」

 両親が見てる中、両脇三人ずつの女の子に挟まれて写真を撮るのは超恥ずかしかった。にっこり笑えるほどこなれてない僕は、スマイルでピースする女の子の真ん中で、おのぼりさんみたいに顔を赤らめて直立していた。周りはげらげら笑っていたけど、本当は泣きそうだった。このチームで楽しかったの笑顔に。自棄になって消滅させないでよかったと、心から思った。

「やっぱり座敷童子おったなあ」
 
 教室に戻った先生が言うと「今日はいたかもしれませんね」と白井は笑いながらとぼけた。黒板はみんなが書いたイラストやメッセージで埋まっていた。ありがとう。元気でな。忘れない。それがやたら胸に来る。その言葉たちを背に、先生はひとりひとりにアルバムと証書を手渡した。全員に言葉を掛けながら。

「学級委員お疲れさん。お前がしっかりやってくれたおかげで全員揃った。家は大変やったけど、人生まだまだこれからや。頑張れよ」

「お前がいるだけでクラスがいつも明るかった。遅刻さえ直れば完璧や。管理人ご苦労な。お前は世界中と友達になれる男や。頑張れよ」

「冷静沈着で我慢強い。お前が舵を取れば周りは迷わんでいられる。お母さんも誇りに思っとるぞ。頑張れよ」

「か弱そうにしてなかなかの策略家や。武道館立ったらアリーナから手振るからな。個性磨いて世界引っ張れよ。そのままでええぞ。頑張れよ」

「最後まで高嶺の花でいてくれたな。お前がおると周りもしゃんとする。副委員長お疲れさん。自分を大事にな。頑張れよ」

「歩くかんしゃく玉。黙っとけば可愛ええのによ。けどお前にしかない視点がある。その感性は大事にしろ。もちっと静かに頑張れよ」

「ああこれはこれは菩薩様。私のような下々の人間が手渡しで恐縮です。あなた様のおおらかな心には大変救われました。今後ともどうぞごひいきに」

 そしていよいよ「山吹哲平」と呼ばれた。何を言われるかドキドキしながら教壇の前に立つと「ええ顔になったの」とぼそりと言った。

「わしでも手を焼くかしまし娘をようまとめたな。お前が一番の功労者や。
その気なればできるが強みじゃ。いつでも鼻血出すぐらい本気出せ」

 アルバムを受け取ると先生は手を差し出した。握手をすると力強く掴み「頑張れよ」と笑った。ありがとうございました。告げたいのに声が震えて詰まった。

 全員分渡し終えたと思ったが「白井亮明」と先生はアルバムを教壇に置いた。「残念ながら卒業ではないアルバムやけど、お前の分もあるから取っておけ。白井はここの創立以来、復学後に修了時まで教室に通いきった生徒や。前例がない。もう一回三年生をやるのはしんどいかもしれんけど、このアルバム開いて仲間がおると思い出せ。お前ならできる。頑張れよ」

 白井は差し出されたアルバムをためらいがちに受け取ると、くしゃくしゃの顔で口唇を噛み、袖で目を擦った。

「今度こそ、絶対…。ありがとうございました…」

 頑張れよ!赤城に続いて僕も宮野も全員でエールを送った。本当に頑張って欲しかった。いや、こいつならできると、もう自信持って言えた。

「さて、これでわしの役目もようやく終わったな。みんなほんまにおめでとう。先にも話した通り、わしは今年度で教職から離れる。お前たちが最後のクラスで最後の生徒や。寂しいけど、最後に当たりくじ引いたと思っとる。このクラスの担任でいられた二年間、ほんまに充実しとった。全員が揃う最高のプレゼントももろたしな。ありがとな。心からお前らが可愛いぞ。いとしいぞ。保護者の皆様、本日はお忙しい中ありがとうございます。そしておめでとうございます。皆さんのお子さんは素晴らしい成長を遂げましたよ。思いやりのある優しい子ばっかりです。自慢の生徒です。褒めたって下さい。褒めてやったって下さいね」

 拍手と嗚咽と啜り泣き。なんで僕は今日に限ってハンカチを忘れたのか。拭っても拭っても追い付かないほど涙が止まらなかった。

「じゃあ花道の用意もできたみたいなんでそろそろーの前に、ちょっと報告が。名木、文吾」

 先生に呼ばれた名木さんと文ちゃんは前に立った。グレーのハンカチで口元を押さえていた名木さんは目が真っ赤だった。呼吸を整えようと無理してる肩。ハープの琴線のような髪は美しく艶めいていた。左横の文ちゃんは泣き顔をして見られぬよう、前髪を手でいじったり、上を向いたりと工夫していた。それが可愛くてつい笑ってしまったが、なにが始まるのかと見当がつかなかった。

