99:1 ②
警備隊に直接見つからずとも、密告によって捕まる。それがこの法律の恐ろしさだった。女性への敬意が絶対のルールであるゆえ、些細な不満すら反逆罪とみなされる。うっかり口を滑らせることさえ、命取りだった。
摘発を効率化するため、密告者にはポイントが与えられる仕組みになっていた。女性保護に貢献すれば100ポイント。それが10000ポイントに達すると結婚の権利が得られる。女性が極端に少ないため、結婚は一部の上級層のみに許された特権だった。一般人がその権利を掴むには、少なくとも100人を密告しなければならない。全員がライバルであり敵。男たちは、女性への悪口はもちろん、制度への不満すら漏らさぬよう細心の注意を払っていた。だが、誰もが口を噤んだ結果、ほとんどの男性は生涯独身で過ごすのが現状だった。
ポイント加算の手続きに向かう黒髪の若者の背中を、ロシアンは見つめた。満たされたはずのお腹が、悲しみでいっぱいになった。捕まったシェフは、自分を慰めようとして口を滑らせただけだ。決して女性を侮辱したわけではない。けれど彼に妹がいるのなら、すぐに戻ってこられるかもしれなかった。家族に女性がいれば、免罪や恩赦を受けやすくなるからだ。要請があれば、即日釈放されることすらある。
それほどまでに女性の力は絶大だった。警察や政府よりも強い決定権を持つ。憲法すら容易に書き換えられ、毎年新しい法律が作られる。彼女たちの地位をさらに高めるルールを次々と制定していった結果、完全なる女性上位社会が確立されていた。
数では圧倒的に勝りながらも、男たちの居心地は悪い。子供のロシアンもそれを痛感していた。家族に女性がいる場合は特に。妹のミヌエットのおかげで暮らしは裕福になり、どこへ行っても優遇される。だが、そのすべてが妹の恩恵だと思うと、なんだか悔しい。自分という存在がどこにいるのか、時々分からなくなる。
午後四時、パーティーはお開きになった。ミヌエットが客を見送るはずだったが、早起きしたせいか、眠り込んでしまっていた。ソファで横になる彼女を覗き込み「なんて可愛い寝顔」「天使の休息だ」と客たちは微笑ましそうに目を細める。お土産のケーキを配る手伝いをしていたロシアンにも感謝の言葉をかけられるが、それがついでであるのは分かっていた。自分はミヌエットの付録でしかないと。
帰宅するなり、ロシアンは窮屈な服を脱ぎ捨ててTシャツと短パンに着替えた。ようやく訪れた自由な時間。外へ飛び出し、自転車に跨がった。このムシャクシャした気持ちを晴らすには走るのが一番だ。
風を切ると気持ちいい。まとわりついていた煤が剥がされてゆくようだった。この時間はただのロシアンでいられる。サッカーが好きで、今年で八歳になるただの少年に。
広場で友達のミケに会った。ミケも暇というので一緒に自転車で走り出した。夏の初めは夕暮れが長く、いつまでも明るいのがいい。町外れの森にあるいつもの遊び場へと向かい、ターザンごっこで盛り上がった。けやきの枝に伸びた蔦に掴まって、ウリャー、 ドリャー、と叫びながら木から木へと飛び移る。スリルあるジャンプは何度やっても飽きない。繰り返し飛距離を競った。ターザンごっこの後は小川で水切りをした。平べったい石を選んでサイドスローで投げると、水鳥のようにピョンピョン飛んでいく。ミケは水切りが得意だった。川面を七回もバウンドさせる。
「ミケはうまいなあ。どうやったらそんなに飛ぶの?」
「滑らせるように投げるんだよ。軽く放るんだ。コマを回す時みたいにさ。紐をひゅって抜くだろ?それと同じ」
ミケは手首の動きを見せてから、近くの石を拾い、流れるような動作で川へ放った。チョン、チョン、チョン、チョン……と、意志を持っているかのように石は向こう岸へと跳んでいく。「な?」と笑うミケを真似てロシアンも投げてみたが、同じようにやっているつもりでも、三回以上跳ねさせることはできなかった。