「えー実はな、この度名木と文吾が結婚を…」

 えー!とクラス中が叫んだ。僕は反対に息を吸い込んだまま止まった。だがすぐに「違います!違います!」と高速ワイパーぐらいに名木さんは手を振った。文ちゃんは「ありがとうございます」と言うように左右に頭を下げた。違うか、はは、と先生はインチキ魔術師みたいに笑った。

「美男美女なんやけどな。実は名木はオーストラリアに移住することになった。留学というより、もうあっちに住むんやな?」

 はいと名木さんは頷いた。「メルボルンに親戚がいて、そこに引っ越すことにしました。しょっちゅう会うことはできなくなっちゃうけど、同窓会とかあれば出席するので是非声をかけて下さい。みんなも旅行とかで来た時は連絡下さい。案内できるようにおいしいレストランを見つけておくので、一緒に行きましょう」

 ぐわーんと頭からジェットが飛び立った。もう会えないんだ。叶わぬ思いと知ってはいたが、こんなに離れてしまうとは。本当にドアを開けて出ていったんだ。全てにさよならして。古い殻を捨てない限り羽は広げられない。
僕がそれを捕まえておけるわけがなかった。

「そいで文吾はスペインに留学することになった。美術品の修復士の勉強しにな。わしの知人でそっち方面の仕事やっとる人がおって、面倒見てもらえることになったんでな。今月末には向こうに発つ。厳しい世界やけえ六年ぐらいはみっちり修行することになるやろうけど、やり甲斐のある仕事や。応援したってな」

 文ちゃんはニコニコしながらメッセージだらけの黒板を指した。本人が書いた言葉の横には、サグラダ・ファミリアらしき建造物の絵があった。
『元気でね。みんな愛してる』そして僕らに投げキッスして手を振った。

 花道に行く前にアルバムを開くと最後のページに白い封筒が挟まっていた。報酬と書くわけにいかないからか、最初からそのための費用だったのか「学年費代返金」と書いてあった。中には参加費の一万円が入っていた。正直もうお金のことなど忘れていたが、ああ終わったんだなとそれで実感した。

 
 そのお金は旅行費用になった。ゴールデンウィークに赤城の呼び掛けで鎧塚先生の農園に収穫の手伝いをしに上高地へ出掛けた。クラスメイトの1/3が参加した。レンタカーで大型ワゴンを借り、免許のある奴が交代で運転した。運転に向いてない僕は高速以外を担当した。助手席の富里がハイチュウを食べさせてくれたり、サイダーの蓋を開けてくれたりした。女子大に進学した富里は髪を茶色く染めて、化粧もし、シャンプーなのか香水なのかうっとりするフローラルな香りを漂わせていて、女性徒の総称ではない「女子」へと変貌していた。

「ブッキーは変わってないね」

 ただの感想で褒め言葉はない。制服をして脱いだみんなは垢抜けていた。新天地で楽しくやっていた。まだ日は浅いが、めいめいが持ちよった大学生知識や戦利品をひとつは手にしてるのに、僕だけが手ぶらだった。
 入学してから今日まで事務員さんと学食のおばさんとしか喋っていない。入りたいサークルもなく、コンパにも興味ないからいつも単独行動。家と学校とバイト先の家電量販店の倉庫を往復するだけの毎日で、喋ることを忘れそうになってた。気兼ねない友人との旅行を心待ちにしていたが、僕は車内でもっと無口になっていた。

 レタス畑は敷地の境界線が見えぬほど広かった。頭にタオルを巻く先生は
馴染みの白いポロシャツにカーキのカーゴパンツで僕らを待っていた。違うのはサンダルじゃなく長靴を履いてるぐらいだった。

「遠いとこすまんのお」

 奥さんと小学五年生の娘と一年生の息子も畑で作業していた。僕らが挨拶すると娘さんは恥ずかしがって母親の後ろに隠れてしまったが、麦わら帽子がやたら似合う息子は「よーき、来たのう」と可愛らしい声で歓迎してくれた。収穫の最盛期なので、僕らも長靴に履き替え、軍手を嵌めてから、やり方を教わって早速始めた。

 弾力があって、結玉の固さが八割ぐらいのものを、頭の部分を軽く押さえて包丁を使って下方から切る。切断箇所から出てくる白い乳液をタオルで拭き取る。軽量野菜に分類されるレタスは専用の農機具が開発されていないので、屈めながらの作業にすぐに腰が痛くなった。けれど久しぶりの土いじりは懐かしく新鮮で、時間を忘れて没頭した。日が暮れる頃には心地いい疲労感に包まれて充実感を味わった。けど十三人の刺客がいても半分も終わらなかった。葉がしなる前に全部収穫するのは大変だが、明日もまたできるんだと思うと遠足前の子供みたいにわくわくした。