やがて手頃な石が見つからなくなり、あてもなく自転車で町を走った。すると、酒場の壁にサーカスのポスターを見つけ、ロシアンはスピードを緩めた。
「ねえ、サイベリアンサーカスが来るよ」
ロシアンがポスターを指差すと、ミケも慌ててブレーキを掛けた。
「ほんと?いつ?」
「来月。ねえ一緒に行こうよ。またクマの玉乗りやるかな。大きくて迫力あったよなあ」
「ライオンの火の輪くぐりもすごかったよね。わあまた見られるんだ」
ポスターには、オレンジ色の星模様の服でステッキを掲げるピエロと、三角帽子を被った象やライオンやクマが描かれていた。ロシアンはそのポスターを見ただけで、浮き足立ってくる。
数少ない子供たちを健やかに育てるため、個人主義を助長するデジタル文化がほぼ排除されていた。手本にしたのは1960年代。高度経済成長を迎え、中流階級が増えたリベラルな時代。戦争が終わり、平和で安定した暮らしを送る人々が、平均的な豊かさを享受していた年代。家族は仲睦まじく、近所や学校、会社での人間同士のコミュニティが何より大切にされていた。そんな「古き良き時代」をここに再現したのだった。
連絡ツールとしての携帯電話やパソコンはあるが、アクセスできるコンテンツは極めて限定的だった。特に「女性」というワードや、SSM以前の世界に関する情報は閲覧禁止。他国との通信も完全に遮断されている。オンラインゲームなど存在すら知らず、子供たちはいつも自分たちで遊びを考えた。
半年に一度やってくるサーカスは、住人たちにとって最大の娯楽だった。動物たちの曲芸、おどけたピエロのお手玉、高所を舞う空中ブランコ。どの出し物も刺激的で、たまの失敗すらご愛嬌だ。以前、猿がバナナで足し算の答えを並べる芸で、解答前にバナナを完食してしまったことがあった。会場は大爆笑に包まれ、ロシアンたちもお腹を抱えて笑った。
「またコラット来るかな」
ミケはピエロの隣の人物を指差して言った。ロシアンはどきりとした。
「そりゃあ…人気者だから、来るんじゃないかな」
わざと視線を合わせなかった。ポスターの右側にいるティンカーベル。それを目の端に捉えながらも見ていないふりをした。
「可愛いもんなあ。本当に妖精みたいだもん。女の子なのにサーカスで働いているなんてすごいよね。ああ早く人を浮かせるマジックが見たいなあ」
体を揺らすミケから目を逸らし、ロシアンは自転車のハンドルを握り直すと 「なあ、もうひと回りしてこようぜ」とぐいとペダルを踏み込んだ。
「わあ、待ってよー」
二人は再び街路樹の立ち並ぶ住宅街の広い道路を走りだした。ロシアンは足を動かしながらも胸がずっと高鳴っていた。瞼に焼き付くコラットの姿が前へ前へと走らせる。彼女を思うとじっとしていられなくなるのだ。
一年前に見たサーカスで、コラットは大男を宙に浮かせて会場をどよめかせた。ティンカーベル風の羽の付いたレモン色の衣装がとても似合っていた。金色の巻き毛に黒曜石の瞳。先端に星が光る棒を振る天使にロシアンは一目で心を奪われた。コラットはサイベリアンサーカスのアイドルで、彼女目当てに来場する客も多かった。
また会えるんだ。思わず顔がにやける。ロシアンは気付かぬうちにサドルからお尻が浮いていて、夜更けまでずっと走っていたいと思った。
♢♢♢
翌日の月曜日は担任のソマリ先生のお別れ会だった。お腹に赤ちゃんがいて、産休に入るのだ。優しい先生がいなくなってしまうのは悲しかった。
人口減少が深刻な現在、妊婦の健康確保が最優先され、妊娠が発覚すれば即座に産休に入ることが義務付けられていた。医師と助産師が常駐する専用施設に入所し、栄養管理された食事と適度な運動をしながら、ストレスのない環境で出産までの時を過ごす。どんなに責任ある役職に就いていても、例外は認められない。 あと二か月で終業式だが、ソマリ先生は学校を離れる。
「先生はやっぱり、女の子が生まれてほしいの?」
女子生徒が尋ねると「どちらでもいいわ」と先生は答えた。
「でも、女の子が生まれたらたくさんお祝いがもらえるよ」
「そうね。でも今は赤ちゃんが減っているから、男の子でも色々とお手当はもらえるのよ。女の子よりは少ないけどね」
「ねえ、先生の赤ちゃんが生まれたら会いに行ってもいい?」
「もちろんよ。みんなでいらっしゃいな」
にっこりした直後に先生は両手で顔を隠して泣き出した。もらい泣きする二人の女子の横で、男子は戸惑いながら側に立っているだけだった。
翌週、新しい担任として元気な男性教師がやってきた。生徒たちがようやく打ち解けてきた矢先、その先生もわずか三週間で姿を消した。「女性侮辱罪」で逮捕されたのだ。パブでのビリヤードで女性相手に完勝したのを気遣いの欠いた侮辱とみなされた。それについて誰も口にしないが、ロシアンは子供心に、この国の行く末に強い不安を抱かずにはいられなかった。結局、教頭先生が担任代理を務めて二年生を終えた。
そして七月の終わり、サイベリアンサーカスが町にやってきた。ロシアンは公演の二日分ともチケットを確保した。本当は家族全員で行きたかったが、「ライオンが襲ってくるかもしれない」という母親の反対で叶わなかった。一度もサーカスを見たことがないミヌエットは、一瞬だけ寂しそうな顔を見せたが、何も言わずにプリンを口に運んだ。
広場では朝から黄色いドームテントの設営が始まっていた。天辺から六方向にガーデンフラッグがなびき、アコーディオンと小太鼓が陽気なマーチングを奏でていた。風船を配る着ぐるみのクマ。テントの周りにはホットドッグやジェラートやチキンレッグの屋台が立ち並び、似顔絵描きにも人だかりができていた。一大イベントのサーカスは、女性はイブニングドレス、 男性はスーツにネクタイで正装する。ロシアンもミヌエットの誕生日パーティーで身に付けた水色のシャツとグレーの半ズボンに着替え、美容師のミケのママに髪をセットしてもらった。ドレスアップした人達が群がると、通りは一層華やかになった。
開演前、ロシアンとミケは会場の周りを探検していた。コラットに会えるかもしれない期待に胸を膨らませて、テントの裏側を覗ける場所を探した。けれど動物たちの脱走を防ぐための高い柵には赤と白の幕が厳重に張られ、中の様子は窺い知れない。何度もジャンプしてみたが、二人の背丈では到底届かなかった。残念だったが、本番で輝くコラットを見に来たんだからいいやと締めた。
「ねえジェラート食べようよ。ストロベリー味なくなっちゃうかも」
ミケに誘われてテントから離れた時だった。布が翻るヒュッという音がした。振り向くと、赤と白の幕の切れ間からコラットが顔を出していた。 クルミの形をした大きな瞳をぱっちり開いてこちらを見ている。
驚愕したロシアンとミケはその場で固まった。陽光に透ける巻き毛が黄金色に輝いていた。惚けたように開く桃色の口唇。吸い込まれそうなまなざしで見つめるコラットは口をパクパクと動かした。けれど声は聞こえない。二人は困惑しながらも、一歩ずつ近付いた。
「コ、コラット?」
彼女はにっこり笑い、再び口を動かした。その形は「ジェラート」と読み取れた。こちらの会話を聞いていたらしく「ジェラート」「食べたい」とサイレントで告げた。屈託のない笑顔から無数の光が弾け、目の前でパチパチ跳ねた。天使のようではなく、本物の天使だった。
「―僕、買ってくるよ」
ミケはジェラートを買いに走っていった。幕から顔だけ出しているコラットと二人きり。彼女はまるで初めて世界を知った子供のような表情で、人懐こい笑顔を向けていた。ロシアンは胸の高鳴りを抑えられなかった。
「ジェ、ジェラート、好きなの?」
コラットは口角を上げたが、やはり声は出さない。確かに彼女は公演中に一度も話さなかった。サーカスは無言演芸なのでなにも思わなかったが、もしかしたら生まれつき声が出せず、だから女の子なのにサーカスで働いてるのかもしれない。そう思うと健気なコラットがさらに愛しくなった。
「コラット!なにしてる」