 お世話になる奥さんの実家はいかにも田舎の豪農といった数寄屋造りの大きい家だった。回廊がぐるりと屋敷を囲んであり、どことどこが繋がってるか分からず、みんな何度も迷子になった。

 居間には楕円形の長テーブルが二つ並び、そこでわいわい食事をする。合宿所のように三台の炊飯器と、炊き出し用ぐらいに大鍋にみそ汁がなみなみ
注がれていた。小坂や富里は手際よく盛り付け、意外にも料理が得意気だった緑川がレタスを使った炒め物や春雨サラダを作ってくれるので、食卓の上は色鮮やかなメニューで溢れ落ちそうだった。赤城は子供の相手が上手で、石黒は勉強を教えるのがうまい。宮野は力持ちだから作業が早い。僕は誰でもできる皿洗いに従事する。先生はありがとなと言ってくれるが、ありがとうぐらいしか僕には掛ける言葉がない。
 その居間には卒業式で配られた名簿が額に入って飾ってあった。あなたにとって人生とはの一言が記されている。


  赤城圭一  楽しんだもん勝ち
  石黒憲章  諸行無常
  亀山李子  多分なんとかなる
  小坂澄乃  無限の可能性
  周防文吾  なんでも一度は見てみたい
  富里由利  出たとこ勝負
  名木聖菜  Will 
       緑川翔樹  敗者復活戦
  宮野幸寛  永遠終わらないクイズ
  百瀬亘   タイガースに捧ぐ
  山吹哲平  自分次第

 つまんない答えだと思うが、今もそれしか浮かばない。自分次第。で、どうするの?問いかけてもやっぱり何も出てこない。
 二泊して三日目の午後に出発だったが、もっといたくて帰るのが嫌だった。先生は収穫したレタスやクルミのお菓子のお土産に持たせてくれた。
「また来ますね」と挨拶すると「これが最後でええぞ」と言った。

「昔を懐かしむより前に進め。たまーに思い出してくれりゃええ。わしは忘れんから」

 先生らしい毅然とした優しさと分かっているけれど「もう来るな」と言われたみたいで寂しかった。どんどん居場所がなくなる。友達との距離がどんどん離れてゆく。どんなに運転したって辿り着かない。僕が帰りたいのはあの教室だった。あそこに閉じこもって、永遠に出られないままでよかった。


 
 あれから十年が過ぎて、僕は二十八歳になっていた。もちろんクラスメイトも同い年だ。連絡を取ってよく会うのは白井と富里の二人。仕事終わりに待ち合わせて飲む。全員まだ独身で、仕事場もわりと近かった。
 
 僕にとっても意外な二人だが、一緒にいて疲れない。学生時代のように同意が友達の条件じゃなくなり、反対意見や間違いを指摘してくれることに信頼を感じる。僕はいつも体たらくさを富里に説教され、白井の向上心に刺激される。基本の部分は二人とも変わっていないが、積み木をひとつずつ重ねるようにちゃんと大人になっていた。

 僕はソフトウェアの会社に就職し、サポートサービスの相談業務に就いていた。白井はラジオ局で深夜番組の放送作家になり、富里は主婦向け雑誌の編集者をしている。よく会うようになったのは三年前。ある出来事がきっかけで、止まっていた連絡網に電話が来たのだ。それからちょいちょい集まるようになり、今では月二の仲。連絡ツールもメールからLINE かDMになった。それでしょっちゅう雑談をしてるので、会ったときは元クラスメイトの知りうる限りの近況が話題になった。

 石黒は一度は大手建設会社に就職したが、一昨年独立して起業した。耐火性に優れた布を開発する繊維会社を作り、自ら営業回りしながら七人の社員を引き連れていた。まだ小さい会社だが少しずつ業績を伸ばし、優良企業として市のホームページにも紹介された。劇場やホテルなどと業務提携もし、その技術を生かした新しい実家を両親にプレゼントした。

 宮野は沖縄にいる。工業科から教育学部に進路を変更し、石垣島で中学校の教師になっていた。去年の春に結婚し、相手はなんと小坂だった。沖縄で挙げた結婚式に僕も白井も富里も出席した。とてもいい式で、鎧塚先生は嬉しそうに酔っ払っていた。最後の両親への手紙を読む感動の場面でも小坂の口調はあのままだったので、会場は涙より笑いに包まれた。

「いい嫁だろう」得意気な宮野に「最高だよ」と答えた。本心で。宮野が話していた「おれなりの基準」に賛同していたから。来月生まれる第一子の誕生を僕も楽しみにしていた。