不意に幕の向こうから男性の太い声がした。きらめく瞳が瞬時に強張った。コラットはまるで狼に見つかった兎のように、さっと幕の向こうに消えた。「早く練習しろ!」と怒鳴り声が続いた。
ロシアンは慌てて周囲を確かめた。警備隊に聞かれたら逮捕されてしまう。そうなったらサーカスは中止になり、コラットにも会えなくなる。ヒヤヒヤしながらも、万が一の時は助けに行こうとその場に座った。そこへ、ジェラートのカップを両手に持ったミケが戻ってきた。
「あれ?コラットは?」
「あ、あ、練習あるって。団長が呼びに来ちゃったんだ」
ロシアンは後ろを気にしながらごまかした。
「えー。せっかくジェラート買ってきたのに」
がっかりと肩を落とすミケを見て、ロシアンも胸が痛んだ。コラットがジェラートを頬張る姿を見たかったのは自分も同じだ。けれど、あの怒鳴り声をミケに聞かせるわけにはいかなかった。ロシアンはミケの袖を引っ張った。
「しょうがないよ。本番近いから。わーおいしそう。あっちで食べようよ」
二人はテントから離れ、賑わう大通りへと戻った。さっきよりも人が増えていた。ジェラートを口にしながら手品グッズの店を冷やかしているうちに、いよいよ開演の時間が訪れた。観客たちが一斉にテントへなだれ込む中、ロシアンとミケはロケットダッシュで最前列の席を陣取った。
客電が落ちると、黄色のツナギを着た小人の鼓笛隊が軽快なリズムを刻みながら会場を練り歩いた。乳母車を押す二足歩行のダルメシアンや、シンバルを叩く猿、お手玉するピエロが次々と現れた。そして、妖精の衣装を纏ったコラットがバレエのステップで登場すると、会場の熱気は最高潮に達した。
コラットー!キュート!みんなの天使!
割れんばかりの歓声の中、彼女が客席へ投げキッスを送るたび、男たちは見えないキスを受け取ろうと身を乗り出した。叱られてしょげていないか心配だったが、彼女は客前に出れば百万ドルの笑顔を振りまき、大男を宙に浮かせるマジックも見事に成功させた。ロシアンは安堵し、コラットが姿を見せるたびに手の平が真っ赤になるほど拍手を送った。
夢のような時間は瞬く間に過ぎ、二人は興奮で口を開けたまま、いつまでもその余韻に浸っていた。
空が桃色に染まりだす夕暮れ。まだ聴こえるアコーディオンの音色を背に歩いていると、向かいから来た黒いハイヤーが傍らに停まって後部座席の窓が開いた。ドレスアップした母親のペルシャとミヌエットが乗っていた、
「ロシアン、これからママとミヌエットおでかけするわ。明日帰ってくるわね」
着飾った母親は赤い口唇を横に広げた。香水の匂いがいつもよりきつい。鼻をつまむのを我慢しながら「どこへ行くの?」と尋ねた。
「オペラを観に行くのよ。パパはおうちにいるから、お留守番お願いね」
その時、サーカスを見に来ていた近所の男性が通り掛かり「おや、お出かけですか?」とペルシャに尋ねた。
「ええ。シンガプーラにオペラを観に行きますの」
「おや。そうですか。サーカスはご覧にならなかったんですか?とっても楽しかったですよ。クマさんもワンちゃんも芸が上手でね、空中ブランコなんかもうドキドキしましたよ。そうそう、コラットちゃんがとーっても可愛くってねえ。本当に妖精みたいでしたよ」
その言葉を聞いた瞬間、ペルシャの表情から笑みが消えた。奥に座るミヌエットも眉をひそめ、不機嫌そうに足を蹴り上げる仕草を見せた。二人とも、サーカスの話題になるといつも露骨に顔を曇らせるのだ。
「急ぎますので、失礼」
ペルシャは運転手に車を出すよう指示した。走るすがらに窓が閉まり、黒い車はスピードを上げて走っていった。まるで邪魔なものを蹴散らすように。
「すごいねえ。オペラなんて招待客しか観れないのに。やっぱり女の子がい
るおうちは違うねえ」
男性の感心したような言葉に、ロシアンは曖昧に笑い返した。まだ四歳のミヌエットが本当に難解なオペラを観たいのだろうか。行進するアヒルの行列や、迫力あるアクロバットの方がよほど楽しい。果てしない理想を掲げる母親の犠牲になっている幼い妹が、少し気の毒に思えた。
